福音 -ς

世迷言よまいごともほどほどにしたまえ』

『私は真剣よ。今までヘヴンが犯してきた罪……私ひとりの命で償えるものじゃないと思うけれど、それでもその罪を背負って、償っていく覚悟もあるわ。……とにかく、私がなんとかします!』

『ふん。威勢だけは一丁前のようだな。そもそも貴様、ゼドに負んぶに抱っこの状態で、それだけの自信が何処から湧いてくるのだ』


 メフィストの鋭い指摘に、う、とシーナは言葉に詰まった。


『まあ良い。非力な肉体を嘆くなら、はがねより強い精神こころを持て。武器を上手く扱えないなら、言葉を巧みに操れ。私は賭け事が好きだ。やってみるが良い。お前の軟弱な力で世界をどう変えられるのか、見せてみろ』


 賭け金だ、とメフィストは懐から金貨を数枚取り出すと、シーナの手に握らせた。


『君とは逆の方に手遊betしよう』


 シーナは、仮面の奥に潜む瞳を見つめる。

 彼の腹のうちは、未だ底知れぬ霧の中。


『──!』

『私を読もうとするな』


 金貨を渡した手が離れていくかと思った矢先、反転したメフィストの手がシーナの手首を掴み、ぐいっと引き寄せた。


『この世には、知らない方が良いこともあるのだぞ。幼い撫子よ』


 身体が勝手に震える。

 恐怖が思考を侵蝕しんしょくしていく。

 道化師の仮面を掛けた表情の読めぬこと、さながら能面の如し。



 †



 池から戻ったシーナは、辺りをきょろきょろと見渡し、表情を曇らせた。


「お兄ちゃんは?」


 身体に合う水にすすがれたからか、シーナの肌はより瑞々しく、よりふっくらと柔らかそうな艶肌に、衣はその美しい白が眩いほどであった。ゼドの付けた牙の痕も、跡形もなく消えてしまった。


「仕事だ」


 本殿の高欄こうらんに腰掛け、煙管をふかす禍津が眠そうに答えた。


「お仕事?」


 何かを察したのか、彼女は途端真剣な顔付きになって禍津に詰め寄った。


「お願い教えて、禍津さん。ゼドは何処へ行ったの?」

「この卑しき神め、禍津を困らせるでない」


 妖狐が二人の会話に割って入り、シーナの前に立ち塞がった。

 答えない禍津。

 シーナが苦しそうに息を吐き出した。


「また、何か危険な所にでも、行ったのね!」

「察しが良いと、損をする」


 禍津が火皿に残った灰を捨てた。

 場所を聞き出したシーナは、禍津に清めの水の礼を述べるや否や、駆け出していく。

 フェンリルが彼女の名を呼ぶも、止まる気配はない。彼女の純粋で真っ直ぐな行動はひどく危うげで、咄嗟に手を差し出してしまいそうになる。めげないひたむきさ、嘘をつかない素直さ。それは彼女の武器であり、弱点でもある。紙一重だ。


「相変わらず、危なっかしいぜ」


 フェンリルが溜息を吐き、頭をかいた。


「あの娘の目は魅惑の目だな。子供らしくもあり、子供とは思えぬ芯の強さを秘めた、何とも美しい目だ」


 禍津が感嘆混じりにそう洩らす。


「多分、ゼドはあの瞳に惚れ込んだのよ。綺麗なものに惹かれるのは、善者も悪者も関係ねぇってことだな」

「ゼドは案外、浪漫主義者ロマンチストだからな」

「ああ……」


 フェンリルは横を向いて苦笑いを零した。


「禍津さん、ありがとよ。ちょっくら、あのお転婆娘のお守りしてくるわ」

「おい、犬」

「だから、犬じゃねえ」


 フェリルが振り返りざま、たまを睨んだ。


「汝、この社に立ち入ったのは初めてでないな?」

「初めてだよ……何が言いてえ」


 含みのある言い方をするたまを尻目に、ポッケに手を突っ込み、フェンリルはさっさと社の石段を下っていく。たまがその後を、てくてくとついていく。


「何故、あの池の名を知っていた」

「なっ、てめぇ、池まで付いて来てやがったのか」

「此処は我が社ぞ。歩き回って何が悪い」


 立ち止まったフェンリルが、キッとたまを睨む。


「当たりか」


 たまは不敵な笑みを浮かべ、前足を舐める。朱色を施された吊り目は弧を描き、髭がひくひくと上下に動いた。


「っち。性悪女狐め」

「往生際の悪い奴だ。ほれ、吐いてしまえ。さすれば楽ぞ?」

「てめえに言う義理なんざねえからな」

「ほぅ……では、今後あの水を貸すことは無いと思え。汝はあの蛇神に、娘の世話を任されているんだろう?」

「この下衆げす野郎……」


 以前シーナを任された際には、ゼドの仕事場を見せてしまい、シーナを争いに巻き込んだ失態がある手前、今回はできる限り穏便にことを済ませたいフェンリルではあったが、この気に食わない女狐に話せばならないということに、ひどく抵抗を覚える。

 ギリ、とフェンリルの噛み締めた口から、奥歯が軋む音が鳴った。


「此処は、ある女神の社だったんだよ」

「我が棲む前の話か」

「そうだ。此処がまだ、ヘヴンの都のなかに在った時の話さ。ちょくちょく、此処に訪れていた」

「汝……堕ち神か」


 たまは眉を寄せ、フェンリルを見上げた。夕陽に照らし出された彼の表情は珍しく、哀愁漂うものであった。


「てっきり、元より魔狼まろうなのだと思っていたぞ」


 たまは訝しげに彼の姿を見る。頭のてっぺんからつま先まで、濃い邪気で満ちている。そんじょそこらの魔物の邪気とは、比較にならないほど禍々しい邪気だ。

 かつてその体を満たしていた正気が完全に抜け落ちることはあっても、これほどまで濃密な邪気に満ちる堕ち神は、堕天使以外では珍しい。堕天使同様、元の力が強かったか、将又はたまた、その怨恨が相当根深かったか。


「俺はヘヴンで神に飼われていた狼だった」

「おい。このこと、大蛇おろちの小僧は知っているのか」

「いや、知らねえよ。誰にも言ってねえ。だから、言いたくなかったんだ」


 たまは、それ以上問うことをしなかった。

 たまにも、他者に打ち明けづらい過去がある。インフェルノに棲む者達は、往々おうおうにして嫌な過去を抱いているものだ。それを無闇に書き出すことは無粋なことだと、たまも承知していた。


「じゃあな。また世話になるぜ」


 ひらひらと手を振り、フェンリルは傾いた灼熱の夕陽の中に、その姿を溶かし、消えて行った。



 †



「待って、フェンリル」

「急げよ。早くしねえと、ゼドの出番が始まっちまう」

「出番? どこに行くの?」

戦死者の館ヴァルハラっつー、アガルタで一番でけえ劇場だ。中に闘技場がある」

「闘技場? ……きゃっ」

「足元危ねえから気をつけろよー」

「言うのが遅いわ!」

「転んでその外套がいとうが脱げでもしたら、すぐ獣の餌食だぜ」

「ひっ」


 シーナは慌ててフードの端を握ると、ぎゅっと強く引っ張って、顔を隠した。この外套は、禍津日神が持たせてくれたものだ。彼の邪気をたっぷり吸わせてあるようで、フェンリルと一緒にいるシーナの正気しょうきを隠すには十分であった。


 山を降りたシーナとフェンリルは、夕立に湿ったスラム街を通り抜け、地下都市アガルタに向かっていた。アガルタへの入り口は、インフェルノの至る所に点在している。以前使った地下の下水道も、そのうちの一つだ。


「入れ」


 フェンリルが押して開いた戸から、彼の腕を潜るようにして、シーナは建物の内側に滑り込んだ。


「煙草屋さん?」

「そうそう。煙たいだろ」


 もやかすむ狭い店内に、所狭しと煙草が並んでいた。色々な種類モデルの煙管やシガー、パイプに水煙草。そして、多様な種類の煙草葉がずらりと棚を埋め尽くしており、複雑多岐な香りが店中に充満していた。


「此処が入り口なの?」

「おい、何処向かってんだ。そっちは違え」


 視界の悪い店内を、見当違いな方向に進むシーナの腕を掴み、フェンリルがずんずん店の奥に進んでいく。


「闘技場ってまさか、お兄ちゃんがそこで戦うなんて言わないでしょうね?」

「そのまさか、だ」


 フェンリルは地下倉庫セラーの四角形の扉を引っ張り上げ、ぽっかりと開いた暗闇にシーナを押し込んだ。続けてフェンリルも素早く滑り込むと、パタンと砂埃が舞って戸口が閉まる。


「真っ暗ね」

「今、明かりをけてやるよ」


 マッチを擦る音がして、ぼうっとフェンリルの顔が浮かびあがった。引き締まった輪郭と、筋張った太い猪首いくび。異性を意識させられる雄々しい頬に、髪と同じ色合いのきりりとした眉、すっと通った高い鼻筋。琥珀色の瞳は、闇の中でも鋭く光っており、ゆっくりと長い睫毛を伏せれば、否応なしに色気が漂った。

 煙草の煙が目に沁みたからだろうか。彼の愛嬌のある童顔が一瞬、大人の男の精悍な顔付きに見え、シーナは何度か瞬きを繰り返す。


「フェンリル。貴方、煙草吸うの?」


 咥え煙草をしたフェンリルを見て、シーナが首を傾げた。


「いんや? 普段は吸わねえよ。さっき店から拝借してきたライターのおまけだ」

「えっ、拝借? お金は?」

「細けえことはいい。行くぞ」

「払ってないのね!」


 シーナは思わず叫ぶも、どうにもしようがないので、結局は彼の後を大人しくついて行く。


「お兄ちゃんはどうしていつも、こんな危険なお仕事ばかりを引き受けるの?」

「インフェルノには、危険を伴わない仕事なんて無いに等しいぜ。それに、リスクを背負うほど大きなリターンが返ってくる。当然の対価だが、最も効率的に金を得られる。あとは……」

「あとは?」

性分しょうぶんだな」


 フェンリルはにんまり笑むと、突如現れた分厚い鉄扉てっぴを開け放った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る