福音 -ε

 メフィストは脚を組み替え、携帯用酒瓶スキットルを傾けた。口の端から零れた酒が、顎を伝う。その雫を指の腹で拭う姿は、まるで生き血を啜っているかのよう。


『矛盾に富み、身も心も非常に脆い。まるで飴細工のようだ』


 歪んだ情愛が、彼の渇いた心を染め上げる。滔々とうとうと溢れんばかりの狂気が滲み出ていた。額から鼻先までを覆う、ピエロを模した仮面の下に、彼は一体、どんな悪相を隠しているのだろうか。


『奴らは、身の丈に合わぬ、果てしない知恵と愛と財産を欲する。言葉の裏には隠した本心が、作り物の表情の裏には醜い下心が、そして繕った行動の裏には悪心がある。追い詰められた時、奴らの本懐がちらりと姿を現すのだよ』

『それを見たいの?』

『そうだ』


 メフィストは鷹揚おうように頷く。


『善と悪は表裏一体。善の背後にはいつも、悪への奈落が潜んでいる。人間は常に善と悪の境界線上を歩いているのさ。少々つついてやるだけで、面白いほど呆気なく人間は悪の深淵しんえんへと転落する。狂気に犯された表情かお、絶望を知った表情かお、憎悪に歪む表情かお。どれも堪らない。ああ……想像するだけで喉が渇く。つまらぬ日常に、華を添える程度の余興にはなると思わないかね?』

『フェレス卿、それを善神の彼女に共感しろと言う方が無理だ』


 メフィストは、残念そうに肩を竦めてみせた。はなはだ空々しい。


『だから、人間のいるヘヴンが気になるの?』

『お前も一度、魂を手に取ってみるといい。たわわに実った葡萄のように芳醇な香りがして、一口食めば、恐怖の渋みと怨悔えんかいの苦味がふわりと広がる。癖になる狂愛の甘さも相まって、病みつきになるぞ?』

『いえ、私は大丈夫……』

『そうかい』


 メフィストが声高らかに嗤う。隠されたその姿は、容易に想像がついた。燭台に灯る焔を消すかの如く、彼は人の希望を吹き消すのだ。


『そうそう。もう一つ、大事な話を持ってきたのだった』


 メフィストは無言で、紅茶を出すよう、イブリースに目配せする。イブリースが溜息をついて、ソファから立ち上がった。戸棚からもうワンセット、ティーセットを取り出すと、渋くなった紅茶の葉を取り出して新しい茶葉をティーポットに入れる。

 ゼドが立ち上がり、ナイフ片手に湯を沸かす。シーナも何か手伝おうと腰を浮かすが、メフィストに引き留めるように手を握るので、着席せざるを得なかった。


『ヘヴンの煉獄に穴が空いたぞ』

『外壁に欠陥だと?』


 ゼドが振り向く。

 メフィストの正面に座るシーナも、初めて聞く話に、目を丸くした。


『ああ、小さな穴だがな。しかも、ものの数日で閉ざされた。いやはや、残念なことだ」

『なぜそんなことが?』


 シーナが訊く。


『おやおや。今までの皺寄しわよせかな』


 メフィストの分、それから、ゼドのカップにも紅茶を注ぎ足して、イブリースが言う。


『だろうな。ヘヴンにガタがき始めている』


 くつくつ、とメフィストがさも愉快げに喉を鳴らした。口角が上がり、赤い舌がゆっくりと唇をなぞる。


 煉獄はヘヴンの外壁であり、内と外を分ける巨壁。その性質は至って特殊だ。業火の壁であり、にかわのような粘性の壁であり、鋼鉄のような硬質の壁でもある。炎揺らめく壁は多様な性質を持ち、侵入する相手に対してその性質を自在に変化させた。

 物理的に破ることが不可能な壁に、穴が空く。この事実ことは、多くの外の者にとっては非常に良い福音しらせであった。

 魔獣は清い魂を喰らいたがる。盗人は金目のものを欲しがり、邪神はよこしまな願いを叶えたがる。煉獄が消えれば、野晒のざらしになったヘヴンにインフェルノの者達が押し寄せるだろう。


『空虚な弥栄いやさかは、すべから頽廃はいたいと破滅を呼ぶ』


 メフィストがまた語り出す。遠くで、ゼドが「お喋り野郎め」と愚痴をこぼしている。


『外壁を剥がされ、丸裸になったヘヴンはどうなってしまうだろうな』

『何を、するつもりなの……?』

『ヘヴンに復讐したい者が、この世にどれだけの数居ると思う。虐げれた者、捨てられた者、奪われた者……ヘヴンは常に、怨嗟という台風の目――大禍たいかの根源なのだよ』

『ヘヴンに復讐するの?』

『復讐、などというもので、済む話ならば良いが』


 にやつくメフィストの声は冷ややかだった。


『聖都とやらも、一夜にして神々のいくさの庭と化すだろう。個人的な恨み辛みもあれど、邪の者には今も、生死にすら関わる深刻な影響が及んでいる。解き放たれた者達は、人間の血を啜って飢えをしのぎ、美味そうな魂を喰らうことをいとわないさ。理由は他にもある。この偏った状態のままでは、遅かれ早かれいずれ世界は崩壊する。今すぐこの下らない社会構造をやめるべきだ。寧ろ、何故この危うい状況を保つことができているのか、不思議なくらいさ。世界の正しいり方を取り戻すには、ヘヴンを壊し、頭の固い神には死んでもらう。これが一番手っ取り早い方法だろう』

『お互い和解することはできないの? 世界の偏りを直して、私達はこれから精一杯償うわ。復讐は何も生まない』

『貴様の償いなど無用だ』


 シーナは返答にきゅうし、黙り込んだ。


『小娘、お前は無力だ。無力故に無害だが、無力故に役立たずだ。足手纏いの愚図は不要。此処が何処だか、忘れているのではあるまいな? お前が敵味方どちらを主張しようが、邪魔者は容赦なく捨てる。殺されたくなくば、大人しく家のベッドに戻るが良い』


 冷たい言葉を浴びせられ、脳天からずぶ濡れになった。身体が芯から冷やされていくようだった。




「足手纏いの愚図。そうよね……」


 シーナはメフィストに言われたことを、口の中で反芻した。


「寒くなってきたわ」


 シーナは池から上がる。潤った肌と黒髪の上を、水が流れていく。


「誰に言われたんだ、そんなこと」

「え?」


 フェンリルの声。そちらを向くと、木の幹にもたれ掛かる後ろ姿が見える。組んだ腕を枕にする、灰茶色の髪。木漏れ日に照らされ、神秘的な色合いと艶めきを纏っていた。


「誰かに言われたんだろ? ゼドもイブも、そんなことをお前に言うはずがねえ。言うとしたら……そうだな、メフィストの野郎だろ」


 無言を肯定と受け取ったのか、フェンリルは続ける。


「放埒な奴の言うことなんざ、まともに聞かなくていい。そもそも、メフィストの信用性はゼロだ。お喋りな者ほど、何かを隠しているものさ。本性も、本心も、その正体もな。信用ならねえ奴の言葉ほど、信じるに足らねえ言葉はねぇぜ」


 シーナは俯く。髪を伝う大きな雫が、芝生を踏む足の甲に、ぽたりと落ちた。髪に手をやる。粗方あらかた乾いている。

 フェンリルはああ言ってくれているが、メフィストはきっと、彼らにとってなくてはならない存在。役に立つ魔物だ。自分の身は自分で守れるし、知識もあって、彼にしかできない技でゼド達を助けられる。自分の頭で考え、行動もできる。彼の言うことは至極真っ当で、シーナの心にぶすりと深く刺さった。




『じゃ、私は失礼するよ』

『煉獄の話、また何か聞いたらすぐに持ち帰ってくれ』

『いいだろう』


 メフィストはシルクハットを目深に被ると、腕に燕尾服を引っ掛け、ステッキを小脇に抱えた。


『フェレス卿』

『なんだね』


 シーナは、出て行こうとするメフィストを呼び止めた。廊下の薄暗闇で、深い薔薇色に染まった視線が、棘を孕んでシーナに絡み付く。


『手短に言いたまえ。貴様のように暇ではないからな』

『お兄ちゃん達の役に立ちたいの。どうしたらいいのかしら? ……復讐はして欲しくない。復讐に生きて、復讐に死ぬかもしれないなんて、絶対だめ。それに、ヘヴンの人達、本当にいい人達ばかりなの。神もきっと、悪いことを企んでいる神ばかりじゃないわ!』

『憐れな運命さだめの姫君よ。世界の歪みに依て生まれた渦に巻き込まれ、善にも悪にもなれない、中途半端な存在になってしまったのだな』

『どういうこと?』

『こちらからしては、奸計かんけいを抱いている神も、無実な神もさして大差ない。のうのうと生きる人間も、考えなしの人間も、徳を積もうと躍起になる人間も、皆同様にして馬鹿だ。心優しい悪の神々は選別などしない、皆平等に死に至れば良い」

『だめよ! そんなこと、貴方達が手を汚してまですべきことじゃないわ!』


 へえ、と面白そうに、メフィストが仮面の奥で目を細めた。


『では、逆に問おう。ヘヴンの分からずや共に、どうやって考えを改めさせる気かね? 食い物を前に我を忘れた獣共を、どうやって大人しくさせる気かね? 君はそんなにも非力だというのに』

『私が何としても止めるわ』

『答えになっていない』

『力をつける。ヘヴンもインフェルノも、大陸のずーっと果てまで、私の力で豊かな自然を復活させるの! そうしたら、ヘヴンも富を独り占めすることなく、インフェルノとの壁なんて要らなくなって、互いに手を取り合って豊かに暮らしていけるんじゃないかしら』


 顔を上げたシーナの目には、強い光が宿っていた。メフィストに負けじと拳を握り、己の弱さと残酷な現実に今、立ち向かおうとしている。

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