福音 -ζ

 途端に、大勢の者の声が合わさった雑音と、蒸すような熱気に当てられたシーナは、立ち尽くす。

 扉の向こうに出た二人は、うるしで塗り固められた建物の屋上にいた。以前見たアガルタの街よりも派手な街並みが、眼下に広がっていた。色とりどりの我楽多ガラクタを押し込んだ子供部屋に、瑪瑙めのうやら翡翠ひすいやらを一斉に振り撒いたかのような世界。鮮やかさに眩暈めまいがする。

 ヘルーデのあるベイカー街よりも幾分か規模は小さめだが、建物も人もその倍以上の過密状態だ。


「フェンリル、此処は?」


 圧倒された様子で、シーナが訊く。景色から、目が離せないようだ。


「ディストピア街。賭場、花街、クラブ、闘技場、その他諸々の娯楽の場が集まった、アガルタ一のパラダイスさ」


 短くなった葉巻を指先で摘み、フェンリルが答えた。煙は右へ左へ、のろのろとあてもなく彷徨うろつく。


「いろんな色があるって、こんなにも美しいのね」

「美しい? きったねぇ街だぜ?」


 フェンリルがしゃがんだせいで、燻した煙が顔をくすぐる。まろやかなアロマと珈琲の香りを羽織って、抱き込んでこようとする紫煙を手で追いやり、シーナは遠くに目を遣った。


「ううん。綺麗だわ」


 フェンリルはシーナを見上げる。彼女は猥雑わいざつな街の景色に心奪われ、目をきらきらとさせている。

 ──可哀想に。この先で、むごたらしい舞台を見る羽目になるとは、つゆほどにも知らないで。


「十分堪能したろ。こっから降りるぞ」


 フェンリルは吸殻を地面に落とし、ブーツの踵で火を消した。

 屋上が空と近い割に、下界には意外にもすぐ着いた。振り返ると、先程入口として使った建物の屋上は、似たような家々の中に紛れ込んでしまっていて、シーナにはどれがどれだか分からない。崖を掘り、そこに建物を作っていったのか、建物がブロックのように隙間なく崖の側面に組み込まれている。


「おっと」


 フェンリルがすれ違いざまに、男の腕を掴んだ。からす頭の痩せた男が、苦悶くもんの表情を浮かべる。


「ぅぐっ」


 ぼきり、と骨の折れる音が低く響いた。すかさず掌で男の口を覆い、悲鳴をあげさせぬ早業はやわざは圧巻である。

 男の手から金貨の入った小さな革袋を奪い取り、抜きかけの刀の鵐目しとどめを抑えたフェンリルは、痛みに涙ぐむ男の耳元に口を寄せ、囁いた。


「お嬢ちゃんに手ぇだすのはちと早いぜ。あれは俺の獲物だ」


 死角で鳩尾にしっかり膝を入れ、どさりと崩れ落ちた男に笑いかける。


「ここで殺しても良かったんだが、連れがいるから見逃してやる。あーあ、俺ってば、なんて優しいんだ」


 どよめいた周囲の反応を尻目に、フェンリルは悠々とその場を立ち去った。

 二人を避けるように流れていた人の波も、すぐに中洲なかすを飲み込んで、元の川筋に戻る。流石はいさかいに事欠かない街。触らぬ神に祟り無しと、誰も助けや仲裁に入ろうとはしない。彼らにとってそれは、取り留めのない日常の一幕であり、己の身が最優先なのである。

 少し先で、ぴょんぴょんと跳ねて人混みから頭を出すシーナが、フェンリルに向かって叫んでいる。


「フェンリルー! 何やってるの? 早く行きましょ!」

「はいはい」


 数分通りを歩いただけで、シーナは計四度も掏摸スリにあいそうになった。正気を隠しているので命までは狙われないものの、この外見は確かに、掏摸スリにとって格好の餌食カモのように映るのである。


「阿呆面でうろちょろすっからだ」


 フェンリルは溜息を吐きながら、そっとシーナの袖の内側に手を忍ばせ、掏摸スリ顔負けの手際で、金の入った巾着袋を戻してやった。


「ねえ、あれは何?」

「あれは賭場だ」

「賭場?」

「ギャンブルをする場所だよ。ポーカーか盤双六ばんすごろくでも教えてやろうか?」

「結構よ」


 それらがどんなものかは知らなかったが、手を出してはならないと直感的に思ったシーナは、フェンリルの誘いを断る。


「あれは?」

「ビリヤード場さ。あの店にはギャングがたむろってる。近づくと厄介だ。お前なんか身ぐるみ剥がれるぜ」

「じゃあ、あれは?」

「出会茶屋だ」

「で……!」


 顔を赤くして固まったシーナの手を引くフェンリルが、片隅に亀裂の入った靉靆あいたいの空を見上げた。


「やっべぇ、逢魔時おうまがときだ。急ぐぞ」


 二人は足早に魔物達の合間を縫って、とある大きな建物へ入る。その様相は異様で、壁は槍で、屋根は盾で出来ていた。窓はほとんどなく、唯一見かけた小窓は、わずかな光芒こうぼうすら通さぬ凍玻璃いてはりであった。

 入口付近のカウンターで、フェンリルは銀貨数枚を置いて、


「二」


 と告げた。


「手を出せ」


 フェンリルに言われた通り手を差し出すと、その甲に印形いんぎょうを押された。複雑に線が入り混じる紫紺の模様が、肌に浮き上がった。暗がりでもはっきりと見えるその印は、天秤てんびんにも似ている。


一先ひとま腹拵はらごしらえといこうぜ。酒、飲むか?」


 シーナが首を振ると、フェンリルは「ちぇっ」とつまらなそうに蜂蜜酒と軽食を注文した。


「ジュースは?」


 シーナは頷く。


「何の? 林檎か? 無花果か? それとも柘榴? それか……」

「ざ、柘榴で!」

「いいチョイスだ」


 フェンリルが注文ついでに、カウンターの男と軽く世間話をする。その間も、シーナはフェンリルの手を離さなかった。怖かったからである。

 戦死者の館ヴァルハラの中は外よりも温度が低く、唸るような重低音が何処からか這い上がるように鳴り響いている。天井は高く、見上げれば首が痛くなるほど。大きなたかが何羽も飛び回っていた。

 受け取った軽食と飲み物を抱え、二人はまた人混みへ。


「そんなキョロキョロすんな。不審がられるだろ」

「だって、なんか少し不気味で……」

「ゼドの屋敷の方が人気ひとけがなくて、よっぽど不気味だと思うがな」


 店の奥に進むにつれて、神口じんこう密度は高くなった。耳障りな雑音が大きくなっていく。けたたましい騒音が巨大な波となり、徐々にシーナに迫り始める。異常な数の扉が並ぶ、暗鬱な色調の回廊かいろうを進みながら、シーナは言いようのない不安に襲われていた。

 館の奥に、何かある。


「やっと着いたぜ。お、盛り上がってやらぁ」


 パッと視界が開けた。

 歓声に皮膚がビリビリと痺れ、地面が揺れて、シーナの身体は一瞬宙に浮く。


「ようこそ、漢の戦場、地下闘技場コロッセオへ」


 肌が粟立あわだった。

 何だ。

 何なのだ、これは──。


「なに……ここ……」


 零れた言葉の端には震えが残る。


「なにを、しているの……」


 せわしなく上がる怒号と罵声が混淆こんこうし、砲声の如き殷殷いんいんたる轟音となって、球体状の空間全体を大きく揺らしていた。


闘士競技ワルキューレさ。賞金を求め、アリーナで男達が戦うんだ。観客は勝利者を予想して金を賭ける」

「そんな……だって」


 人が、神が、獣が、死んでいるではないか──。


 円形のアリーナの外側に積まれた死体の山が、試合が終わる度に大きくなっていく。

 観客は誰一人屍となった敗者に目もくれず、次なる試合ショーの行方に夢中になっている。


「ははっ。面白れぇだろ?」


 隣で嗤うフェンリルが、シーナの目には突然、けだもののように映った。


「なんだよ。今更怖気付いたってのか? シェオルの草原では、妖の屍なんて気にも留めずに、ゼドの元に走ってったくせによ」

「あ、あれは無我夢中で……」

「なら俺らも、夢中でこの闘士競技ワルキューレを楽しんだって、文句はねえよな」


 酸鼻さんびに耐えない争いが、熱狂に包まれた闘技場で、止めどなく繰り広げられる。

 また一人、死んだ。

 変な方向に四肢がよじれた、首無し妖精デュラハンが足首を掴まれ、臓物を溢しながらずるずると舞台端へ引き摺られていく。多量の血の跡がのびて、陰惨いんさんな試合の痕跡を生々しく物語っていた。彼の手に握られていた手綱が、びしげに取り残されている。


「う……」


 気持ちが悪い。吐き気を堪えて、シーナはアリーナから目を逸らした。

 その隣でフェンリルはジョッキを傾けて、実に美味しそうに蜂蜜酒をくびぐび飲んだ。


「お嬢ちゃんはあの場で、ゼドに殺された魔物達より、ゼド一人の命を心配した。何故だ?」

「何故って……」


 続きの言葉は、咽喉につっかえて出てこなかった。何を述べても、詭弁きべんろうすることに変わりはないと、気付いたからだ。


「これを本来、友情愛というのだろうな」


 フェンリルは持っていた籠の布切ぬのきれを剥ぐ。軽食だと思っていた籠の中身は、油でフライにされた魔物の目玉と指だった。大きめの目玉を手に取ると、大きな口を開けて、フェンリルはがぶりと噛み付く。鶏卵けいらんの黄身ような、柔らかい液体がとろりと溢れた。その濃厚な匂いを嗅ぐだけで、シーナは胸焼けをしている気分になる。


「だが、それは愛なんかじゃねえ。差別だよ。平等と言われる命に、お嬢ちゃんは重さをつけたのさ」

「そんな、つもりじゃ……」

「なあに、ビビることはねえよ。俺らは、堂々と命に数字を振る。こうやってな」


 鉄柵越しに、フェンリルは店の男に布に包まれた四角い何かを渡した。


「十三番、狐の面の男に博奕betだ」




***

獣は刻印をされる、という描写が、聖書にはあります。

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