福音 -ζ
途端に、大勢の者の声が合わさった雑音と、蒸すような熱気に当てられたシーナは、立ち尽くす。
扉の向こうに出た二人は、
ヘルーデのあるベイカー街よりも幾分か規模は小さめだが、建物も人もその倍以上の過密状態だ。
「フェンリル、此処は?」
圧倒された様子で、シーナが訊く。景色から、目が離せないようだ。
「ディストピア街。賭場、花街、クラブ、闘技場、その他諸々の娯楽の場が集まった、アガルタ一のパラダイスさ」
短くなった葉巻を指先で摘み、フェンリルが答えた。煙は右へ左へ、のろのろとあてもなく
「いろんな色があるって、こんなにも美しいのね」
「美しい? きったねぇ街だぜ?」
フェンリルがしゃがんだせいで、燻した煙が顔を
「ううん。綺麗だわ」
フェンリルはシーナを見上げる。彼女は
──可哀想に。この先で、
「十分堪能したろ。こっから降りるぞ」
フェンリルは吸殻を地面に落とし、ブーツの踵で火を消した。
屋上が空と近い割に、下界には意外にもすぐ着いた。振り返ると、先程入口として使った建物の屋上は、似たような家々の中に紛れ込んでしまっていて、シーナにはどれがどれだか分からない。崖を掘り、そこに建物を作っていったのか、建物がブロックのように隙間なく崖の側面に組み込まれている。
「おっと」
フェンリルがすれ違いざまに、男の腕を掴んだ。
「ぅぐっ」
ぼきり、と骨の折れる音が低く響いた。すかさず掌で男の口を覆い、悲鳴をあげさせぬ
男の手から金貨の入った小さな革袋を奪い取り、抜きかけの刀の
「お嬢ちゃんに手ぇだすのはちと早いぜ。あれは俺の獲物だ」
死角で鳩尾にしっかり膝を入れ、どさりと崩れ落ちた男に笑いかける。
「ここで殺しても良かったんだが、連れがいるから見逃してやる。あーあ、俺ってば、なんて優しいんだ」
どよめいた周囲の反応を尻目に、フェンリルは悠々とその場を立ち去った。
二人を避けるように流れていた人の波も、すぐに
少し先で、ぴょんぴょんと跳ねて人混みから頭を出すシーナが、フェンリルに向かって叫んでいる。
「フェンリルー! 何やってるの? 早く行きましょ!」
「はいはい」
数分通りを歩いただけで、シーナは計四度も
「阿呆面でうろちょろすっからだ」
フェンリルは溜息を吐きながら、そっとシーナの袖の内側に手を忍ばせ、
「ねえ、あれは何?」
「あれは賭場だ」
「賭場?」
「ギャンブルをする場所だよ。ポーカーか
「結構よ」
それらがどんなものかは知らなかったが、手を出してはならないと直感的に思ったシーナは、フェンリルの誘いを断る。
「あれは?」
「ビリヤード場さ。あの店にはギャングが
「じゃあ、あれは?」
「出会茶屋だ」
「で……!」
顔を赤くして固まったシーナの手を引くフェンリルが、片隅に亀裂の入った
「やっべぇ、
二人は足早に魔物達の合間を縫って、とある大きな建物へ入る。その様相は異様で、壁は槍で、屋根は盾で出来ていた。窓は
入口付近のカウンターで、フェンリルは銀貨数枚を置いて、
「二」
と告げた。
「手を出せ」
フェンリルに言われた通り手を差し出すと、その甲に
「
シーナが首を振ると、フェンリルは「ちぇっ」とつまらなそうに蜂蜜酒と軽食を注文した。
「ジュースは?」
シーナは頷く。
「何の? 林檎か? 無花果か? それとも柘榴? それか……」
「ざ、柘榴で!」
「いいチョイスだ」
フェンリルが注文ついでに、カウンターの男と軽く世間話をする。その間も、シーナはフェンリルの手を離さなかった。怖かったからである。
受け取った軽食と飲み物を抱え、二人はまた人混みへ。
「そんなキョロキョロすんな。不審がられるだろ」
「だって、なんか少し不気味で……」
「ゼドの屋敷の方が
店の奥に進むにつれて、
館の奥に、何かある。
「やっと着いたぜ。お、盛り上がってやらぁ」
パッと視界が開けた。
歓声に皮膚がビリビリと痺れ、地面が揺れて、シーナの身体は一瞬宙に浮く。
「ようこそ、漢の戦場、地下闘技場コロッセオへ」
肌が
何だ。
何なのだ、これは──。
「なに……ここ……」
零れた言葉の端には震えが残る。
「なにを、しているの……」
「
「そんな……だって」
人が、神が、獣が、死んでいるではないか──。
円形のアリーナの外側に積まれた死体の山が、試合が終わる度に大きくなっていく。
観客は誰一人屍となった敗者に目もくれず、次なる
「ははっ。面白れぇだろ?」
隣で嗤うフェンリルが、シーナの目には突然、
「なんだよ。今更怖気付いたってのか? シェオルの草原では、妖の屍なんて気にも留めずに、ゼドの元に走ってったくせによ」
「あ、あれは無我夢中で……」
「なら俺らも、夢中でこの
また一人、死んだ。
変な方向に四肢が
「う……」
気持ちが悪い。吐き気を堪えて、シーナはアリーナから目を逸らした。
その隣でフェンリルはジョッキを傾けて、実に美味しそうに蜂蜜酒をくびぐび飲んだ。
「お嬢ちゃんはあの場で、ゼドに殺された魔物達より、ゼド一人の命を心配した。何故だ?」
「何故って……」
続きの言葉は、咽喉につっかえて出てこなかった。何を述べても、
「これを本来、友情愛というのだろうな」
フェンリルは持っていた籠の
「だが、それは愛なんかじゃねえ。差別だよ。平等と言われる命に、お嬢ちゃんは重さをつけたのさ」
「そんな、つもりじゃ……」
「なあに、ビビることはねえよ。俺らは、堂々と命に数字を振る。こうやってな」
鉄柵越しに、フェンリルは店の男に布に包まれた四角い何かを渡した。
「十三番、狐の面の男に
***
獣は刻印をされる、という描写が、聖書にはあります。
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