福音 -η

 皺とシミが目立つ、骨の浮いた手が、布を剥ぎ取る。顔を出したのは札束だ。インフェルノで見た金銭の中で、最も多額の金額だ。

 隣でも同様に、フェンリルの出した金額より高額な取引が行われている。それを店側の男達は、顔色ひとつ変えることなくさばいていく。

 黒い汚れの詰まった指先が、瞬く間に枚数を数え終えた。どうやら、循環する金の総量が少ないにも関わらず、インフェルノの中でも流通に偏りがあるようだ。

 金の代わりに渡されたふだを受け取って、フェンリルはさっさと会場に戻っていく。


「誰に賭けたの?」


 その背中に追いついて、シーナは訊ねる。


「決まってるだろ。我らが蛇神様だ」

「なんで番号が分かったの?」


 シーナは、回廊の側に斜めに建て付けられた掲示板を見た。そこには、出場者の一覧が掲示されている。出場者の番号ナンバーや簡潔な紹介などと一緒に、人相書きが貼ってあるが、皆仮面を付けており、個人の特定が出来ないようになっている。これでは、どれがゼドか分からない。


「そりゃ、本人に聞いたからさ」

「それってルール違反なんじゃ……」


 あ? とフェンリルは片眉を持ち上げ、シーナの見事な書生論模範回答賛辞嘲笑を送る。


「ルールなんて破る為にあんだよ。情報戦だって、賭けの楽しみの一環だ。俺ら博徒ギャンブラーの試合は、もうとっくに始まってるのさ。それに、必ずしもゼドが勝つかは分からねえじゃねえか」

「えっ、お兄ちゃんよりも強い神がいるの?」

「そりゃあ、どっかにはいるんじゃねえの? あいつだってまだ神の中じゃ子供だぜ? 禍津さんとかオルクスも、闘士競技ワルキューレこそ出ねえが、相当腕が立つ」

「じゃ、じゃあ、ゼドが死んじゃうなんてことも、あるの?」

「そりゃあ、こっぴどく負けりゃ死ぬかもな。神器で心臓めった刺しにされてなきゃ、聖水ぶっかけて再生させるさ」


 愕然としたシーナは言葉を失う。


 そんな……そんなことって──。


 否定して欲しかった。なによりも、フェンリルの言葉で「ありえない」と言って欲しかった。

 顔だけを横に向け、シーナは掲示板を眺める。

 貧弱そうな魔物から、いかにも闘士らしい、鋼のような肉体を持つ怪物まで、多種多様な闘士が武器を片手に描かれている。


「人間も出場しているの?」

「勿論。相当数いるぜ。野垂れ死ぬより戦って死ぬ方が、よっぽど有意義な余命の使い方だ。皆、一攫千金の一縷いちるの望みに賭けて、命を代償に人生大一番の勝負に出るのさ。大抵、初っ端に死ぬがな」


 ゼドの人相書きもあった。狐の面を引っ掛けている。禍津にでも借りたのだろうか。仮面などしなくとも、その奥は感情の読めぬ仏頂面だろうに。

 シーナは紙にそっと触れた。ただ、ざらざらとした茎の繊維を感じるだけであった。

 闘士達は皆、そのたっとい命を賭けてまで、何を得ようとしているのだろう。富を致すのに、どうして命を賭けなければいけないのだろう。


「この人だけ仮面をつけてない。それにこの紙……新しくないわ」


 シーナは、一枚だけやたら薄汚れた人相書きを前に、立ち止まった。

 紫の短髪に、厳ついガスマスクを付けたオッドアイの男。若々しい肉体とは対照的に、暗く沈んだ死人しびとのような目をしていた。


「ああ。そいつは毎回出場するたびに毎回負けて、毎回奇跡的に生き残る、此処じゃ有名な闘士だぜ」

「毎回負けてるのに、ずっと出場してるの?」

「懲りねえ奴だろう? でも不思議と死なねえもんで、今じゃ奴の出る試合は名物みてえになってるぜ。八百長やおちょうじゃねえかって、噂もあるがな」


 見るからに若そうだ。外見に関しては、フェンリルと同じ年頃なのではなかろうか。


「そいつはどうせ負けるから、大丈夫だ。今回ゼドが勝てば、優勝金も、跳ね上がった賭け金もたんまりいただけるぜ」


 フェンリルが悪い顔をする。


「なんでそんな、平然としていられるの?」

「慣れてっからな。それに、そいつに賭けるって、生き残ることを信じてるってことだと思わねえか? 賭け事だけに願掛けってな」


 何とも魔神らしい考え方である。

 だがしかし、今はその魔神らしい考えが一番正しいように聞こえる。錯覚だろうか。


「これも」


 フェンリルが振り返った。


「これも、賭けるわ」


 シーナが取り出したのは、メフィストから貰った金貨の入った巾着袋。


「全部よ」


 ヒュゥ。含み笑いのフェンリルが、嬉しそうに口笛を吹いた。



 †



 覚悟を決めたシーナは、フェンリルについて、観客席に座った。

 ほとばしる殺気が、観客席の方まで伝播でんぱしてくる。

 汗と、土と、血の匂い。それを感じ取る五感さえもを麻痺させる、緊張感と高揚感。唾さえ、上手く飲み込めない。

 ゼドの出番でもないにも関わらず、始終そわそわしているシーナを、フェンリルは何度もたしなめた。


「奴は根っからのスリル依存症さ。本能が危険を求めているんだ」


 魔獣ヨルムンガンドであり蛇神でもあるゼドは、今でこそ、そこそこの邪神だが、いずれ邪の者の玉座に座ることになるはずだと、フェンリルは信じていた。

 邪気に酔い、血に荒ぶる彼の姿を見れば、一目瞭然である。


「ほら、見てみろ。ゼドみてえな酔狂な死にたがりが、ありのように群がってやがる」


 肘掛けに頬杖をついて、へらへらと笑いながらアリーナを見下ろすフェンリルは、揚げた目玉をまた一つ、頬張った。

 円形劇場の中央には、十数人の闘士。

 生き残り戦だ。複数人で一斉に戦い、生き残った一人が次の試合に出場できる。単純で明快な試合ゲームだ。


「いた! あそこだ! 左端にいる!」

「どこ!」


 ゼドの姿を探そうとした矢先、喚声かんせいが沸いて、一斉に観客が席から立ち上がった。


「見えない!」

「椅子に乗れ!」


 椅子の上に立つフェンリルが、シーナを引っ張り上げた。

 ゼドを探そうと、アリーナに目を向けたシーナの視界に、真っ先に飛び込んできたのは、弾き飛ばされた魔物が、血飛沫をあげながら空中を舞う光景だった。

 思わず目をみはる。

 戦慄がはしる。それは、天霆てんていに打たれたかのような衝撃。

 シーナの悲鳴は、殷盛いんせいを極めた叫喚の中に吸い込まれていった。

 ドッと大きな衝撃音をあげ、地面に叩き落とされた魔物は、既に生き絶えていた。そのすぐ横で、新たに別のバトルが始まる。

 まるで戦場だ。頭痛がしてくる。


「おい、大丈夫かよ」

「平気よ……ありがとう」


 ふらついたシーナを、フェンリルが支えた。

 観衆は歓喜に満ちた声で叫び、騒ぎ立てる。頭上を、酒と野次やじが飛び交った。


「お兄ちゃん……どこお兄ちゃん……」


 シーナは血眼で狐の面を探す。


 いた──。


 ばいの旋風を切り裂き、彼は戦場に姿を現した。

 灰髪が氷刃ひょうじんの如き鈍い銀に光る。

 見慣れぬ黒のジャケットを羽織り、細雪ささめゆきのように降る血の雨に全身を濡らしながらも、しっかりとその両脚で擾々ふんぷんたる舞台に立っていた。

 陶器のように白い頬を彩る赤が、あまりにも鮮やかだ。煌々とアリーナを照らす、洋燈ランプの光の所為だろうか。

 ゼドがまだ無事であることに安堵して、シーナはハッとした。


 彼の無事を願うことは、他の者が死ぬことを願うということ……?


 目を瞑りたくなる。本当は、顔を背け、今すぐ闘技場ここから立ち去りたい。

 関節が砕け、顔が潰れた死体。臓腑ぞうふがまろび出た死屍しし。腹食い破られ、はみ出たあばらが内臓を突き破っている残骸ざんがい

 最早もはや誰のものやも知らぬ肉塊が、そこらじゅうに散乱していた。


「燃えてるぞ!」


 突如、視界の端に火の手が上がった。火逹磨になった男達が断末魔を上げながら、アリーナを転げ回る。


「おいおいおい! アミィじゃねえかよ!」


 フェンリルが身を乗り出し、興奮混じりに叫んだ。


「知り合い?」


 シーナが声を張り上げて訊く。


「ああ! こりゃあ、一回戦から熱い展開になりそうだ!」


 とぐろを巻く炎に身を灼かれた闘士達が、次々と舞台袖に倒れる。まるで、烈火という魔物の舌に、絡め取られているようだ。

 闘技場を焼かれてはたまらないと、水桶を持ってすっ飛んで来た数人の男達が、彼らに頭から水をかける。灰神楽はいかぐらが上がり、やっとのことで炎が消えると、その中からひとつの大きな炭の塊が現れた。肉の焼けた臭いと死臭が漂う。

 数人が纏めて丸焦げになったことなど歯牙しがにもかけず、アリーナのそこかしこで勃発したバトルは、ますます過激になる。

 刃物と弾丸が空を飛び交い、流れ弾に当たった者達が、ばたばたと血飛沫を上げて倒れ伏していった。

 いしゆみが弾け、刃がこぼれ、首が飛ぶ。

 金棒がうなり、槍が飛んで、投擲とうてきす。

 闘士だけでなく、観客を巻き込んでもお構いなしだ。

 シーナよりも五段ほど下の席の観客の目に、流れ矢が直撃した。悶絶する魔物の絶叫が、耳をつんざく。あろうことか、魔物の隣席の男が魔物にトドメを刺した。


 違う。

 ゼドも、他の闘士も、観客も、誰一人として、こんな見せ物のように死んでいいはずがない。


「やっぱ、あいつ強えな」


 フェンリルが上機嫌で、酒をあおった。腐卵臭に似た激臭に、蜂蜜の香りが混ざる。

 激しい肉弾戦を繰り広げるゼドの回し蹴りが、相手の腹に決まった。

 吐瀉物としゃぶつと汗が散る。

 流れるような所作で、ゼドは続け様に男の脚をすくい、手刀を咽喉に叩き込む。白目を剥いて仰け反った男の髪を片手で掴み、思いきり地面に叩きつけた。

 地面には大きな亀裂が入り、絶命した男の身体は、上半身が瓦礫がれき下に埋もれる。地上に片方の腕を置き忘れて。


「後ろよ!」


 シーナは叫ぶ。

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