福音 -θ

 子供一人の声など、白熱する試合に狂喜乱舞する者達の喚声に、たちまさらわれてしまう。

 しかし、その声が届かなくとも、既にゼドは先を読んでいた。


「ぐあぁっ」


 目をるでもなく振るったナイフは、怪物の胸郭きょうかくを掻っさばく。

 横一線。追って、血が噴き上がる。

 何処からともなく放たれた矢を、柄を叩くように空いた片手で捕まえると、彼はその矢をそのまま背後の敵の横っ面に突き刺した。

 貫通している。

 脳髄のうずい弾け出す顔面を踏み台に、ゼドは跳躍した。

 ゼドは空中で身体を捻り、溜め込んだ力を撃ち放つ。

 颶風ぐふうを纏い唸る脚が、人間を蹴飛ばし、蛙男の顎を砕き、ケンタウロスの背に絡みついた。


「斬れ! 斬れ!」

「殺せ!」

「ぶっ潰せ!」


 野次の声援に応えるが如く、ゼドは交差クロスさせた脚に力を込め、脊髄せきずいを破壊した。

 崩れ落ちる馬の背を蹴って着地。同時に手元を離れたナイフは、怪鳥ハーピーの眉間に吸い込まれるように刺さる。

 ハーピーは、その青褪あおざめた女の面輪を歪め、汚い濁声だみごえいた。相変わらず、不快な声だ。

 喚くハーピーの肩に飛び付くように乗って、突き刺さったナイフを押し込みながら、体重をかけて倒す。

 巨大な鳥の体が地面に叩きつけられ、衝撃波が競技場を揺らした。

 鋭い鉤爪かぎづめで引っ掛からないよう、暴れる足首を力づくで抑え、ゼドは脹脛ふくらはぎに牙を立てた。

 暴れていたハーピーの動きは徐々に鈍り始め、耳まで裂けた大きな口からは、咆哮ほうこうの代わりに唾液が垂れ流される。


「不味い……」


 抵抗出来なくなった力無い足を放り投げ、ゼドは不満げに独りちた。

 ゼドがし込んだ劇薬げきやくは、すぐに全身を巡る。ハーピーが痙攣し始めた。青紫に膨らんだ血管が肌から浮き上がり、妙に速い速度で動く。

 一音。ハーピーは細い声で啼く。

 すると突然泡を吹き、絶命した。

 ゼドは眉間に刺さっていたナイフの柄を掴み、ハーピーの額を蹴飛ばして、深く入っていた刀身を頭から引き抜いた。

 ビュッと、ナイフを振るい、血を払う。


「お兄ちゃん、友達と戦わなきゃいけないの?」

「どうせ二人とも引かねえよ。アミィも戦闘狂なだけあって、相当手強い。無傷で済むとは思えねえな」


 フェンリルは呑気に見物しているが、シーナはそれどころではなかった。緊張した身体は節々が痛いし、荒ぶる脈拍に、心臓は今にも張り裂けそうだ。

 気持ちを紛らわそうと、柘榴のジュースを飲むが、すっかり水っぽくなっていたのにも関わらず、喉は一向に潤った気がしなかった。


 血海に横たわる死体を踏み越え、己の進路に転がる肉片を蹴散らし、ゼドがまっすぐにアリーナの中央へと進んだ。

 殺気の込めれた熱い紅玉が、乱れた髪の狭間から、虎視眈々こしたんたんと次なる敵に狙いを定めていた。


 彼はどんな時でもひどく冷静だ。それはシーナの心をきつく締め付ける。様々な困難と多くの試練を乗り越えてきたのだろう。

 彼が的確に首をねる度、こんな苦しい経験をした過去があるのかと胸が痛む。彼が顔色を変えずに命を斬り刻む度に、過酷な環境で育ってきた彼の神生に涙が出る。

 美しいとすら思えるその神業の裏では、いばらの棘のように、過去が彼に執拗に絡み付いているのだろう。


 耐えられない。耐えられやしない。

 いつまでもこうしていては、彼は一生暗がりの中ではないか。


「何処へ行く」

「お兄ちゃんのところ」


 シーナの肩に、フェンリルの指がきつく食い込んだ。


「放して!」

「行って、どうするつもりだ」

「止めるのよ。友達と戦うなんて馬鹿げているわ。これもお金の為? 命を賭けてまですること?」

「またか……駄目だ。目立つ行為は控えろって、ゼドに言われてるだろ」

「知るものですか! 行くったらいくの! 自分の傍にいる者のことを大切に想うのが、友達でしょう? その者の為に動くのが、友達でしょう? 無茶苦茶でも、筋が通ってなくても、理由なんてなくても、その者の為に一生懸命になるのが、友達よ!」


 フェンリルの手の力が少し緩む。

 その隙に抜け出そうとしたシーナは、今度はがっしりと羽交締めにされ、席に戻された。


「全く。聞き分けのねえお嬢様だ」


 フェンリルが肩を竦めた。

 ばたばたと抵抗するシーナを、彼は片手でいとも簡単に押さえ付け、強制的に観戦を続行させる。空いたもう一方の手は、フライにされた魔物の指を摘んでいる。


「依頼主との契約やくそくなんでね」

「貴方、契約を守ろうなんて気、さらさらないじゃない」


 流石にシーナにも、それが本当の理由でないことくらい分かる。


「行ったって、アリーナに着く前に止められるぜ。最悪、殺されるかもな」


 首を回し、シーナはすぐ傍にあるフェンリルの顔を見上げる。


「それでも! 止めないと! フェンリル、貴方もゼドの友達でしょう? 友達があんな危険なことしてるのよ!」

「友達ィ?」


 フェンリルがハッと鼻で笑う。

 そして、すとんと彼の顔から、揶揄やゆすらもが抜け落ちた。いつもの飄然としたフェンリルが、どこにも居ない。


「友達じゃねえって、何度も言ってるだろ。俺らは幾ら時を共にしようが、所詮しょせん他人だ。他人の神生じんせいにどうこう言う権利も筋合もねーよ」

「でも! もし死んじゃったらどうするの……?」


 シーナの目尻に光るものが浮かんだ。

 それでも、フェンリルは静かに、そして冷たく突き放すだけ。目はアリーナに向けられていて、忙しなく乱戦の行く末を追随ついづいし、口許くちもとにだけはずっと笑いが張り付いていた。


「それはあいつの実力不足だったってだけさ。それ以上もそれ以下もない。……それにな、見ろよあいつの顔。奴は血を見る舞台を、心から望んでいるんだ」


 シーナはもう一度、アリーナを見た。

 ゼドが暴れるように戦っている。

 血に塗れて。拳を振り上げて。蹴って、殴って、ナイフで刺して。

 とても──。


「生き生きしてる……」

「だろう? だから言ったじゃねえか。あいつは、心底戦いが好きで、戦いの中に自分の存在意義を見出してるんだ。あんな奴でも、本能には抗えねえのさ」

「フェンリルは、こんなこと……心が痛まないの? そもそも、人や神同士を戦わせる遊びなんて、道徳に反しているんじゃ」

「ははっ、お嬢ちゃんは本当に面白えな。笑えてくるぜ」


 シーナの心配は、ただフェンリルの嗤笑を買っただけであった。


「そんなこと気にしてる奴なんか、此処には誰もいねぇよ。ヘヴンから持ってきた物尺ものさしでインフェルノのことを測るってのは、無意味ナンセンスだぜ、お嬢ちゃん。これは命を賭けた、漢の勝負だ。此処は本物の本気ってのが味わえる、最高の舞台さ」


 フェンリルは酒器から口を離し、体を真っ二つに引き裂かれたトロールを見て、げらげらと腹を抱えて笑う。周囲の者も皆、同様に笑い転げている。シーナには、何が面白いのか、全くわからなかった。

 猿の魔獣、朱厭しゅえんとトロールのバトルは、相討ちで決着がついた。

 はあ、と一呼吸入れたフェンリルは、やっとシーナを見た。脂に濡れた唇がぎらついている。


「お嬢ちゃんの主張は手前勝手な言い分だ。まあ多分、ヘヴンでもそうやって優しくされてきたんだろ? お前も、ヘヴンで暮らす奴らしか会ったことがねえから、無条件でそのよくわからねえ優しさを与えようとするが、インフェルノじゃその価値はねえ。別の価値観がある。だから野暮なことはするな。お嬢ちゃんがゼドの友達ってんなら、自己満足の優しさなんて捨てて、あいつの気持ちをむんだな」


 シーナは理解した。ここにいる者達は、死を軽視しているわけではない。死を受け入れているのだ。

 何かを得るためならば、当然の対価として、命を差し出せるほど、必死なのかもしれない。ゼドのように、明日死んでも後悔しないほど、自由な生き方をしているのかもしれない。

 それらを一緒くたにして、道徳という箱の中に入れてしまうことを、シーナは躊躇した。


「道徳ってのは、すごく難しいものだ。道徳的な行為をしているからといって、その者が道徳的であるかどうかはわからない。世間体を気にして、あるいは反道徳的なことをしたら後々面倒事が起きると分かっているから。そんな理由で、道徳に服従しているだけなのかもしれない。だから、本物の道徳的な者かは、わからない。逆もまた然り」


 楽しげに笑う彼は、手についた衣のくずを払い、親指をそっと舐めた。


「命を賭け、真正面から闘う者達の行為は、果たして不道徳なのか。俺達はそうは思わねえ。お嬢ちゃんはどうだ? あれを見て、どう思う。己の目で見て、判断しろ。それがお嬢ちゃんの、善悪の線引きだ」


 シーナは揺れ動くまなこをアリーナに向けた。

 決闘と取るべきか、殺戮と取るべきか。

 遊戯と称するには、あまりにも残酷過ぎやしないだろうか。

 魔物相手にも人間相手でも、一切の容赦のないゼドが、戦場を蹂躙していく。


「さ、気を取り直して観戦といこうぜ。こっからが、奴の真骨頂だからよ」

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