第三章

福音 -α

 瞬く間に世界のすべての国々を見せて、悪魔はこう言った。


「これらの国々の権威と栄華とをみんな、貴方にあげましょう。それらは私に任せられていて、誰でも好きな人にあげてよいのですから。それで、もし貴方が私の前に跪くなら、これを全部、貴方のものにしてあげましょう」



        マタイの福音書 4章5節~7節







 荒野あらのに立ち、私を拝めと悪魔は誘惑する。

 その真意のわかる者はいるか。

 彼らは悪の化身でありながら、同時に神でもあり、願いに飢え、空腹だったからである。




 ところ変わって、豊葦原とよあしはら瑞穂みずほくに

 人の口に戸はたてられぬとは良く言ったもので、既にシーナの失踪は表沙汰となっていた。多くの人間は豊穣の神の無事を憂い、中には朝から晩まで食事も忘れて礼拝堂に篭る者もいれば、毎日のように齷齪あくせく寺院や神社におとない、祈りを捧げる者もいた。


 聖都ヘヴンには、大きく分けて二つの地域がある。人間が多く住まう最も大きな地域、キャメロットと、多くの神々が住まう神殿街だ。

 神殿街は更に五つに区画してある。西に位置するティル・ナ・ノーグ。東に位置する、高天原たかまがはら。南の桃源郷とうげんきょう。北にはヘリオポリス。そして、中央には最も神聖かつ繁栄した地区アスガルド。ここは神達の仕事の場であり、審判の場エルサレム神殿もあった。大切な協議があれば、そこで最高位の神々の審議によって判決が下された。

 志稲の屋敷は、高天原の豊葦原とよあしはらに在った。月宮殿げっきゅうでんという、高天原では一二を争う豪邸である。


「落ち着きましたか?」


 泣き腫らした顔を上げ、女はまた、ハンカチを目尻に当てながら鼻をすすった。


「ヘレナさん、気をしっかり。姫様はきっと大丈夫ですよ。騎士団と飛翔軍、それに海軍まで総動員で捜索に当たってくれていますし」

「でも! 鬼魅の蠭屯ほうとんする地に迷い込んでしまったかもしれないって、ミカエル様が仰っていたもの! どうしましょう、志稲しいなお嬢様の身に何かあったら……わたくし、わたくし……」


 そう言ってまた、うわーっと泣き崩れる。


「こりゃあ、何を言ってもだめだ」


 騎士アーサーは、彼女に新しいちり紙を手渡しながら、溜息を吐いた。

 アーサー達が仕える豊穣の姫が姿を消して、十と四日が過ぎた。衣装部屋に据え置かれた衣桁いこうは、見飽きた色合い。屋敷の雰囲気も沈んでゆくばかりである。

 メイド長のヘレナは、過度な心配性の所為で、ろくに睡眠を取れていないようだ。その上、失踪直前、最後に一緒にいたのが彼女だという事実も、相当重荷になっているようであった。とは言えアーサーも、騎士として騎士団での捜索に参加しながら、もう一人のシーナの護衛役と共に、毎夜捜索に出かけている。彼女はまだ幼く、大事に大事にと育てられた箱入りの姫である。屋敷の者は誰しも、身を案じてやまないのだ。


「失礼致します。お客様がおいでです」


 執事がふすま越しに声を掛けた。二人は顔を見合わせる。


「元気にしているか」

「オーディン様」


 元気なわけがない。アーサーが視線を後方に遣ると、膝を折るヘレナの肩が僅かに震えている。俯いた彼女は恐らく、感情を抑えるのに手一杯なのだろう。


 屋敷を訪ねて来たのは、高位十五神が一人、嵐の神オーディンだ。八尺(二メートル四十センチ強)を超える恵まれた体格に、黄金の鎧を纏ったいきな佇まい。よわいを重ねても尚凛々しい面立ちに髭を蓄え、眼帯を掛けた独眼であった。

 オールバックの青い髪といい、凄みのある灰色の瞳といい、数々の武勲をたてた彼の、巧者で食えない性根を物語っているようである。

 彼はかたわらに、美しい女をはべらせていた。水晶のような女性ひとだ。自らは何も語らず、意思を持たず、透明感ある美貌は神秘の領域。ただただ、飾り物のようにオーディンの傍にそっと、寄り添っているだけであった。


「突然邪魔して悪いな」

「いえ。わざわざ御足労いただき、ありがとうございます。何か……ありましたのでしょうか?」


 彼らを客間に通す。

 広々とした座敷は、中庭に面していて、開け放たれた障子の向こうでは、青葉が天に向かって背を伸ばし、凛と佇む純白の梔子クチナシと百合の花が、燦々と降る太陽の光を浴びている。

 静穏なる池には、反りの控えめな太鼓橋が掛かっていた。橋の中央、池に浮かぶようにして、簡素だが、美しい造りの四阿あずまやがある。志稲は四阿をとても気に入っていて、ひる過ぎには必ずそこに座って庭を眺め、アーサー達護衛役と歓談しながら紅茶を嗜んでいた。


 オーディンは槍を倒して身体の右手に置くと、胡座をかく。彼の持つ槍を、グングニルという。何でも、最もヘヴンが繁栄していた頃の神殿の大木から、遷都の際に削り取って作ったそうだ。

 連れの女性も、彼の斜め後方に静かにした。


「志稲姫の件についてだが」


 アーサーはごくりと唾を飲み込んだ。

 軍総司令官でもあるオーディンは、みずからシーナの捜索の指揮も取っていた。シーナの捜索の件について、進展があったのだろうかと、ヘレナと二人、揃って姿勢がやや前のめりになる。


「東部インフェルノに、全捜索部隊を向かわせることになった」

「東部、ですか?」


 ヘレナの顔から血の気が引いた。

 ヘヴンは巨大な敷地を有していると言えど、所詮、大陸にぽつんと浮かんだ、四阿のような都市である。全方位をインフェルノに囲まれているのだ。その広大な大陸に、邪神や魔物が散らばるように割拠かっきょしている。しかし、ヘヴンの東部のインフェルノは、大陸全土の中でも特に治安が悪いと聞く。名だたる悪神がたむろし、喧嘩、偸盗ちゅうとう、殺生など日常茶飯事。妄語もうごが行き交い、血と酒と邪婬じゃいんが溢れかえる悪の巣窟だ。


「部下を数人送り込んで調査させていたが、志稲姫は東部のスラム街に迷い込んだ可能性が高いことがわかった。集中的に捜索に乗り出すつもりだ」

「そんな! よりによってスラム街だなんて……。志稲お嬢様は無事なんですか!」


 ヘレナがすがるように訊ねる。


「生きているはずだ。ヘヴンの作物の実りは豊かであることが、何よりの証拠。安心なされよ。腕利きの武神を数名、送り込む」

「腕利きの武神様、ですか」

「ああ」


 オーディンは悠然とした態度で、首を縦に振った。


飛翔ひしょう軍からはガブリエルとラファエルを。海碧かいへき軍からは、ポセイドンを。そして、駈陸かくが軍からは素戔嗚すさのおを出す」

「素戔嗚尊様は別件でお忙しいのでは?」


 アーサーが訊ねる。

 素戔嗚尊は幼い頃から身に宿した正力が強く、高位十五神のくらいに就く以前から、厄除けの神としての実力は絶大であった。しかし、散々崇め奉られて育ったお陰か、我が強く独善的な一面があり、先の大海原での任務では、自分の立てた作戦通りに事が進まなかったことに腹を立て、公衆の面前で部下の騎士数名に激しい折檻せっかんを行った。

 ちりも積もれば何とやら。有り余る正義感を持て余し、怒りに任せて田を荒らした時も、高天原の神殿に穴を開けた時もだんまりりだったヤハウェも、流石に今までのように目を瞑る、という訳にもいかず、暫くの間素戔嗚尊は、多くの人間が居住する地域キャメロットの厄除け祈願に、り出されることとなったのだ。


「本当に感謝いたします」


 礼を述べるヘレナの声は、既に鼻声だ。

 神に仕える仕事をする人間のことを、総じて神官と呼ぶ。神官は、神殿に住み込みで神の身の回りの世話をする、ヘレナのようなメイドや執事であったり、アーサーのような神の護衛であったり、また一方では、騎士団員であったりと、神と関わる仕事をする役職を指す。つまり、騎士団は神官によって構成された軍のことだ。

 それに対して、飛翔ひしょう軍、海碧かいへき軍、そして駈陸かくが軍は、神やその眷属けんぞくによって構成されている。

 それら全ての機関が、総動員で志稲を探すというのだ。これ以上に頼れるものなど、何処にあろうか。

 アーサーも片膝をついて、心からの感謝を述べた。


「礼は不要だ。ヘヴン一の豊穣の女神は民にとっても我々神にとっても、大切な存在。全勢力をかけて救い出そう」


 軍総司令官の強い言葉に、ヘレナは肩の荷が少し降りたようで、強張った表情が幾ばか緩む。みだりに近寄り難い威光と、神や人間から慕われる徳とを兼ね備えた神の言葉はやはり、心強い。


 かつて、ヘヴンの為政者いせいしゃは、法を整え、富を分配し、商業を興して文化を発展させた。同時に、秩序を求めるべく悪に対して制裁を施すようになったが、それが次第に、悪との分断を促進させた。

 分断が進むにつれて、先達せんだって飛翔隊を結成。現在の飛翔軍の前身である。その後、人間の兵士により構成された騎士団を設立し、神による軍を陸海空の三部隊構成とした。


「進展があり次第、また連絡しよう」

「何卒……何卒、よろしくお願いします。志稲お嬢様を、無事救ってくださいまし」


 ヘレナの深々とした低頭を見て、オーディンは鷹揚に頷く。そして、立ち上がって退席するかと思いきや、部屋の戸の前で振り返り、アーサーをその一隻の眼孔で射抜いた。


「そこのお前、俺と来い」


 それだけ言うと、さっさと部屋を出て行ってしまう。指名されたアーサーは、慌てて彼の後を追った。





 ***伏線の手引き***

 実は、シーナという名前に決めた理由が、三つあります。

 物語にも絡むカラクリになっています。


 一、志稲しいな

  これは、櫛名田比売くしなだひめの略称です。「志」はこころざしの他に、思いやりや、親切の意があり、「稲」は櫛名田比売の別名、稲田姫の稲、です。


 二、シーナ

  これは、志稲を耳で聞いたゼド達が聞こえた外国名です。実は、「神の恩恵、神の慈悲」という意味なんですね。まさに、彼女にぴったりです。


 三、Si...××

  これを解説するとネタバレになる?(特に盛大なネタではないかもですが)かもしれないので、またの機会に!(これは私が作った、というか、こじつけた感じなので、現時点での考察は難しいかもです笑 ので楽しみにしてもらえたら嬉しいです)

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