福音 -β

「ヘス、お前は先に帰っておけ」


 屋敷の門前で、オーディンが女にそう告げると、何処からともなく白銀の狼が現れた。彼女は腰を折ってアーサーに一礼すると、その狼に付き添われて元来た道を帰って行く。

 オーディンは変わり者だ。アーサーは数歩先をゆく彼の背中を見た。


 ヘヴンには、非対称や不均一を避ける傾向がある。それは物にだけでなく、生物の外見にさえも影響した。隻脚せっきゃく隻腕せきわん、隻眼……それらは不吉なものと見られることも多く、人によっては差別する者もいた。

 そんな中、白昼堂々一隻眼を晒す彼は、強靭な精神力メンタルの持ち主だ。神である為に、人間よりも表立って嫌われることは少ないとは言え、生きづらいこともあるだろうその外見ハンデを背負って、彼は実力で今の地位までのし上がった、アーサーが志稲の次に最も尊敬する神であった。

 グングニルで如何なる敵をも薙ぎ倒し、剣や弓を持たせてもその腕前は群を抜いていた。嵐の神である彼は、地道な努力で培った武術のお陰か、戦の神とも称され、ますます人間の信頼と信仰を得たのである。


「騎士養成学校、第三五八八期主席のアーサー・フラナガンだな」


 鋭いまなこに見下ろされ、アーサーは居住まいを正す。


「私の名前をご存知なのですか」

「俺は軍の総司令官だぞ。優秀な騎士の名くらいは把握している」


 騎士学校時代、アーサーは成績優秀、品行方正の絵に描いたような優等生で、確かにそこそこ名は知れていたが、それでも膨大な騎士の中の、たかが一介の護衛騎士の名を記憶するなど、やはり神の為せるわざである。


「お前なら引く手数多だったろう。何故、志稲姫の護衛騎士になった。彼女も幼きながら、次期高位十五神候補と謳われるほどの力の持ち主だが、もっと高位の神の護衛騎士募集の声も掛かったのではないか?」

「自分が最も守りたい方を、命に代えてもお守りする。その信念に基づいて志願したまでです」

「お前は答えまで優等生だな。志稲姫の方がよっぽど面白いことを言う」


 彼は一粲いっさんを博すると、ふと真顔に戻り、アーサーの胸のバッジを眺める。


「稀に見る逸材だと、騎士団長も口惜しそうにしていた。そんなお前に、命に代えてまで守りたいと思わせる魅力が、あの小さな姫にはあると言うのか」

「姫様は本当に素晴らしいお方です。まだ小さく幼い神様ですが、外見だけでは内面の美しさを計りきることはできないかと。オーディン様が、そのことを一番よく分かっておられるのでは?」


 その返答がオーディンの欲しがっていた回答だったのかは分からないが、彼は口の端を持ち上げ、にやりとすると、無言で歩く速度を上げた。

 志稲の屋敷は高天原の最西、アスガルドのすぐ側にあった為、歩き始めて間もなく二人はアスガルド地区に入った。石灰岩と琥珀金で飾られた中心街は、陽の光に照らされると建物と道の境界線がわからなくなるほど、全てが真っ白になる。


「そもそも、志稲姫をそれほどまで想うようになったきっかけは何だ」

「それは……」

「ふむ。答えてはくれないか。では、こっちから先に聞こう……お前、片腕はどうした」


 咄嗟に隠したアーサーの動揺を、察せぬ男ではない。

 オーディンが立ち止まり、アーサーも歩みを止めた。振り返った彼の視線が痛い。長い間研がれ続けた壮年の眼光は、紛れもない、一将の威武を物語っている。


「気付かれていないとでも思ったか。戦神である前に、俺は知識と詩芸の神だ。武術と知恵を有する俺の前に、嘘と沈黙は通用しない」

「……この左腕は、義手です。姫様にいただきました」

「ほう」


 オーディンが、見せてみろとばかりに手の平を差し出す。アーサーは素早く辺りを見回した。いつのまに、人気のない路地裏に導かれている。

 観念したアーサーは、仕方なく籠手ガントレットを外し、肘当クーターを弛めて、前腕当ヴァンプレイス上腕当リアプレイスを一気に剥いだ。露わになったのは、無骨で奇妙な造形の義手。

 面白がるように、オーディンの眼が歪んだ。彼はアーサーに近づくと、おもむろにその腕に触れた。ぴくり、と反応した偽物の手は、腰に差したつるぎを反射で握ってしまいそうになる。


「良い反応だ」

「申し訳ありません」

「なに、謝ることはない。確かに、騎士団に残しておけなかったのは、相当な痛手とみた」

「護衛騎士の前に、一騎士団員です」

「そうだな。騎士団の中の護衛職に就いたというだけ。主席なだけあって、ちゃんとエリートコースだったな」


 オーディンはけらけらと笑いながらも、アーサーの腕を触ることを止める気配はない。肉厚な掌と、端くれだった無骨な指で、義手の表面から細部までを撫で、彼はその構造を仔細に眺める。


「ところで、これは何で出来ている」


 オーディンが、義手の関節部分を持って訊ねる。


「竹とはがねです」

「竹?」


 一瞬考え込むも、彼は納得したような表情で、肘継手の部分に組み込まれた竹を見る。オーディンから、感嘆の吐息が洩れた。


「見事だ。竹は志稲姫の得意分野だったな。作物の他に、草木を育てるのも彼女の力の一部ではあったが、竹を操るのもまた、彼女の才能のひとつだったはずだ。そうだな?」

「はい。最初は姫様が竹で義手を作ってくださり、様々な方に協力を仰いで、ここまで素晴らしいものに完成させてくださりました。一生の宝です」

「なるほど、竹の部分は柔らかい動きの再現を可能にして、可動域も広がるのか。鋼は相当良いものを使っているな。この連結部分には、なかなか高度な技術が詰め込まれている。面白い」

「姫様が街で一番の鋼屋に頼んでくださいました」

「こりゃあ腕が盾にも替わるな。良いセンスだ、志稲姫。……これは、どうやって動かしている? 指先まで、繊細な動きができるとは。実に興味深い」

「神経を繋げています」


 オーディンが、目を丸くする。


「神経を?」

「アスクレピオス様です。あの御方の力で、身体の神経と義手の神経を肩部分で繋げています」

「医術の神か。確か、志稲姫の家庭教師をしていたな」

「よくご存知で」

「ふん。志稲姫はあの容姿と性格のせいで、構う奴が多いだろう。彼女の神脈じんみゃくが役に立ったわけだ。で? これが動機か」


 やっと解放して貰えた硬い左腕を、意味もなく反対の手で揉む。


「そんなところです」


 オーディンの表情に翳が差し、暗灰あんかい色に染まった一隻眼が尖った。人間にしては上背のあるアーサーと彼の身長差は比較的少ないというのに、睨まれるだけで、上から踏み潰されるのではないかと思うほど、重苦しく息苦しい威圧感がある。妙に危う気な沈黙が、皮膚をちくちくと刺す。その視線と空気にいたたまれなくなり、アーサーは腕当プレイスを付け直し始めた。


 オーディンが異端な存在たる所以は、その一隻の眼だけではなかった。ヘヴンの者達がとうに失ってしまった何かを、彼だけは宿している気がするのだ。ただ、その正体が何かは、アーサーも分からない。


「よし、気に入った。今度、我が屋敷に来い」

「お、お屋敷にですか?」

「そうだ。その時は使いを寄越す。もう帰って良いぞ」


 そう一方的に告げると、彼は背を向けて去ってゆく。尊敬はするが、少し面倒な神に気に入られてしまったようである。屋敷に行けば、息の詰まるような空間で長時間拘束される羽目になるだろう。

 アーサーは大きく溜息を吐くと、白の籠手ガントレットを嵌め直し、一人帰途につくのであった。



 †



「どうした」

「その、あまりにも立派なおやしろで……」


 シーナはゼドとフェンリルに連れられて、禍津に会いに、南の森に来ていた。清めの水を分けて貰う為である。


「俺のところ襤褸ぼろさは同じだろ」


 ゼドが不貞腐れた。


「だって、これきっと凄く位の高い神様のお社だったんじゃないかしら? とっても大きいわ」


 広大な敷地だ。山が丸ごと一つ、神社に収まっている。森厳しんげんな境内は、凛とした雰囲気を残しながらも、どこか寂漠じゃくまくとして、暗影すら漂う空気が垂れ籠めていた。

 掃除する者の居なくなった石段は、苔と枯葉で滑りやすくなっており、シーナは時折足を取られては、咄嗟にゼドのサスペンダーに掴まり、彼に顔を顰められた。


「うわぁ……立派」


 丹塗にぬりの大鳥居は所々剥がれ、くすんではいるが、相当手の込んだ造り。

 笠が落ちた灯籠が列を成して並ぶ参道には、変色した石畳と玉砂利が広く敷き詰められ、参道の途中には、空っぽの手水舎ちょうずやと風化した鼓楼ころう、茂みの奥には老朽化した神楽殿が見えた。


うぬらは、何者じゃ」

「わぁっ」


 突然掛けられた声に吃驚して、シーナは飛び上がった。声の主は何処か、ときょろきょろ辺りを見回す。


「何用で我が社に足を踏み入れた」


 正中を堂々闊歩していた彼等の頭上から、棘のある声が降ってくる。見上げた先には、石の台座に座る狐がいた。

 全身は白い獣毛で覆われ、二股の尾は稲穂のような金色。尾先と顔には、朱色の模様が彩を添えている。あやかしだ。

 妖狐はその細い首をもたげて、シーナをめつけた。


「禍津さんに会いにきたの」

「禍津に? 嘘を言え。彼奴あやつが社に他の者を立ち入らせるなど、滅多にないことじゃ。……それに、何じゃ」

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