666 -λ

 シーナは薄手の本を手に取ると、ぱらぱら数ページめくってみて、些か顔をげんなりとさせる。


「激しい描写ね」

「そりゃあ勿論。外にはヘヴンの検閲に引っ掛かったものばかりが流通しているからね」

「新鮮で面白いけど、なんだか、綺麗な言葉を散りばめた文章ばかり読んできたから、こういうのは不慣れで……ちょっぴり読み疲れちゃうわ」

「厳しい検閲下を潜り抜けた本には、さぞかし行儀の良い文章が整列していたことだろう」


 顔を上げたイブリースは、紅茶に山羊のミルクを混ぜた。柔らかな山吹色と温かみある乳白色が、カップの中で手を取り合って、くるくると回る。


「確かに、綺麗な言葉遣いは大切だ。身も心も清くなるし、美しい精神でいられる。だけど、たまには悪態を吐いたって、弱音や愚痴をこぼしたっていいと私は思う。耐えきれなければ怒鳴ったっていいし、不安な時は後ろ向きな事を言ったっていい。最後に前に進んでいれば、それで良いのだから」


 あまり難しく考える必要はないよ、と付け足して、イブリースはカップに口をつけた。

 シーナの背後からゼドが腕を伸ばし、シーナの顔のすぐ横にあった本を一冊抜き出す。鮮やかな蓼藍たであいは、染めたての色味をさほど損なっていないようだ。壺か木箱かにでも入れて、雨風を凌げる、湿気のない場所にでも保管していなければ、これほど良い状態を保てないはずだ。さもなくば、とうに本としての形状を維持することなく、塵と化していただろう。


「こんなのあったか? カビ臭い」

「新しく入手した本だよ。西の腐海に沈んでいた市街地跡から、新たに図書館が発掘されたらしい」


 本を開いて、ゼドは眉根を寄せた。


「何語だ?」


 読解不可な記号が羅列している。


「変な形。ゼドにも読めない文字があるのね」


 ゼドに身を寄せて、シーナも一緒になって本を覗き込む。


「俺も万能ではない。知らないことはたくさんあるし、読めない言語は幾つもある。これもいにしえの文明の文字もので、大方消滅した言語なんだろうな。……へぇ、インクも珍しい」


 ゼドがインクの染み込んだ部分を撫でた。


「綺麗な文字ね。使われなくなってしまったなんて、勿体ないくらい」


 飾っておきたくなるほど綺麗な文字だ。その美しい曲線を、シーナは指で真似てみる。やけにしっくりとくる書き心地だ。随所に風景らしき挿絵が描かれてあり、最後にははんのような跡もある。

 イブリースが椅子に腰掛け、自慢げな表情かおをする。


「良い土産物だろう?」


 シーナはゆっくりとページをめくった。慎重に扱わねば、パピルス紙はほろほろと崩れてしまうだろう。腐敗して黄ばんだ紙面には、虫食いの跡。

 彼等の知識をってしても、いつの時代の、どこの文化の文字なのかも判らない本が、数えるのも億劫になるほど膨大な数、この大地に埋まっているのだ。そう思うと、この世界の沿革はなんとも感慨深い。


「誰から仕入れた」

「フェレス卿だよ」

「あのオカルト野郎か」


 ゼドが顔を顰めた。

 笑って頷いたイブリースは、シーナに顔を向ける。


「まあ、文字を追うばかりが学問ではないから、残り少ないインフェルノでの生活を存分に楽しむといい。見て、聞いて、感じて。それがいずれ、君の糧となり、智慧となる」

「そのお守りをするのは、誰だよ」

「おや、ゼドがこの騎士ナイトじゃないのかい」

「違う。やめろ」


 ゼドの剣呑な眼差しを受け流し、イブリースがふと、窓の外を見た。


「おや、ご本人がお出ましのようだ」


 イブリースが目を伏せ、また一口紅茶を悠々と口に含んだ途端、パリンッとアーチ型の出窓が割れ、外気と邪気が流れ込む。


「きゃああっ」

「何だ!」


 怒号のような一声いっせい。ゼドはシーナの襟首をひっ掴み、思い切り引き寄せた。シーナが床に倒れ込むのもお構いなしに、庇うように前に飛び出る。

 冷たい金物かなものが擦れる音。弾ける殺気。硝子ガラスの散らばる残響。

 刹那、火花散る。


「物騒な挨拶だ」


 ゼドの突き出したナイフをステッキの柄で受け止めた男が、窓枠に手をついて、窓台にしゃがむと歌うようにそう言った。

 ぎろり、と仮面マスクの目元から覗いた透き通るようなピンクの瞳が動き、小さな瞳孔でシーナを捉える。


「おや、美味うまそうなメス豚がいる」


 仮面が笑っているように思える。道化師のような出立ちにも関わらず、その実態は、道化とかけ離れた、まったく違う何か。


「フェレスきょう……いい加減、窓を壊すのはやめてくれないかな?」


 吹き込む風が、メフィストの深翠ふかみどりの髪と、ボルドーのベストの上に羽織った燕尾服を揺らす。彼は手についた硝子の破片を一息で吹き飛ばすと、奇抜な柄の蝶ネクタイの位置を直した。


「私の入る戸口が、玄関だ。ところで……誰だね、この小娘は」

「豊穣の神のシーナだよ。シーナ、こっちはメフィスト・フェレス。悪魔だ」


 イブリースが手で双方を指し示す。


「それはそれは、失礼した。楽園の姫君よ。神殿に囚われるのも、飽きてしまったのかね?」

「抜け出して来たのではなく、迷い込んだようだよ」


 イブリースが静かに訂正した。

 メフィストが何かを語るだけで、悪寒が走る。

 ふわりと窓台からシーナの目の前に舞い降りた彼は、シーナの頬を右手でむんずと掴むと、


「ふむ」


 と唸る。


黄金白磁器ボーンチャイナのように、瑞々しく滑らかな肌だ。剥ぎ取ってソファの張り地にしようか。いや、この顔なら剥製でも悪くない」

「なっ……やめてくださいっ」


 シーナは一瞬怯むも、即座にメフィストの手を振り払った。


「肝の据わった娘だ。結構、結構」


 振り払われた手を、痛くもないだろうにひらひらとさせ、彼はその手をそのままベストへと伸ばす。紫のハンカチーフが、ちらりと顔を出す。暫し懐をまさぐると、銀の携帯用酒瓶スキットルを掴む左手が、燕尾服の下から出てきた。節が太く、黒い爪は長く、そして鋭い。


「何をしに来た」


 ゼドがシーナの腕を引き、背中に隠した。牙を剥き、今にも襲い掛かりでもしそうな形相だ。


「その蛇眼じゃがんで睨むのはやめてくれ。それに、ここは貴様の家でもなかろう」


 脱いだシルクハットと燕尾服をソファの背に掛け、ステッキを肘掛けに立て掛けると、彼はハイバックソファの中央に座って脚を組んだ。

 ゼドの背後から恐る恐る顔を出したシーナは、目線を合わせるように身体を傾けたメフィストと目が合うとたじろぎ、縮こまって、またゼドの後ろにすごすごと大人しく隠れた。しかし、メフィストの凍てついた視線は尚も、ゼドを透かしてシーナを射抜いているようであった。


「別に取って食いやしないさ」

「お前は信用ならない」

「おや、ひどいことを言う」


 メフィストは笑って、家主のような態度で、三人にも座るよう指示する。呆れた様子のイブリースが、仕方なしにソファに腰を沈めた。ゼドもシーナを連れて、ナイフを握ったまま座る。


「フェレス卿。奔放なのはよそでだけにしてくれないか。この家に一歩入れば、貴方は客人だ。招かれた者としての礼節をわきまえなさい」


 まるで子供を諭すような口ぶりである。


「私は誰にも指図されない。何処であろうと、私が主人ホストであり、ルールであり、絶対である」

「それと、私の家での行儀作法マナーの話とは、また違うと思うのだが」

「まあ、貴殿の頼みだ、考えてやらんこともない」

「頼みではないのですよ、フェレス卿?」


 イブリースの懐が深いのか、彼の扱いに慣れているのか、単に子供相手の認識なのか。どちらにせよ、メフィストフェレスが奇人であることには変わりない。


「貴様らが聞きたがる話を、この私自ら、わざわざ持ってきてやったんだ。感謝こそすれ、追い出されるいわれはない」

「どうせまた、魂を貪り食らってる時に偶々耳にしただけの与太話よたばなしだろう」


 脚に頬杖をついたゼドがそう言った。ナイフのきっさきは未だ、まっすぐメフィストの心の臓に狙いを定め、ゆらゆらと揺れている。

 当の本人は、悠長にスキットルから酒をあおった。濃度の高い蒸留酒の匂いがする。


「ご名答。察しがいいね」

「察しがいいも何も、お前の考えていることなんざ、魂を食らうことか、自分の利益か、人様が流言に翻弄される様を嘲笑うことくらいだ」

「人聞きの悪いことを言うじゃないか」

「本当のことだからさ」


 ゼドが鼻で笑う。メフィストの表情は窺い知れないものの、彼の骨張った長い指は、しきりに仮面の顎の縁をさすった。


末期癌ヘヴンの話だ。そこの姫君も聞きたかろう」


 開闢かいびゃくより、悪魔とは人にわざわいもたらす魔羅まらけだもの

 けだし、の者がうそぶ讒言ざんげんは、迷妄に光差す道標みちしるべであり、真贋しんがんのわからぬ道義を、真正たらしむ不義でもあった。




 第二章 【666】 了───

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