666 -κ

 シーナは、平たい大陸をまじまじと見つめた。ヘヴンの外に広がる世界は、果てしなく広かった。どんな場所なのだろう。どんな風が吹き、どんな花が咲いているのだろう。

 地図を見るだけで、自分がどれだけちっぽけな存在なのか、思い知らされるようであった。


「世界って大きいのね……」

「所々補完してはいるけれど、完全じゃない。情報屋や堕天使のツテをあたって情報を掻き集めても、未だ完成には至らないんだ」

「端っこは? 大陸の端はどうなっているの?」

「南には氷の大地が広がり、東は恐らく巨大な滝で大陸が終わっているようだけど、あとは分からない」


 イブリースの綺麗な指先が、大陸のふちをゆっくりなぞっていく。


「ヘヴンに住んでいれば、さして重要なことじゃないからな。地図から省いていたら、いつの間にか、本当の姿すら分からなくなったって阿呆あほうな話さ」


 ゼドが言う。


ふるい知識は、時を経るに連れて風化していく。口伝くでんにも限界がある。だから、こうやって書き留め、遺すことは大切だ。それを平気で捨てる、ヘヴンの御偉方の気が知れないね。積み上げてきた歴史が、一瞬で無に帰してしまう」


 イブリースが肩をすくめる。

 シーナは地図を撫でた。何度も書き足し、再考した跡が残っている。


「このマークは何?」


 シーナは、ヘヴンの中心部分に点々と付けられた、赤いばつ印を指差した。

 二人が胸中でほくそ笑んだことを、シーナは知らない。


「世界の、心臓だよ」


 木からがれ、潰された柘榴が脳裏を過ぎった。果実にナイフが刺さり、赤々とした液体が溢れてとめどなく流れる様子は、何度も思い出してしまうほど印象的であった。


「正確には、世界の心臓があるだろうと予想される場所の候補さ」

「世界にも、心臓があるの?」

「本来はなかったんだけどね。散らばっていた人間や神が一箇所に集まったが為に、世界の密度に偏りが生じ、同時に心臓もできてしまった。隅々にまで神の力を送り出すポンプとしての役割なんだろうね。ほら、人間の心臓も、血液を全身に送り出す為に拍動するだろう?」

「俺には、心臓というよりうみに見えるがな」


 算盤を弾くゼドが、横から付け足す。


「心臓ができること自体は、格別悪いことのように聞こえないけど……」


 シーナが訊ねる。


「以前話したように、この世界は正気と邪気を淵源えんげんとしている。昔は煉獄かべなどなく、ヘヴンやインフェルノなどという棲み分けもなかった」


 イブリースの指が地図上を移動する。黄金螺旋の形をしたヘヴンの外周部分、煉獄という外壁が聳える部分を滑った。


「世界の心臓がどんなものかは知らないが、ヘヴンの奥、目立たぬ場所で、それそれはご丁寧に保管されているようだよ。警備は堅牢、上役達は揃って口を閉し、誰も立ち入らせないようにしているだろうね」

「え? ヘヴンの奥に? 奥って、エルサレム神殿のこと?」

「恐らく」


 イブリースがうなずく。

 エルサレム神殿は神殿街に立つ、ヘヴンで最も大きな神殿だ。豪奢で壮麗な外観で、神殿街の中心に堂々と鎮座している。ガオケレナという白いハオマの大木が、アスガルドという地区の東側に生えていて、エルサレム神殿はこの大木に後ろ半分がその幹に飲み込まれる形で建っている。

 ここでは、さまざまな審判がなされる為、その決議に関わる十五の最高神達のは、この神殿近くに住んでいた。


「てっきり、審判をする為だけの、最高神様達の仕事場だと思っていたわ」

「表向きはそうだ。ああ、そういえば、エルサレム神殿には地下牢もある。知らないだろう」


 シーナは固まった表情で、こくりこくりと頷いた。牢という非神道的ひじんどうてき代物が、存在していたことに驚いたのだ。

 ヘヴンの暗部がつまびらかにされてゆくことには、不安を覚える。しかし、知らなければならないことだということも、シーナは理解していた。

 まだ他に何かあるのかと、シーナはイブリースを見上げる。彼は、老人の浮かべるような、のどやかな笑みを湛えている。


「地下牢の存在がそんなに恐ろしいかい? そうだろうね。裏門や地下牢があるならば、他にもどんな秘め事が隠されているか、わかったものではないからね」

「地下牢には誰かが閉じ込められているの?」

「そうだよ」


 否定して欲しいという、シーナの淡淡あわあわしい期待は見事打ち砕かれた。


「今まで発見された神殿跡から考えるに、拷問器具もあるはずだ。つまりは、実際にそれを使って、拷問が行われているはず。拷問を受ける者はどうして、そんな仕打ちをされねばならなかったのか。罪故か、将又はたまたその身に宿し悪故か」


 イブリースの声を聴くと、まるで讃美歌でも聴いている気分になる。その内容がこく内容ものだとしても、穏やかな口調と優しい声音は、牧師の捧げる愛ある言葉とひどく似ていた。

 彼は棚から、木の筒に羊皮紙を巻き付けた巻物を一本抜き取って、広げると、綴られた文字に目を通す。


「その答えの真相は、高位の座に就く神にたださねば分からないだろうが、ただひとつ大切なのは、罪も悪も、ヘヴンの内側でも生まれているという事実だけだ。烈火の壁を設けても、幾ら悪を排除したとしても、世界は悪という存在ものを切り離せないことが、ここでも証明されている」

「滑稽だろう」


 ゼドが駒を二手に分けると、別々の位置へと動かした。


「さっきから、何をしているの?」


 コンパスで距離を測り、駒をまた一つ前進させた彼の手元を、シーナは食い入るように眺めた。線は細く、指が長い。器用そうで、ナイフを握るには惜しい手だ。そんな物騒なものなど握らず、絵筆でも握った方が遙かに似合っている。


「お前がヘヴンに帰る為の算段を立てている」

「私の?」


 イブリースが頷く。


「シーナ、君も既にわかっているだろうが、私達が君を送れるのは門の近くまでだ。ヘヴンの者が私達を見つければ、殺しにかかってくるだろう。衝突はなるべく避けたい」

「ありがとう。十分だわ」

「ヘヴンの者は皆、君を知っている。失踪の話も既に回っているはずだ。上手く見つけて貰えれば、すぐ保護してもらえるよ。向こうも君を血眼になって探しているようだしね」

「そうなの?」

「見回りが増えたお陰で、最近は煉獄付近には気軽に近寄れなくなった」


 ゼドがぼやく。

 シーナは、ヘヴンの友や家族のような存在の神官達の顔を思い出した。きっと心配しているだろう。他の神にも、迷惑をかけてしまっている。

 インフェルノに来ても、毎日祈祷だけは夜明けと正午、そして日没前に三度行っているものの、ヘヴンの作物が枯れていないことを願うばかりである。


「もう少し計画を詰めよう」


 二人はまた、議論を始めた。シーナは聞いていても何も分からないぞと、ゼドに追いやられる。仕方なしに、シーナは本棚の前を行ったり来たりして、自由気ままに室内を彷徨うろついた。


「イブも読書家なのね」

「気に入りそうなものはあった?」

「難しそうなのばかりで……」

「地下室にもまだたくさんあるから、見ていくといい」

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