666 -ι
「そうやって、いつも貴方は……」
「……お、い。どうした。……何故、泣く」
「知らないわよ! 勝手に流れてくるんだもの!」
ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、シーナが叫んだ。両手で顔を覆い、彼女は表情を隠す。小刻みに揺れる肩に置こうとした手は、触れる手前で逡巡し、結局触れずにいる。地面に落ちる涙を
「どうしていつも、そうやって突き放すの? その優しさは、残酷よ。お願いだから、黙って距離を取らないで」
「シーナ……」
「離れていかないで」
宙を
「私の知らないところで、危険を一身に背負おうとしないで。傷だらけになってまで、私を守ろうとしないで。貴方はいつも多くを語らないけれど、それは少し寂しいの。貴方を失うかと思うと、とても怖い。私は貴方を犠牲にして得た幸せなんて要らないの!」
そう
彼女はいつも脇目もふらず、何をも
「叶うなら、私はこれからも貴方の傍に立っていたい。堂々と立っていたいの。貴方の隣で見る世界は、とても美しいものだから」
にこりと笑うその姿は、天から舞い降りた
「……言うようになったな」
「ええ。私、結構図太いのよ」
得意げな
二人で見上げる夜空は心なしか、いつもよりたくさんの星が、燦爛と降っているような気がした。
†
「下手くそ」
振り返った先には、腕を組み、木の幹に寄り掛かるゼドがいた。昇ったばかりの朝日を浴びたゼドは、より一層、神々しく見えた。シーナは額に手を翳して、目を細める。
彼の格好は、何処の衣服なのだろう。見覚えあるもののような、どこのものでもないような。
「お前は本当に、愚直だな」
ゼドは幹から身体を離し、地面に落ちたナイフを拾う。シーナが投げたものだ。
「素直って、言って欲しいわ」
膨れっ面をしてみせるシーナに近寄りながら、ゼドは太腿に巻いた手製の革ベルトに挿していたナイフを一本、抜き取った。
「はいはい、まっすぐだよ。でも、このサイズはまだ早い。練習するなら、もっと軽くて小さなものから始めろ」
「台所から適当に選んできちゃったから」
ゼドは拾った果物ナイフを見た。手袋越しに手に馴染む、木製の柄。生命の果汁を吸ったことのない、綺麗な白刃。
「お前に、ナイフの扱い方を教えてやる」
ゼドはシーナにナイフの持ち手を握らせた。背後から抱え込むようにして、シーナのナイフを握る手に、自分のそれを重ねる。
「あの
「あれ? あの左の?」
「そうだ。灰褐色の幹だ。本来なら、敵の眉間だと思えって教えていたところだが、まあお前の場合、腕も脚でもいい。とりあえず当たれば上出来だ」
「的、遠くないかしら?」
「やってみなきゃわからないだろ。この俺が教えるんだ、あれくらい仕留められるようになれ」
最初は風や重力に負けて、へなへなと不時着していたナイフも、暫く練習すると、幹に当たるようになった。
「ねえ、今の見た? 当たったわ!」
「刺さってから喜べよ」
ぱっと笑顔でゼドを振り返り、喜ぶシーナに、あいも変わらず彼は辛口だ。
「身体を曲げるな、背筋を伸ばせ。折角溜め込んだ力が分散している。見てろ」
ゼドは、シーナが持ってきた果物ナイフを持つと、間髪入れず、流れるような所作でそれを投げた。放たれたナイフは真っ直ぐに空を裂き、柘榴に突き刺さって、実ごとぼとりと地に落ちた。ひび割れた果皮から、ぎっしり詰まった果肉が溢れる。
「すごい! さすがお兄ちゃん!」
ゼドは幹に近付き、刺さった柘榴ごとナイフを拾った。果実から流れ出た、深紅の果汁が刀身を伝い、黒手袋を濡らして、手首から肘へと
「インフェルノの柘榴は、樹液も美味いんだ」
ゼドが柘榴から抜いたナイフで樹皮を剥ぎ取ると、粘性のある真っ赤な樹液がたらりと伝う。まるで、木が血を流しているようだった。
「見た目は少し不気味ね……」
「飲んでみるか?」
ゼドがシーナに樹皮を渡す。繊維の間に絡まる液体を指で
「お、美味しい……」
見た目は酷いものの、味は極上のデザートのようだ。
「口を開けてみろ」
「こう?」
「もっと大きく」
口を開けたシーナの顎を、ゼドが指先で持ち上げる。何事かと思った矢先、シーナの口の上でゼドが柘榴を握り潰した。奇しくも、戦場で魔獣の心臓を握り潰す姿と重なる。
柘榴のジュースが、シーナに注がれた。口許や頬に果汁が飛び散るも、構やしない。そのまま飲み下す。胃が満ちる。甘い。
「そこのお二人さん。お茶はどうかな?」
イブリースが、傾いだ扉から顔を覗かせ、二人を呼んだ。
「アスフォデルスの花の紅茶だ。美味しいよ」
「わあ、いい香り。ありがとう……イブ、何で笑っているの?」
イブリースは笑いながら、戸を潜ろうとしたシーナの肩を掴んで振り向かせた。布でごしごしと口許を拭かれる。
「二人とも、食後の獣みたいだ」
「え?」
「ほら、鏡をごらんよ」
イブリースが差し出した手鏡を覗くと、口許を真っ赤に染めた自分が映っており、シーナは驚いた。ゼドを振り返ると、
「これは……ひどい有様だわ」
思わずシーナも吹き出す。
手と顔を洗い、改めて食卓に戻ると、イブリースがゼドを呼んだ。
「ゼド、ちょっと」
ゼドとイブリースは古ぼけた地図を前に、何やら真剣な顔つきで話し込む。覗き込みたい衝動を抑え、シーナはその様子を、紅茶を飲みながら静かに見守った。そんな彼女をちらりと見たイブリースが、シーナを手招きした。ティーカップをソーサーに置き、シーナは椅子から弾むように降りると、彼等の脇から、大きな革の紙に描かれた地図を覗く。
「これ……動物の皮?」
「正解。羊皮紙だよ。多分そっちでは蛮族のものだと言う輩もいると思うけどね、インクが薄れたら上から削れるし、耐久性もある。加工すればとても筆写に適しているんだ」
シーナは地図の端に触れてみる。とても薄く引き伸ばされ、磨き上げられているが、間違いなく動物の皮だ。ヘヴンでは、パピルス紙という水草の茎の表皮で作った紙を用いている。それに比べると、やや作るのに苦労が要りそうだが、インフェルノの過酷な環境下とあれば、寧ろ頑丈な羊皮紙の方が
「これはね、君が
「私の?」
シーナは地図をまじまじと見つめた。幾多もの線が、地図の上に引かれている。片眼鏡を掛けたイブリースが、また一本、線を書き足した。
テーブルには、地図の他にも、コンパスに
「知恵と肉体は時に武器に勝つ。一見、難しそうに見える戦局も、作戦次第では此方に利が傾く」
あれこれ言い合って、
「何笑ってんだ」
「あら? 私笑ってた? 二人があまりに楽しそうにしているから」
イブリースとゼドは、驚いた様子で顔を見合わせる。ふっ、と空気の抜けるような笑いを零したイブリースは、シーナの肩を抱き、二人の間に彼女を導いた。
「見てごらん、これが
***伏線の手引き***
ゼドの服。見覚えあるもののような、どこのものでもないような。
ギリシャ神話に登場する大地と豊穣の女神デメテルの娘、ペルセフォネーは冥界の王ハーデスに見初められて、冥界に連れてかれてしまいます。
彼女が冥界で唯一食べたのが、柘榴の実なんだそうです。柘榴の別の意味も色々あるらしいですね。
アスフォデルスって花、インフェルノの花畑(聞き覚え)に咲いてるらしいですよ☺︎
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