666 -ι

「そうやって、いつも貴方は……」

「……お、い。どうした。……何故、泣く」

「知らないわよ! 勝手に流れてくるんだもの!」


 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、シーナが叫んだ。両手で顔を覆い、彼女は表情を隠す。小刻みに揺れる肩に置こうとした手は、触れる手前で逡巡し、結局触れずにいる。地面に落ちる涙をすくうことすら、ゼドは躊躇した。自分に差し出せるのは、何の慰めにもならない、ただの血に濡れた掌だ。


「どうしていつも、そうやって突き放すの? その優しさは、残酷よ。お願いだから、黙って距離を取らないで」

「シーナ……」

「離れていかないで」


 宙を彷徨さまようゼドの手を、シーナが捕まえた。縋るように弱々しげに、離すまいと力強く。


「私の知らないところで、危険を一身に背負おうとしないで。傷だらけになってまで、私を守ろうとしないで。貴方はいつも多くを語らないけれど、それは少し寂しいの。貴方を失うかと思うと、とても怖い。私は貴方を犠牲にして得た幸せなんて要らないの!」


 そうまくし立てたシーナが、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげた。

 彼女はいつも脇目もふらず、何をもなげうって此方に駆け寄ろうとする。生まれなど些細な問題ことだと跳ね返し、残虐な本能すらもゼドの一部だと受け止め、自分の非力を素直に嘆き、何度も立ち上がってはその華奢な身体で精一杯気丈ぶる。


「叶うなら、私はこれからも貴方の傍に立っていたい。堂々と立っていたいの。貴方の隣で見る世界は、とても美しいものだから」


 にこりと笑うその姿は、天から舞い降りた天津乙女あまつおとめ。その微笑みに耐えかねて、ゼドは彼女から視線を外した。


「……言うようになったな」

「ええ。私、結構図太いのよ」


 得意げな表情かおでシーナは涙を拭い、ゼドと揃って空を仰いだ。

 二人で見上げる夜空は心なしか、いつもよりたくさんの星が、燦爛と降っているような気がした。



 †



「下手くそ」


 振り返った先には、腕を組み、木の幹に寄り掛かるゼドがいた。昇ったばかりの朝日を浴びたゼドは、より一層、神々しく見えた。シーナは額に手を翳して、目を細める。朝露あさつゆに濡れた草を踏む編み込みブーツ、ぴしりと弛みのないX字のサスペンダー。黒いシャツには光沢があり、紺地のハーフパンツはシンプルで洒落た造形。

 彼の格好は、何処の衣服なのだろう。見覚えあるもののような、どこのものでもないような。


「お前は本当に、愚直だな」


 ゼドは幹から身体を離し、地面に落ちたナイフを拾う。シーナが投げたものだ。


「素直って、言って欲しいわ」


 膨れっ面をしてみせるシーナに近寄りながら、ゼドは太腿に巻いた手製の革ベルトに挿していたナイフを一本、抜き取った。


「はいはい、まっすぐだよ。でも、このサイズはまだ早い。練習するなら、もっと軽くて小さなものから始めろ」

「台所から適当に選んできちゃったから」


 ゼドは拾った果物ナイフを見た。手袋越しに手に馴染む、木製の柄。生命の果汁を吸ったことのない、綺麗な白刃。


「お前に、ナイフの扱い方を教えてやる」


 ゼドはシーナにナイフの持ち手を握らせた。背後から抱え込むようにして、シーナのナイフを握る手に、自分のそれを重ねる。


「あの柘榴ざくろの木が的だ。姿勢を正して、的をしっかり見て狙え」

「あれ? あの左の?」

「そうだ。灰褐色の幹だ。本来なら、敵の眉間だと思えって教えていたところだが、まあお前の場合、腕も脚でもいい。とりあえず当たれば上出来だ」

「的、遠くないかしら?」

「やってみなきゃわからないだろ。この俺が教えるんだ、あれくらい仕留められるようになれ」


 最初は風や重力に負けて、へなへなと不時着していたナイフも、暫く練習すると、幹に当たるようになった。


「ねえ、今の見た? 当たったわ!」

「刺さってから喜べよ」


 ぱっと笑顔でゼドを振り返り、喜ぶシーナに、あいも変わらず彼は辛口だ。


「身体を曲げるな、背筋を伸ばせ。折角溜め込んだ力が分散している。見てろ」


 ゼドは、シーナが持ってきた果物ナイフを持つと、間髪入れず、流れるような所作でそれを投げた。放たれたナイフは真っ直ぐに空を裂き、柘榴に突き刺さって、実ごとぼとりと地に落ちた。ひび割れた果皮から、ぎっしり詰まった果肉が溢れる。紅玉ルビーの宝石箱をひっくり返したようだ。


「すごい! さすがお兄ちゃん!」


 ゼドは幹に近付き、刺さった柘榴ごとナイフを拾った。果実から流れ出た、深紅の果汁が刀身を伝い、黒手袋を濡らして、手首から肘へとしたたる。赤い跡を残しながら流れる果汁を、先の割れた長い舌が舐めとった。その仕草は、ぞくりと震えるほど扇情的で、妙に艶かしく、どことなく淫靡な雰囲気さえ漂う。甘くまどかな濃香が、シーナの鼻腔をくすぐった。


「インフェルノの柘榴は、樹液も美味いんだ」


 ゼドが柘榴から抜いたナイフで樹皮を剥ぎ取ると、粘性のある真っ赤な樹液がたらりと伝う。まるで、木が血を流しているようだった。


「見た目は少し不気味ね……」

「飲んでみるか?」


 ゼドがシーナに樹皮を渡す。繊維の間に絡まる液体を指でこそぎ取って舐めてみると、桃やあんずのような、ねっとりとした甘みがした。


「お、美味しい……」


 見た目は酷いものの、味は極上のデザートのようだ。


「口を開けてみろ」

「こう?」

「もっと大きく」


 口を開けたシーナの顎を、ゼドが指先で持ち上げる。何事かと思った矢先、シーナの口の上でゼドが柘榴を握り潰した。奇しくも、戦場で魔獣の心臓を握り潰す姿と重なる。

 柘榴のジュースが、シーナに注がれた。口許や頬に果汁が飛び散るも、構やしない。そのまま飲み下す。胃が満ちる。甘い。


「そこのお二人さん。お茶はどうかな?」


 イブリースが、傾いだ扉から顔を覗かせ、二人を呼んだ。


「アスフォデルスの花の紅茶だ。美味しいよ」

「わあ、いい香り。ありがとう……イブ、何で笑っているの?」


 イブリースは笑いながら、戸を潜ろうとしたシーナの肩を掴んで振り向かせた。布でごしごしと口許を拭かれる。


「二人とも、食後の獣みたいだ」

「え?」

「ほら、鏡をごらんよ」


 イブリースが差し出した手鏡を覗くと、口許を真っ赤に染めた自分が映っており、シーナは驚いた。ゼドを振り返ると、しなびた柘榴の実を持つ両手を赤い液体塗れにし、シーナ同様、頬には赤が飛び散っている。


「これは……ひどい有様だわ」


 思わずシーナも吹き出す。

 手と顔を洗い、改めて食卓に戻ると、イブリースがゼドを呼んだ。


「ゼド、ちょっと」


 ゼドとイブリースは古ぼけた地図を前に、何やら真剣な顔つきで話し込む。覗き込みたい衝動を抑え、シーナはその様子を、紅茶を飲みながら静かに見守った。そんな彼女をちらりと見たイブリースが、シーナを手招きした。ティーカップをソーサーに置き、シーナは椅子から弾むように降りると、彼等の脇から、大きな革の紙に描かれた地図を覗く。


「これ……動物の皮?」

「正解。羊皮紙だよ。多分そっちでは蛮族のものだと言う輩もいると思うけどね、インクが薄れたら上から削れるし、耐久性もある。加工すればとても筆写に適しているんだ」


 シーナは地図の端に触れてみる。とても薄く引き伸ばされ、磨き上げられているが、間違いなく動物の皮だ。ヘヴンでは、パピルス紙という水草の茎の表皮で作った紙を用いている。それに比べると、やや作るのに苦労が要りそうだが、インフェルノの過酷な環境下とあれば、寧ろ頑丈な羊皮紙の方が勝手かってが良いだろう。


「これはね、君がヘヴンに帰る為の算段さ」

「私の?」


 シーナは地図をまじまじと見つめた。幾多もの線が、地図の上に引かれている。片眼鏡を掛けたイブリースが、また一本、線を書き足した。

 テーブルには、地図の他にも、コンパスに算盤そろばん兵棋へいぎや羅針盤が置いてある。


「知恵と肉体は時に武器に勝つ。一見、難しそうに見える戦局も、作戦次第では此方に利が傾く」


 あれこれ言い合って、机上きじょうで駒を動かす彼等の表情は、悪戯をくわだてる少年のように、生き生きとしていた。悪巧みをする邪神達は正に、水を得た魚。


「何笑ってんだ」

「あら? 私笑ってた? 二人があまりに楽しそうにしているから」


 イブリースとゼドは、驚いた様子で顔を見合わせる。ふっ、と空気の抜けるような笑いを零したイブリースは、シーナの肩を抱き、二人の間に彼女を導いた。


「見てごらん、これが世界地図アトラスだ」




***伏線の手引き***


ゼドの服。見覚えあるもののような、どこのものでもないような。


ギリシャ神話に登場する大地と豊穣の女神デメテルの娘、ペルセフォネーは冥界の王ハーデスに見初められて、冥界に連れてかれてしまいます。

彼女が冥界で唯一食べたのが、柘榴の実なんだそうです。柘榴の別の意味も色々あるらしいですね。



アスフォデルスって花、インフェルノの花畑(聞き覚え)に咲いてるらしいですよ☺︎

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