666 -θ
ゼド、おはよう。今日は釣りにいかないかい?
ゼド……え? 何その顔! また喧嘩したの?
ゼード! 最近ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?
元気な大声、心配そうな声音、ふざけた口調。くるくると変わる表情の豊かさはそう、シーナとそっくりだ。青みがかった白髪は、夜闇を照らす
ゼドに知恵を授けてくれたのは、ベルゼブブだった。
『君さ、つまらないことをしてるね。僕がもっと面白いことを教えてあげるよ』
彼が何の興味でゼドに声を掛けたのかは知らない。ただ、路地の隅に座り込んでいたゼドが見上げた先に、あまりにも眩しい笑顔の男が差し伸べる、大きな手があったことを覚えている。
彼はたくさんのことを教えてくれた。世界の成り立ち、様々な文化とその
ゼドという名を与えてくれたのも、ベルゼブブだった。
『名というものは大切だ』
名無しの
『君に友達ができたら、その名で食卓に招いてくれるだろう。君が何かを成し遂げた時、功績と共に綴られた名を、口々に叫ぶ者達が現れるだろう。いつしか愛しい者ができた時には、愛の言葉を添えて、君の名を囁いてくれるだろう』
そして、したり顔でこう言うのだった。
『君の名は、ゼド。ヨルムンガンドのゼドだ』
彼が付けてくれた名は、初めてゼドが貰った贈り物であり、虚偽と贋造物に溢れた世界で、初めて手にした本物であった。
「意味は?」
「神の正義。俺には
「そんなことない。ベルって神様は、ゼドのこと本当に大切に思っていたのね。じゃなきゃこんな素敵な名前は付けられないわ。由来は? あるの?」
「まあ……」
『ヨルムンガンドから取って、ガドってのはどうだい?』
『嫌だ』
ゼドは本に
『羊飼いと同じ名なんて嫌だ』
『じゃあ、ゼド、かな。今は亡きセトとも似ているね。どう? 良い名だと思わないかい?』
『破壊と戦争の神か』
『国の境が消えて、戦がなくなって、もう戦争の象徴としての彼は滅んで消えてしまったけれど、
『俺は英雄にはならない。そんな意味を持たせて後悔するぞ』
鼻で笑ったゼドの言葉を、彼は珍しく真剣な眼差しで否定した。
『君は生まれてきただけで、尊い存在だ。そして、才知や武勇を得ようと、
彼の在りし日の記憶が、脳裏を過っては、霞んでゆく。
彼は実力もあった。
そんな彼は、ゼドを守って死んだ。彼は命尽きる寸前まで、気高かった。
『死は誰にでも訪れる』
ベルゼブブは、微笑みながら死んでいった。その身を
『神を怨むな。人を憎むな』
怨まないなど出来ようか。ましてや、憎しみを抱かないなど。
『ゼド、幸せになるんだぞ』
そう言って、ベルゼブブは死んでいった。
「溶かした水銀を、口から流し込まれた気分だった」
ベルゼブブの遺した言葉は、図らずもゼドの心を徐々に
「
再誕とは、神の生まれ変わりのことである。神は人間の祈りや願いによって生まれ、長い時を生きるが、勿論その命は不滅ではない。
神が死ぬ原因は二つ。神に殺されるか、人間の思念の中で死ぬか。そのどちらかだ。
神の持つ武器、神器で殺されれば、また新たに同じ神が別個体として、この世に生まれる。この時、記憶などは引き継がれない。あくまでも、真っさらな状態で同じ役割の神が誕生しただけである。
もう一つは、人間の信仰や認知を
「分からない。再誕できなかったのかもしれないし、何処かでしたのかもしれない。が、ヘヴンの奴等が力の強いあいつを放って置くとは思えない。例え、別の個体として生まれ変わっていたとしても、何かしらの措置を講じているだろう」
ベルゼブブは悪魔の首領である一方、恵みの雨を
機嫌が良い彼の見上げた空は、去来する稲光に雲が引き裂かれ、山に一歩踏み込めば、霧氷の張った
ゼドは、バルコニーから外の景色を眺めるシーナを見た。艶めく黒髪が、腰までまっすぐ降りている。
思わず、手を伸ばした。
シーナの髪から
ゼドがシーナを拾ったのは、ベルゼブブと同じ、豊穣の神だったからなのかもしれない。
「俺はまだ、本能の制御が利かない。危険を感じたら、すぐに離れろ。今日みたいな……ああいうことは、二度とするな。次は、抑えられないかもしれない」
「
シーナは不興顔で振り向いた。
「我が儘を言うな」
「お兄ちゃんが何と言おうと、絶対に嫌よ。貴方がまた暴れても、獣を殴っても、人に喰らい付いても。例え私を殺そうとしても離れないわ。脅しても無駄よ」
ゼドの赤眼がギラリと光った。
身の毛のよだつ冷気が背筋を撫でる。
ほんの瞬きにも満たぬ間に、ゼドはシーナとの距離を一気に詰めた。
体温を感じるほど傍に。息が掛かるほど近く。
「邪神はいつも、悪という渇きに苛まれる。理性は簡単に吹き飛び、獣と化す。そして欲望に忠実な奴隷に成り下がる」
「貴方は自分の心を大切にする人よ。奴隷には
シーナは一生懸命反論する。
「私は知っているわ。お兄ちゃんが強い心を持った神様だってこと」
二人の間に残ったほんの僅かな隙間を埋めるように、シーナはそっと、ゼドに歩み寄った。
「私は見たわ。貴方が私を守ろうとしてくれているところ。私はわかっているわ。貴方は不器用で、
シーナの襟から覗く、なだからかな
ぴくりと彼女が反応した。邪気の多い空間では、善神の治癒は遅い。
「邪神を甘く見過ぎだ。このまま、お前の身体に毒を流し込むことだってできるんだぜ」
無機質な言葉、冷たい表情、鉄の
ゼドを見た者は口を揃えてこう言う。
悪魔だ、と──。
そうして
「俺は人を殺せる。神をも殺せる。倫理? 道徳? そんなもん知らねえな。美学も善行も、正義も糞食らえだ。毒に苦しむ者の最期の姿、見たことあるか? ないだろうな。顔を真っ青にして、目を血走らせ、必死になって首を掻くんだよ。全身から血の気を引かせて、痙攣するんだ。最後は、白目を剥いて泡吹いて、事切れる。滑稽な様さ」
そうだ、思い出せ。
「俺は人間を苦しめる為に生まれた。奴らをああやって死の淵に追いやるのが俺の
「違うって言ってるでしょ!」
ゼドは目を見開いた。シーナが怒ったからである。
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