666 -θ

 ゼド、おはよう。今日は釣りにいかないかい?

 ゼド……え? 何その顔! また喧嘩したの?

 ゼード! 最近ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?


 元気な大声、心配そうな声音、ふざけた口調。くるくると変わる表情の豊かさはそう、シーナとそっくりだ。青みがかった白髪は、夜闇を照らすりんともしび。丸く大きな紫の瞳は、芳醇な葡萄を彷彿とさせた。

 ゼドに知恵を授けてくれたのは、ベルゼブブだった。狂瀾怒濤きょうらんどとうの見知らぬ土地にひとり放り出された幼きゼドは、廃れた街を喪屍ゾンビのように彷徨い歩いて、時に追剥おいはぎに、時に詐欺ペテン師に、時に獣じみた殺人鬼となって、なんとか生きながらえていた。我武者羅がむしゃらに人間を殴り、持ち物を身包み剥いだ。他人を欺き、懐から金をせしめた。見様見真似で魔獣の喉笛に喰らい付き、その血肉を啜った。それらの芸当が一級品に上達した頃には、すっかりゼドは身も心も疲弊しきっていた。


『君さ、つまらないことをしてるね。僕がもっと面白いことを教えてあげるよ』


 彼が何の興味でゼドに声を掛けたのかは知らない。ただ、路地の隅に座り込んでいたゼドが見上げた先に、あまりにも眩しい笑顔の男が差し伸べる、大きな手があったことを覚えている。

 彼はたくさんのことを教えてくれた。世界の成り立ち、様々な文化とその栄枯盛衰えいこせいすい、インフェルノの土地のこと。ナイフとフォークの扱い方、読書の楽しさ、世故せこと処世術、より上等な籠絡マジック似非エセ紳士の品行マナーも。

 ゼドという名を与えてくれたのも、ベルゼブブだった。


『名というものは大切だ』


 名無しの野良ノラだったゼドに、彼はそう言って聞かせた。


『君に友達ができたら、その名で食卓に招いてくれるだろう。君が何かを成し遂げた時、功績と共に綴られた名を、口々に叫ぶ者達が現れるだろう。いつしか愛しい者ができた時には、愛の言葉を添えて、君の名を囁いてくれるだろう』


 そして、したり顔でこう言うのだった。


『君の名は、ゼド。ヨルムンガンドのゼドだ』


 彼が付けてくれた名は、初めてゼドが貰った贈り物であり、虚偽と贋造物に溢れた世界で、初めて手にした本物であった。


「意味は?」

「神の正義。俺には大凡おおよそ似つかわしくないだろ」

「そんなことない。ベルって神様は、ゼドのこと本当に大切に思っていたのね。じゃなきゃこんな素敵な名前は付けられないわ。由来は? あるの?」

「まあ……」




『ヨルムンガンドから取って、ガドってのはどうだい?』

『嫌だ』


 ゼドは本にうずめていた顔を上げ、すぐに反対した。


『羊飼いと同じ名なんて嫌だ』

『じゃあ、ゼド、かな。今は亡きセトとも似ているね。どう? 良い名だと思わないかい?』

『破壊と戦争の神か』

『国の境が消えて、戦がなくなって、もう戦争の象徴としての彼は滅んで消えてしまったけれど、冥府めいふの神と豊穣の神を兄姉けいしに持つ、僕達じゃの者の英雄だ』

『俺は英雄にはならない。そんな意味を持たせて後悔するぞ』


 鼻で笑ったゼドの言葉を、彼は珍しく真剣な眼差しで否定した。


『君は生まれてきただけで、尊い存在だ。そして、才知や武勇を得ようと、直向ひたむきに努力をしている。それのどこが、英雄の名に相応しくないなどと言うのか。僕には君が輝いて見えるよ、英雄のようにね』


 彼の在りし日の記憶が、脳裏を過っては、霞んでゆく。

 彼は実力もあった。天翔あまかける者達は皆、彼の前にかしずいた。思慮深く、情に厚い性格で、畏怖と共に敬仰の念を抱かれていた。彼が歩けばあやかしこきとばかりに、邪神はこうべを垂れ、魔獣達は道を開け、人間は膝をつき、頭を上げることすら出来なかった。

 そんな彼は、ゼドを守って死んだ。彼は命尽きる寸前まで、気高かった。


『死は誰にでも訪れる』


 ベルゼブブは、微笑みながら死んでいった。その身をつるぎで貫かれ、相当の痛みだったろうに、その微笑みは作り物などではなかった。


『神を怨むな。人を憎むな』


 怨まないなど出来ようか。ましてや、憎しみを抱かないなど。


『ゼド、幸せになるんだぞ』


 そう言って、ベルゼブブは死んでいった。




「溶かした水銀を、口から流し込まれた気分だった」


 ベルゼブブの遺した言葉は、図らずもゼドの心を徐々にむしばんだ。のたうち回る憎悪と葛藤を、何処にぶつけて良いのか、誰をのろえば良いのか分からなくなった。結局ゼドは、獰猛な瞋恚しんいを、哀しさや淋しさと一緒に蓋をして、吞み込んでしまった。その感情は腹の底で燻ることなく、冷たい塊となって今も静か眠り続けている。


再誕さいたんはしていないの? 力の強い神様なら、きっと再び生まれているはずよ! きっと何処かでまた会えるんじゃないかしら?」


 再誕とは、神の生まれ変わりのことである。神は人間の祈りや願いによって生まれ、長い時を生きるが、勿論その命は不滅ではない。

 神が死ぬ原因は二つ。神に殺されるか、人間の思念の中で死ぬか。そのどちらかだ。

 神の持つ武器、神器で殺されれば、また新たに同じ神が別個体として、この世に生まれる。この時、記憶などは引き継がれない。あくまでも、真っさらな状態で同じ役割の神が誕生しただけである。

 もう一つは、人間の信仰や認知をうしなった時である。この場合、同じ神は再誕しない。再び願われない限り、死という永久とこしえの深い晦冥に沈むだけである。再び現れる時があれば、それは、人間がその神を望んだ時だけだ。


「分からない。再誕できなかったのかもしれないし、何処かでしたのかもしれない。が、ヘヴンの奴等が力の強いあいつを放って置くとは思えない。例え、別の個体として生まれ変わっていたとしても、何かしらの措置を講じているだろう」


 ベルゼブブは悪魔の首領である一方、恵みの雨をもたらす、荒蕪こうぶ地の豊穣の神だった。

 機嫌が良い彼の見上げた空は、去来する稲光に雲が引き裂かれ、山に一歩踏み込めば、霧氷の張った樹叢じゅそうが、みねからふもとまでもをみるみるうちに覆った。彼が怒れば、大地はひずみ、地下からは灼熱の熔岩と猛毒のガスが噴き出た。


 ゼドは、バルコニーから外の景色を眺めるシーナを見た。艶めく黒髪が、腰までまっすぐ降りている。

 思わず、手を伸ばした。

 シーナの髪から湯津爪櫛ゆつつまぐしを外す。織糸のように舞い、ふわりと頬にかかった彼女の髪を、ゼドは耳にかけてやる。シーナはそのあどけない顔で小首を傾げるも、何も訊ねることはなく、ゼドにされるがままであった。

 ゼドがシーナを拾ったのは、ベルゼブブと同じ、豊穣の神だったからなのかもしれない。


「俺はまだ、本能の制御が利かない。危険を感じたら、すぐに離れろ。今日みたいな……ああいうことは、二度とするな。次は、抑えられないかもしれない」

よ」


 シーナは不興顔で振り向いた。


「我が儘を言うな」

「お兄ちゃんが何と言おうと、絶対に嫌よ。貴方がまた暴れても、獣を殴っても、人に喰らい付いても。例え私を殺そうとしても離れないわ。脅しても無駄よ」


 ゼドの赤眼がギラリと光った。

 身の毛のよだつ冷気が背筋を撫でる。

 ほんの瞬きにも満たぬ間に、ゼドはシーナとの距離を一気に詰めた。

 体温を感じるほど傍に。息が掛かるほど近く。


「邪神はいつも、悪という渇きに苛まれる。理性は簡単に吹き飛び、獣と化す。そして欲望に忠実な奴隷に成り下がる」

「貴方は自分の心を大切にする人よ。奴隷にはくだらない。貴方は抗い続ける」


 シーナは一生懸命反論する。


「私は知っているわ。お兄ちゃんが強い心を持った神様だってこと」


 二人の間に残ったほんの僅かな隙間を埋めるように、シーナはそっと、ゼドに歩み寄った。


「私は見たわ。貴方が私を守ろうとしてくれているところ。私はわかっているわ。貴方は不器用で、天邪鬼あまのじゃくで、悪態や皮肉をよく言うけれど、とても心優しい神だってこと」


 シーナの襟から覗く、なだからかな玉肌ぎょっきにゼドは指を這わした。そして、未だ赤く腫れた二つの牙の痕に触れる。

 ぴくりと彼女が反応した。邪気の多い空間では、善神の治癒は遅い。


「邪神を甘く見過ぎだ。このまま、お前の身体に毒を流し込むことだってできるんだぜ」


 無機質な言葉、冷たい表情、鉄のつぶてのような瞳。

 ゼドを見た者は口を揃えてこう言う。


 悪魔だ、と──。


 そうしてみな畏怖に屈し、結局は離れていくのだ。


「俺は人を殺せる。神をも殺せる。倫理? 道徳? そんなもん知らねえな。美学も善行も、正義も糞食らえだ。毒に苦しむ者の最期の姿、見たことあるか? ないだろうな。顔を真っ青にして、目を血走らせ、必死になって首を掻くんだよ。全身から血の気を引かせて、痙攣するんだ。最後は、白目を剥いて泡吹いて、事切れる。滑稽な様さ」


 そうだ、思い出せ。

 泡雪あわゆきの如く儚い希望を抱くなど、愚昧ぐまいな怯者のすることだ。


「俺は人間を苦しめる為に生まれた。奴らをああやって死の淵に追いやるのが俺の運命さだめだ」

「違うって言ってるでしょ!」


 ゼドは目を見開いた。シーナが怒ったからである。

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