666 -η

 数多の国々は統一され、かつて大陸を区劃くかくしていた視えない線は、地図の上から消された。多様な文化が入り混じり、神と人間の共存する世界が形成され、平和が訪れたかに思えた。しかし、月日が流れ、束の間の平和は瞬く間に崩れ去った。

 邪神が、善神と人間によって迫害され始めたのだ。

 ヘヴンの中では、形骸化した平和が変わらず続いているようだが、インフェルノの大地に異変が起きていることからも分かる様に、実際には、世界は破綻へと着実に歩みを進めている。


「周知の通り、邪神は今や、醜怪で卑陋ひろうで、奸譎かんきつな存在だと後ろ指を指されている。だが、邪神を排除した結果として、世界の均衡が崩れ始めた。この事実ことが示すのは、すなわち……?」


 イブリースの視線を受けて、シーナはおずおずと口を開く。


「善神と邪神は、離れて暮らせない?」


 イブリースが頷く。


「そう、棲まう場所をことにしている今の状態は、天地てんちを壊しているんだよ。影があるから光があるように、悪があるから善がある。その象徴である私達は、そもそも不可分なのさ」

「それを無理矢理引き剝がしたら。なぁ……?」


 シーナが、不安げな顔をゼドに向けた。ゼドは肩を竦めてみせる。


「身体から心臓を取り出して、まともに鼓動できるわけがない。いくら心臓ヘヴンを必死に守っても、身体インフェルノが痛めつけられてちゃあ本末転倒さ」


 ゼドは空になった象牙色のスープ皿の縁を、指で弾いた。カン、と甲高い音が鳴る。

 イブリースが口を開く。


「世界が鼓動し続ける為には、正気と邪気を注がねばならないんだ。男と女から命が産まれるように、善と悪からこの世界は生まれた。だから、世界には、正気ばかりが注がれてもいけない。人間は動脈から栄養素を流しても、静脈から老廃物を運ばねば、死んでしまうだろう? それと同じことなんだよ。それが、私達の立つこの地を含め、生きとし生けるもののことわりというものだ」


 イブリースの碧眼は、柔らかい。泣きそうになるほど、優しい。

 ヘヴンのなかでただ一人、奇異の目に晒され、仲間に責め立てられ、友を失くし、どれだけの傷を負ったことだろう。それでも笑う、この人は強い。途方もなく、強い。その背中に苦労と過去を背負いながらも、それを見せず、大きな器と笑顔で覆ってしまう。

 インフェルノの人達は皆そうだ。肉を抉る酷い怪我も、血の滲む擦傷も、皮膚に遺る古傷ですら、他人に見せまいと強く生きている。シーナは彼等を、心の底から尊敬している。


「イブ、砥石といしはあるか」

「寝室のテーブルの上にあるよ」


 ゼドは席を立ち、ふらりと廊下へ出て行ってしまった。取り残されたシーナは、イブリースと二人きりになって、少しだけ肩を強張らせる。


「あいつは人一倍感情が薄いだろう」


 シーナは目の前の男を見た。手を組み、顎を乗せて、淡い微笑みを湛えている。ゼドの背中からゆるりと視線を外した水鞠の色の瞳が、シーナを捉えて離さない。誰も立ち寄らぬ、朝霧の降りた山奥の湖のようだ。


「シーナ、君はゼドが怖いかい?」


 ぱちん、ぱちん、と暖炉の揺らめく焔が騒ぐ。

 シーナは手を止め、首を横に振った。その様子を、イブリースは面白そうに眺めている。


「あいつが、どんな悪心あくしんを抱いていたとしてもかい?」

「怖くないわ」


 シーナは言い切った。


「悪心を抱いていたとしても、悪計を巡らせていたとしても、まったく怖くなんてないわ。私はゼドの本当の姿から目を逸らしていたの。フェンリルに言われたのに、ヘヴンにいた時と全く変わっていなかった。彼のこと、深く理解しようとしていなかった。でも、もう決めたわ。私から近寄れば良いのよ!」

「どうやって? きっと彼は君から距離を取る。一定の間合いの内側に人を入れようとしないのは、君も知っているだろう」


 窓の外では、黴の雪が降り始めていた。山を覆い、海に沈み、夜に沁み入ってゆく。時折吹く風が、窓の木枠をかたかたと揺らした。


「……正直、わからない。でも私は変わるわ。色んな手を使って、出来る限り彼の傍に近寄りたい」


 それを聞いて、イブリースはにっこりと笑った。陶器の水瓶を取って、二つのカップに水を注いだ。


「そう言ってくれて嬉しいよ。狂気じみた本分も、気紛れの親切心も、うちに巣食う孤独も、ゼドの一部だ。彼は未だ、先の見えない暗闇の中に独りぼっちなんだ。もしかしたら、君は彼をそこから救い出せるかもしれない」

「ゼドには、貴方やフェンリルもいるでしょう?」

「私達は真の施無畏者せむいしゃにはなれないよ」


 そう言ったイブリースは、少し淋しそうだ。


「かつて、彼を救おうとする男がいた。私の友人だった。その手を失って、また彼は闇の中に転落してしまった」

「その人はいなくなってしまったの?」

「死んだよ」


 シーナは水を飲む手を止めた。液体が逆流してくる感覚がした。こっそりイブリースの表情を窺うも、彼の面相に変化はない。眉一つ動かさず、淡々と事実を告げただけのようであった。


「君はもう、ただのあしではない。人も神も、考えながら生きるものだ。生きるとは、そういうことだ。思考することをやめたならばそれは、人や神の形を成していながら、死んでいるようなものだ。そして、変わらないことは悲劇にも近しい。君は今、生きているんだよ、シーナ」


 自分の心臓が脈打つのを感じる。肌の下に血が通っていて、眼球は常に世界の動きを追随し、脳には信号が行き交っている。


忌憚きたん無く言おう。世界はもはや、正しい形を失っている」


 彼がシーナの為にあつらえた言葉は、噛み砕かれたやさしいものだ。


「だが、この世界が鼓動を止めるその時まで、私達神や人間は進化を遂げる。貪欲になることは恥ではないし、ましてや罪でもない。貪欲にものを知り、考え、そして成長しなさい。そして、自分の答えを見つけて、ゼドを助けてやって欲しい」


 居ても立っても居られないと言った様子で、うずうずと身動ぐシーナの気持ちを察してか否か、イブリースは椅子から立ち上がった。黒の懸衣がゆったりとひるがえる。


「さて、私は後片付けをしようかな」

「ゼドが何処にいるか分かりますか」

「多分バルコニーだよ」


 シーナは弾かれたように立ち上がると、すぐに外へと飛び出した。その後ろ姿を見送ってから、イブリースは空いた食器を重ねた。

 迷いのない背中だった。ゼドの凶暴な一面を目にしても、恐れず向き合おうとしてくれる。純粋で正直な彼女の言葉は、どんなに丁寧につくろった言葉よりも、彼の心に響くだろう。

 ゼドは愛される事を知らない。そして、愛しようにも愛し方がわからない。不器用で、孤独で、侘しい、ただの少年だ。

 兄弟や親すら持たぬ神も、一人では生きていけやしないのだ。


「シーナ、頼んだよ。ゼドを救ってやってくれ」


 これが、多くのものを手にしてきた男イブリースの、唯一の願いであった。



 †



 夜色がゆっくりと引いていく。月にしどけなく寄り添っていた雲も、いつのまにやら夜の舞台から降りていた。

 不思議と気分の高揚する、夏の温度と香りが、外に出たシーナの身体を包み込んだ。


「お兄ちゃん」


 バルコニーの縁に腰を掛け、夜風にあたるゼドが振り向いた。相変わらずの仏頂面であったが、絹のように玲瓏れいろうな彼の白肌は、宵闇の中でも煌めいて見えた。手には刃毀れしたナイフと砥石が握られている。


「イブの奴がまた余計な事を言ったんだろう」


 シーナの表情を見て、ゼドは開口一番そう言った。これみよがしに大きく嘆息を洩らせば、シーナは気まずそうに横を向く。


「お兄ちゃんには、家族がいたの?」


 その一言で、彼は全てを察したようだった。


「ベル──ベルゼブブは確かに、家族みたいな存在だった」


 ゼドとベルゼブブの関係は、一言では表せないものだった。友であり、師であり、兄でもあった。


「普段は冗談ばかり言うお調子者で、人当たりの良い、インフェルノでは珍しい奴だった。悪魔の癖に、余計なお節介ばかり焼いてくるし、迷惑だと追っ払っても、何度も押し掛けてくるようなしつこい男だった」


 小高い丘に建つ館から、何処に居るかも分からないゼドを探しに来ては、ゼドが姿を現すまで、毎度その大きな声でゼドを呼び続けた。今となっては、自分の名を呼ぶ彼の声が懐かしく思える。

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