666 -η
数多の国々は統一され、かつて大陸を
邪神が、善神と人間によって迫害され始めたのだ。
ヘヴンの中では、形骸化した平和が変わらず続いているようだが、インフェルノの大地に異変が起きていることからも分かる様に、実際には、世界は破綻へと着実に歩みを進めている。
「周知の通り、邪神は今や、醜怪で
イブリースの視線を受けて、シーナはおずおずと口を開く。
「善神と邪神は、離れて暮らせない?」
イブリースが頷く。
「そう、棲まう場所を
「それを無理矢理引き剝がしたら。なぁ……?」
シーナが、不安げな顔をゼドに向けた。ゼドは肩を竦めてみせる。
「身体から心臓を取り出して、まともに鼓動できるわけがない。いくら
ゼドは空になった象牙色のスープ皿の縁を、指で弾いた。カン、と甲高い音が鳴る。
イブリースが口を開く。
「世界が鼓動し続ける為には、正気と邪気を注がねばならないんだ。男と女から命が産まれるように、善と悪からこの世界は生まれた。だから、世界には、正気ばかりが注がれてもいけない。人間は動脈から栄養素を流しても、静脈から老廃物を運ばねば、死んでしまうだろう? それと同じことなんだよ。それが、私達の立つこの地を含め、生きとし生けるものの
イブリースの碧眼は、柔らかい。泣きそうになるほど、優しい。
ヘヴンのなかでただ一人、奇異の目に晒され、仲間に責め立てられ、友を失くし、どれだけの傷を負ったことだろう。それでも笑う、この人は強い。途方もなく、強い。その背中に苦労と過去を背負いながらも、それを見せず、大きな器と笑顔で覆ってしまう。
インフェルノの人達は皆そうだ。肉を抉る酷い怪我も、血の滲む擦傷も、皮膚に遺る古傷ですら、他人に見せまいと強く生きている。シーナは彼等を、心の底から尊敬している。
「イブ、
「寝室のテーブルの上にあるよ」
ゼドは席を立ち、ふらりと廊下へ出て行ってしまった。取り残されたシーナは、イブリースと二人きりになって、少しだけ肩を強張らせる。
「あいつは人一倍感情が薄いだろう」
シーナは目の前の男を見た。手を組み、顎を乗せて、淡い微笑みを湛えている。ゼドの背中からゆるりと視線を外した水鞠の色の瞳が、シーナを捉えて離さない。誰も立ち寄らぬ、朝霧の降りた山奥の湖のようだ。
「シーナ、君はゼドが怖いかい?」
ぱちん、ぱちん、と暖炉の揺らめく焔が騒ぐ。
シーナは手を止め、首を横に振った。その様子を、イブリースは面白そうに眺めている。
「あいつが、どんな
「怖くないわ」
シーナは言い切った。
「悪心を抱いていたとしても、悪計を巡らせていたとしても、まったく怖くなんてないわ。私はゼドの本当の姿から目を逸らしていたの。フェンリルに言われたのに、ヘヴンにいた時と全く変わっていなかった。彼のこと、深く理解しようとしていなかった。でも、もう決めたわ。私から近寄れば良いのよ!」
「どうやって? きっと彼は君から距離を取る。一定の間合いの内側に人を入れようとしないのは、君も知っているだろう」
窓の外では、黴の雪が降り始めていた。山を覆い、海に沈み、夜に沁み入ってゆく。時折吹く風が、窓の木枠をかたかたと揺らした。
「……正直、わからない。でも私は変わるわ。色んな手を使って、出来る限り彼の傍に近寄りたい」
それを聞いて、イブリースはにっこりと笑った。陶器の水瓶を取って、二つのカップに水を注いだ。
「そう言ってくれて嬉しいよ。狂気じみた本分も、気紛れの親切心も、
「ゼドには、貴方やフェンリルもいるでしょう?」
「私達は真の
そう言ったイブリースは、少し淋しそうだ。
「かつて、彼を救おうとする男がいた。私の友人だった。その手を失って、また彼は闇の中に転落してしまった」
「その人はいなくなってしまったの?」
「死んだよ」
シーナは水を飲む手を止めた。液体が逆流してくる感覚がした。こっそりイブリースの表情を窺うも、彼の面相に変化はない。眉一つ動かさず、淡々と事実を告げただけのようであった。
「君はもう、ただの
自分の心臓が脈打つのを感じる。肌の下に血が通っていて、眼球は常に世界の動きを追随し、脳には信号が行き交っている。
「
彼がシーナの為に
「だが、この世界が鼓動を止めるその時まで、私達神や人間は進化を遂げる。貪欲になることは恥ではないし、ましてや罪でもない。貪欲にものを知り、考え、そして成長しなさい。そして、自分の答えを見つけて、ゼドを助けてやって欲しい」
居ても立っても居られないと言った様子で、うずうずと身動ぐシーナの気持ちを察してか否か、イブリースは椅子から立ち上がった。黒の懸衣がゆったりと
「さて、私は後片付けをしようかな」
「ゼドが何処にいるか分かりますか」
「多分バルコニーだよ」
シーナは弾かれたように立ち上がると、すぐに外へと飛び出した。その後ろ姿を見送ってから、イブリースは空いた食器を重ねた。
迷いのない背中だった。ゼドの凶暴な一面を目にしても、恐れず向き合おうとしてくれる。純粋で正直な彼女の言葉は、どんなに丁寧に
ゼドは愛される事を知らない。そして、愛しようにも愛し方がわからない。不器用で、孤独で、侘しい、ただの少年だ。
兄弟や親すら持たぬ神も、一人では生きていけやしないのだ。
「シーナ、頼んだよ。ゼドを救ってやってくれ」
これが、多くのものを手にしてきた男イブリースの、唯一の願いであった。
†
夜色がゆっくりと引いていく。月にしどけなく寄り添っていた雲も、いつのまにやら夜の舞台から降りていた。
不思議と気分の高揚する、夏の温度と香りが、外に出たシーナの身体を包み込んだ。
「お兄ちゃん」
バルコニーの縁に腰を掛け、夜風にあたるゼドが振り向いた。相変わらずの仏頂面であったが、絹のように
「イブの奴がまた余計な事を言ったんだろう」
シーナの表情を見て、ゼドは開口一番そう言った。これみよがしに大きく嘆息を洩らせば、シーナは気まずそうに横を向く。
「お兄ちゃんには、家族がいたの?」
その一言で、彼は全てを察したようだった。
「ベル──ベルゼブブは確かに、家族みたいな存在だった」
ゼドとベルゼブブの関係は、一言では表せないものだった。友であり、師であり、兄でもあった。
「普段は冗談ばかり言うお調子者で、人当たりの良い、インフェルノでは珍しい奴だった。悪魔の癖に、余計なお節介ばかり焼いてくるし、迷惑だと追っ払っても、何度も押し掛けてくるようなしつこい男だった」
小高い丘に建つ館から、何処に居るかも分からないゼドを探しに来ては、ゼドが姿を現すまで、毎度その大きな声でゼドを呼び続けた。今となっては、自分の名を呼ぶ彼の声が懐かしく思える。
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