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「あれが全て禁書だなんて。そうは思えなかったわ。禁書どころか、あれは宝物よ。みんな、あの書物の、本当の価値を今すぐ知るべきだわ!」

「そうだね。でも残念ながら、あれらは理想という名の一辺倒な倫理の下に犠牲となった、知恵の屍だ」


 ゼドが、食器棚を開けた。白い食器が半ダースずつ、整然と並んでいる。彼はスープボウルとパン皿、そして紫黒がかった銀のスプーンを人数分取って、テーブルに並べた。そこにイブリースがシチューを入れ、ライ麦の丸パンが入った籠を置く。三人でテーブルを囲むと、様式こそ違えど、故郷ヘヴンでの食卓と重なって見えた。


「さ、温かいうちに食べてしまおう」


 身体を芯から温めるあつものの温度に、シーナの瞳は人知れず熱を帯び、頬は紅潮した。


「私は禁書のように、異分子としてヘヴン追放された」

「最後の引き金は自分自身で引いたがな」


 横槍を入れたゼドが、綺麗なスプーン使いでシチューを口に運ぶ。首を傾げたシーナに、ゼドは続ける。


「神の命に背いたんだ」

「か、神の命令に……!」


 天使は、神の遣いだ。その数は億にものぼる。彼等の主な仕事は、ヘヴンを守り、時に悪と戦いながら神の真実を示すことで、精神を善なるものに導くことである。つまり、彼等にとって善神は絶対な存在であり、神への反逆は禁忌に値する。


「それで堕天したのね」

「元は熾天使してんしだったんだよ」

「えっ」


 シーナは驚いた拍子に、スプーンで掬った人参をぽとりとスープの中に落とした。

 天使にも階級が存在する。その全ての天使を統べるリーダーが、熾天使と呼ばれる大天使であり、色々な役割を持つ天使達に指示を与えるべく、多くの権限を持っている。その下に、今やヘヴンの守護の核とも謳われ、天使団を束ねる三大天使や、他の名高い大天使も交えて、七大天使と呼ばれる天使達がいる。その他の天使達は、守護天使軍など、役割毎に隊を成して、その下に就いている。


「ミカエルや、ガブリエル、ラファエルも、貴方の部下だったの?」

「そうだよ。懐かしい名前だ。ミカエルには随分手ひどくやられたよ。零落れいらくすると昔の記憶はどんどん薄れてしまうから、だいぶ忘れてはいるけどね」


 やれやれ、と言ったように、イブリースは首を竦めているが、そんな軽々しい話ではない。


 気を取り直して、シーナは痩せた人参を食む。言い表せない苦味があるものの、よく煮込まれ、舌上で溶け出す柔らかい口当たりは、満足感があった。

 シチューには、色の鮮やか過ぎる野菜の他に、珍しげな肉がごろりと入っていた。インフェルノで手に入るのは干し肉ばかりだと思っていたが、ちゃんと肉も手に入るのかと、シーナは一口齧りつく。弾力が強く、チキンに似た匂いだが、今まで口にしたことのない味。訝しげに肉を眺めるシーナに、ゼドがこそりと耳打ちした。


「う」


 途端、シーナは口を抑え、引き攣った声をあげる。


「こ、これ、人魚スキュラなの?」


 妙な臭みはその所為だったのか、と乳白色の脂身にばかりに目がいく。目を瞑って、スプーンに乗せていた肉片をまた一つ、勢い良く口に放り込んだ。咽喉を押し広げて、塊が管を降りていくのが感じられた。


「スキュラの尾っぽさ。川を流れてる時に攻撃してきた奴だ。俺が殴って殺しちまったが、こいつの好物だから、ケートスに運ばせていた」


 顔を真っ青にさせたシーナを見て、イブリースが申し訳なさそうに頭を掻いた。


「先に言えば良かったかな。すっかりこっちの食事に慣れてしまってね。ヘヴンではなかなか口にしないだろう」

「ええ、人魚は食糧というよりも友人の位置付けの方が、多いから……」

「良い洗礼だったな」


 はは、とゼドにぎこちない苦笑いを返して、シーナは話題を変えようと、イブリースに話の続きを催促する。


「私が神の命に異議を申し立て、頑なに意見を変えなかったから、遂にヤハウェの怒りを買ってしまったんだ。私は力が強かったから、多くの天使を道連れにしてしまった。それだけは悔やんでいるよ」


 ヤハウェは、神の統率者。つまり、ヘヴンで最も位の高い人物である。

 ヘヴンは、十五人の力ある神の審議によって、様々な事が決められているが、彼等を束ねるおさヤハウェの発言力は強い。


「信念を貫き通したのね!」


 目を輝かせるシーナに、イブリースは困り顔をする。


「信念と言えば、聞こえは良いが。あの頃は私もまだ、青かった」


 ヘヴンとイブリースの確執かくしつは、未だ到底払拭しきれたとは言えない。と言うよりも寧ろ、向こうがイブリースにえらく固執こしゅうしているように見受けられる。

 イブリースがヘヴンから永久追放された直後から、天使と天狗、そして妖精を中心に構成されたヘヴンの空軍、飛翔隊が時折インフェルノを時折見回わるようになった。

 当初は煉獄付近のみだった巡回も、膨大な時間を投じてイブリースの居所いどころを調べ、危険をおかしてまで、わざわざ此処までその足を伸ばしてきたところをみるに、恐らくイブリースを警戒してのことだろう。

 熾天使だった頃のイブリースの絶大な力を考えれば、監視下に置いておきたいと思う彼等の思惑も、想像にかたくない。


「だが、私は間違ったことはしていないと、今でも信じているよ。己の矜持プライドを捨て、言葉をもてあそぶくらいならば、白翼はくよくを骨から断ち切られ、暗黒街に堕とされる方がマシだ」


 それにね、とイブリースは、甘露を抱いたような面持ちをシーナに向けた。目尻が緩く下がり、痺れるほど鋭い金春ターコイズブルーの虹彩が、そっと瞼の奥に仕舞われる。


「思いの外、私にとってインフェルノは住み良い場所だったんだ。確かに空気は穢れているし、悪意と邪念の掃き溜めのような、腐った場所だ。けれど、自由がある。それに代えられる、生きるよろこびがあるだろうか。此処では、私が私であることを許されている、そんな気がするんだ」


 シーナは、自由の快感の浪にさらわれた感覚を思い出した。太陽が心を照らし、青空に微笑みかけられたかのような雄大な力が全身を包み込む、形容し難い忘我ぼうがきょう


「イブにとって、ヘヴンは窮屈だったのかしら」


 イブリースはゆるゆると首を振る。


「私も箱庭の中に居た時は感じなかったさ。外に出た時に初めて、気付いたんだ。私はなんて小さな世界に閉じこもっていたんだろう、ってね」


 インフェルノに降り立ったイブリースを襲った衝撃は、計り知れないものであった。

 彼は怠惰に負けぬ男であった。勉学を怠らず、仕事にいても努力を欠かさなかった。積み重ねた時間に比例するように、彼は階級を一気に駆け登った。熾天使として絶対的地位を確立した頃には、イブリースの力に勝る者は少なく、特に論理的知能や知識量に置いて、彼の右に出る者はいなかった。

 自分を律する心は、熾天使としてたくさんの天使を統率する立場になっても、イブリースの中に強く存在していた。多少驕りに傾いた気持ちも、ない訳ではなかったが、表に出すことは決してなかった。

 しかし、このインフェルノという曠野あらのを前にして、驕りというものはたちまちに砕け散った。自律心も道義心さえも、風に煽られた塵の如く霧散していった。そして、ヘヴンの画一的な美意識や形作られた常識に、ますます嫌悪の念を抱いたのは、当然のことと言えよう。


「完全というものは、実に面白みがない」


 月は、雲や霧が掛かり、幾分か欠けているほうが風情がある。螺鈿らでんは、貝が剥げ落ちたところにおもむきが生まれる。完全美という理想的な美徳は、不完全の美の中に存在するのやもしれない。そう、イブリースは思うのだ。


 完璧とはいつも、伸ばす手のさらに向こう側に現れる。追いすがっても尚、いつの間にか手の届かないところに、ぽつんと立っている。追い求める完全こそが、人間にとっての、真の完璧という理想像なのだ。

 しかし、慢心せし者は時に、それが手に入れられる代物だと勘違いしてしまう。狂気に身を委ね、悪魔に身を売り、深淵のふちに片脚を沈めながら追い求めたとしても、それを手にした者は誰一人として存在しない。故に人間は、完璧を手に入れた存在をたっとび、理想の鏡鑑きょうかんとしての善神立て、崇拝した。ここでひとつ、人間は致命的な勘違いをしていた。善神も不完全な存在であったのだ。

 世界を維持する為に八百万やおよろずの神がるのは、神にも得手不得手があり、それを補い合っているからだ。知恵を司る神がいれば、戦を司る神もいる。天を司る神もいれば、大地の神もいる。唯一神と呼ばれる神でさえも、文化毎に異なる神が存在する。同様にして、善を担う神がいれば、悪を担う神もいるのだ。


「そして、ヘヴンは遂に、大きな失態を犯した。インフェルノに邪神を追いやったことだ」


 イブリースは、ゼドの空いた皿におかわりを並々と注いでやった。

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