666 -ς
「あら。迷子の私に、先にお人好ししてくれたのはお兄ちゃん、貴方の方よ」
「余計なことを言うな」
「こんな貧弱な
ケートスがけらけらと大口を開けて笑うと、シーナに爆風と水飛沫が掛かった。
「ねえ、お兄ちゃん。あれは何? 海に浮かんでいた文字」
「痛かったろ」
そう言うゼドの身体にも、切り傷が走っている。頬に散った朱が白い肌に浮いていた。彼が舌舐めずりをすると、綺麗に血が拭き取られる。舌が異様に長い。
「あれは、神や人に捨てられた言葉だ。概念が邪気を纏い、形を
「昔っからあるぞ。文字の中に、色んな言語があったじゃろう。あれらは古代の文字じゃ。珍しかろう」
「既に滅びた文明のものか」
「大方、そうじゃろうな」
「滅びた……? ここ以外に文明があるの? それとも、今より昔に、文明があったの?」
「気になるか」
何故か、ゼドの声音は少し弾んでいる。
「あの無数の言葉は、堆積すれば川の水を堰き止め、流れれば川や海の生物を殺す。そうやって河海を汚してきた。言葉から滲む穢れ、屍から流れ出る邪気、そして物理的に引き起こされる災害。それらが重なった結果、インフェルノの水場は
「あれも、ヘヴンから排除された言葉なのね」
「ヘヴンももう、三十……何代目だっけ」
「三十二だぜ」
ケートスが口を挟む。
「そうそう、三十二代目だ」
ゼドが手の平を打ち合わせる。
「それだけ途方もない時間をかけて、言葉は淘汰され、悪に傾いた汚い言葉が捨てられてきた。確かに言葉は時に、凶器にも成り得る。だが危険性ばかりを注視して、多くの言葉を封じてきた人間達は、どれだけ本当の想いを伝えられたろう」
彼の薄く大きめな唇がめくれると、残忍的に。細い瞳孔の上三白眼が笑みを滲ませると、非人道的に映る。目を逸らしようにも、逸らせない。夢幻への誘いにも似た、背徳的魅惑。
「画一的な排他主義はある意味、
「汚い言葉も綺麗な言葉も、表現という役割の為に、等しく生み出された手段、ということ?」
「そうだ。お前は、もどかしいと感じた事はないのか?」
ゼドが立ち上がった。やや大仰な仕種も、彼の
「自由を手放し、代わりに何が得られる。上品な行儀か? いい子ちゃんらしい面構えか? それとも、正しい生き方か」
ゼドがシャツを絞って水をきった。裾からちらりと覗いた腹は、
その
「答えは否。結末は崩壊だよ。それも、内から自滅さ」
シーナは自分の肩から
「おい、お嬢さん。それはお嬢さんの大切な神服じゃないのかい」
ケートスの心配を他所に、シーナはゼドに身体の向きを変えた。ゼドの
「その、もしかして……インフェルノがこんなに毒に
「まぁいいところ突いてるぜ。けど、惜しい。そもそもの前提を間違えている」
崩れかけのこの世界に、残酷な真実が隠されていないわけがないのだ。
ゼドは続ける。
「結果的にこうなったんじゃない。こうなる事を承知の上で
「そうなのね……」
シーナは、ケートスの口腔の傷を撫でる。
ヘヴンでの生活は、無数の屍の上に成り立っている。そう、言われたことを思い出す。
「私たちは、邪神や罪人なんかより、よっぽど罪深いじゃない」
ごめんね、と呟きながら、シーナは羽衣の袖で血を拭う。幾度も、血が完全に拭き取れるまで、優しく。彼女の
「いい子だな」
「ああ。……本当に」
大きな牙の合間から、上半身を引き抜いたシーナが見上げると、灰を被ったような曇天を
その感情の答えを聞くのは、なんだかいけない気がして、シーナは口を
「何処へ向かえばいいのかい」
ばしゃん、と尾鰭が海面を打つ。シーナは、ケートスの頬に手を置き、遥か彼方を見つめた。
空との境が曖昧な、鈍い紫がかった毒の
「このまま真っ直ぐ。真っ直ぐだ」
ゼドの低い声音に導かれるように、二人を乗せた鯨の舟は、その
「この先の海岸に知り合いの家がある。今日はそこに泊めてもらおう」
波間を縫って、ゆっくりと進んでゆく。先の見えない霧の中はまるで、不安に包まれたシーナの心中を、投影していているかのようであった。
†
「いらっしゃい。待ってたよ、ゼド。そして、異国の姫シーナ」
ゼドとシーナを出迎えたのは、胸まで届く金髪を背に流した、上背のある優男だった。高尚な笑みを浮かべ、彼はさも当然の如く二人を家に招き入れた。
「貴方は……」
「ああ、申し遅れたね。私は、イブリース。イブと呼んでくれ」
そう微笑む彼は、女と見紛うほど繊細な美貌と高貴なる佇まい。邪気を纏っても尚、気位の高い態度は、鼻につくでもなく、ひとえに厳かであった。そう、まるで……。
「天使?」
「そうだよ。私は元天使だ。もう完全に墜ちているけどね」
邪気の多い空間にいると、次第に邪気が身体に染み入っていく。これが、堕ちるという現象だ。やがては身体中に邪気が巡り、完全に満ちた時、天使は堕天使と為る。
イブリースは、ずぶ濡れの二人を湯船に浸からせてくれた。風呂に入っている間に、服も綺麗に洗ってくれたので、シーナの海藻でべたついた羽衣も、ゼドの血汗で汚れ、切り裂かれてぼろぼろのシャツも、すっかり元通りになっていた。
イブリースは濡れたタオルを物干し竿に掛け、二人を食卓に案内する。夏だというのに、室内は冬模様。テーブルに据えられた
「その。何故……」
「堕天使になったかって?」
遠慮がちに訊ねるシーナに言葉を被せて、イブリースはにっこりと笑う。彼は仕草で、二人に椅子を勧めた。暖炉で燃える亜炭が、パチンと香ばしい音を弾き出した。
「私が、無秩序を愛したからだよ」
顔を上げると、イブリースは甘い
「薄っぺらい平等や無価値の自由に、嫌気がさしてね。概念に縛られた稚拙な
イブリースの口調からは、不思議と皮肉めいたものは感じられなかった。それどころか、愉快な民謡でも
「君も、思っただろう。本を読むことは、なんて面白いのだろうと」
シーナはすぐに頷いた。
シーナはよく、ゼドの書斎で時が経つのも忘れて、読書に没頭した。いつの間にか傍でゼドも読書をしていたり、フェンリルが昼寝をしていたりと、近寄る気配にすら気付かずに、夢中になって本を読んだ。
シーナは好き嫌いなく、何の本にでも手を出した。童話や伝記、小説に詩集。悪書とやらは、フェンリルに横取りされて、読めず終いだが、どれも面白く、興味深いものばかりだった。難しい内容の本や、読めない文字で書かれた本もあったが、色々な本に出会って知識も増えた。分からないことがあれば、めんどくさがりながらも、ゼドはひとつひとつ教えてくれた。
本を
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