666 -ε

 一緒に帰りたい。ゼドと帰るあのボロ宿が、無性に恋しい。

 ゼドは無言で腕を伸ばし、シーナの抱擁ほうようを押しやった。


「お兄ちゃん……」

「離れてくれ」

「いやよ。離れないっ」


 シーナはかたくなにゼドを離そうとしなかった。


「やめてくれ……。今にも本能おれは、お前を殺してしまいそうだ」

「離さないわ。大丈夫よ、だって貴方は、いつだって私を守ってくれたじゃない」


 本能と理性がせめぎあい、朦朧もうろうとする意識の中、ゼドは真っ直ぐに自分を見上げるシーナに、彷徨っていた目の焦点を合わせた。

 血濡れのゼドを抱き締めたせいで、彼女の白い羽衣は、まだらな赤に染まっていた。薔薇のようであった。

 なだらかな首筋に、血の滲む牙の痕。傷口から、甘美なる薫りが漂う。


 殺せ。殺したくない。

 骨を握り潰せ。死んでしまう。

 その肌に噛みつけ。毒は流してはならない。


 細胞が破壊される感覚がした。

 一瞬、意識が目をます。

 麻痺していた全身の神経に、瞬時に脳の伝令が駆け巡り、うちを流れる血液が沸騰するように熱を持った。襲い来る悪意のなみさらわれまいと、気力と理性を振り絞って、ゼドは自分に必死にしがみつくシーナを突き飛ばした。


「あっ」

「お嬢ちゃん!」


 フェンリルが吠えた。

 どぼん。川から水飛沫が上がり、シーナの身体は、奔流の中に放り出された。


「シーナ!」


 はっと我に返ったゼドが、すぐさま彼女を追って川に飛び込む。

 川の水は、泡と藻の入り混じる泥水だった。シーナが瞑っていた目を開くと、濁った視界の中、手を伸ばすゼドが見えた。苦悶の表情をしている。その手を掴もうと藻掻もがいても、渦が手足を絡め取り、彼からシーナをどんどん引き離していく。


「痛っ」


 ごぼっと、口から悲鳴と気泡が零れた。

 鋭利な何かがシーナの腕を切った。血が揺蕩たゆたい、泡沫と混ぜ合わさって消える。

 流されるシーナの周囲を、同じように流される枯れ葉のようなものが、波に乗ってびゅんびゅんと目まぐるしく飛び回っていた。そして羽衣を、髪を、肌を、切り裂いてゆく。

 暫くしてシーナは、それの正体が文字だと分かった。


 川の中に、大量の文字が浮かんでいる──。


 渦巻く激流の中で、それらが研がれた剃刀かみそりのようにシーナの身体を切りつけるのだ。知らない言語の言葉も、ゼドの本棚で見たことがある言葉も、流されるがまま散乱している。

 目の端を、シーナの見知った文字が、勢い良くよぎって行った。

 

 黒く刺々しい文字は、シーナの腕を掠って、すぐ暗い海の闇へと紛れてしまう。また、血が流れた。

 シーナは目を凝らす。

 忿

 どれも、身体を掠るだけで激しい痛みを誘う。しかし、冷たい水中で冷え切った身体は、次第に感覚を麻痺させていった。意識が遠のく中、シーナの身体は静かに沈んでゆく。言葉の海の底へ、沈んでゆく。



 †



「ラー様」


 振り返った男は、彫りの深い顔をより一層険しくした。皺の寄る目尻には、年相応の皺が刻まれていたが、面立ちは凛々しく、炎の色の瞳は未だ研ぎ澄まされた鋭さを失ってはいなかった。


「まだ見つからんのか」

「はい。難航しています」

「櫛名田比売は未だ年端のいかぬ少女だぞ。それに、豊穣の神の中でも上位の神だ。飛翔ひしょう軍は何をやっている。早く保護したまえ」


 太陽神ラーは、渋面に一抹の憂色を浮かべた。

 倭の豊穣の神、櫛名田比売命が失踪してから十と五日が経過していた。ヘヴンの自然が枯れずにいるということは、彼女が生きている証拠だ。それどころか、どういう訳か、作物はここ数日でより豊かに育っている。


「なにしろ、がなく」


 彼の背後で、額に汗をかき、抱えた資料をめくって報告をするのは、秩序を司る神、エンリルである。

 細い銀縁フレームの奥に、忙しさ故の疲労を滲ませつつ、彼はラーの質問に滞りなく答えてゆく。


「ヘヴンの隅から隅まで、調べ上げました。残るは、インフェルノかと」

「あの子が、インフェルノに出て行ったというのか」

「迷い込んでしまったのでしょう。門兵ヘイムダルにも聞きましたが、彼等は目撃していないと主張しています」

「ヘイムダル共め。見逃していれば、それ相応の処罰を与えると伝えておけ。インフェルノか……厄介な事態になったな」


 その時、重い石膏の扉が勢い良く開き、大音声だいおんじょうが神殿に響いた。


「俺が行きましょう」


 迫力ある大声が、追って木霊した。扉から鎧を纏った偉丈夫いじょうぶが現れる。短髪の黒髪に濃い眉毛、一文字に結ばれた唇、黒の瞳は瑞々しく、その面差しからは勇敢さが滲み出ていた。


素戔嗚尊すさのおのみこと殿」

「一度、後姿をお見受けしたことがあるが、正に倭撫子やまとなでしこの言葉に相応しい、か弱く清純なお嬢様であらせられた。もしインフェルノにまで迷い込んでおられるのならば、一刻も早く助けなければなりませぬ」

「インフェルノは広く、無秩序で猥雑な死地です。幾ら素戔嗚尊殿でも、無作為に探せば先に邪気に当てられるのがオチでしょう」


 エンリルがゆるゆると首を振る。


「先に、調査隊を送り込む」


 ラーが太い腕を組み、深い溜息を吐いてそう言った。


「その調査を基に捜索範囲を絞る。それからは、素戔嗚、お前が行け」

「はい」


 にかり。素戔嗚の白い歯が、輝かしく光った。



 †



 灰を被ったような霞空が、揺らいで見えた。

 途端、咽喉を水が迫り上がり、シーナは咳き込んだ。呼吸がまとまらない。涙目になりながら肩を揺らし、ぜえぜえと喘ぎながら、何度も息を吸い込む。


「大丈夫か」

「おにい、ちゃん?」


 いつもの無表情が、横たわるシーナを覗き込んでいた。先程の心の剥離した狂態は鳴りを潜め、背筋凍る殺伐とした邪気は消え失せている。

 安堵の波が押し寄せ、くずおれたシーナはゼドに飛びついた。


「ああ……よかったわ。ほんと、ほんとうによかった」

「気が付いたかい?」

「わっ」


 地面が揺れ、腹まで響く大きな声が響いた。

 シーナとゼドが座っていたのは、大きな魚の背の上だった。耄碌もうろく化鯨ケートスだ。大きな鯨の胴体に、犬の頭部を持ち、そして扇形の尾鰭おひれは三つに割れている。


「ケートスが俺等を助けれくれたんだ」

「そうなの。本当にありがとう、お爺ちゃん」

「こんな可愛らしいお嬢さんに、お礼を言われる日が来るとは。わしの神生じんせいも、まだまだ捨てたもんじゃないなあ」


 ケートスが上機嫌で、鼻孔から潮を吹く。


「お兄ちゃんも、ありがとう。助けてくれて」

「いや、俺は……」

「ゼドが必死なところを久々に見たわい。思わず、駆けつけてしまった」


 巨躯のケートスが笑うと、古傷だらけのうねがぶるぶると大きく震え、シーナとゼドは、その背にしがみつかねばならなかった。


「どうやって助けてくれたの?」

「ゼドがお嬢さんを捕まえて、抱えて泳いでいたから、それをわしがぱくりとやってだな……」

「あの、お爺ちゃんは何て?」


 鯨が吠えたようにしか聞こえないシーナは、ゼドに問う。


「ケートスは、俺とお前を丸ごと口に入れて、流れの速い場所から遠ざけてくれた」

「お口の中に? そのまま?」


 ぎょっとしたシーナは、弾かれたように立ち上がり、ふらつきながらも鯨の頭の方に駆け降りる。ゼドが咄嗟に差し出しかけた手を、引っ込めるのを横目で見て、ほんのり微笑を湛えたケートスは、すぐにその口端を引き攣らせることとなった。


「お爺ちゃん、お口の中見せて」


 ケートスの口元まで降りたシーナは、めいいっぱいの力を込めて、上唇を押し上げようとする。


「開けてください」

「なんじゃなんじゃ」


 半ば無理やり、シーナはケートスの口を開けさせ、身体を突っ込んで中を見た。シーナの悲鳴が、彼の口の中で木霊した。


「ああ、なんてこと。こんなに傷ついて……」

「案外、頑固な子じゃな」

「すぐに手当てしないと」


 ケートスの額で胡座をかき、頬杖をつくゼドが面白そうに、二人のすれ違ったやり取りを眺めている。


「そんな心配せんでも、大丈夫じゃよ。こんな傷、唾をつけときゃ治るものじゃ」

「傷口にばい菌でも入ったらどうするんですか? 傷がひどくなっちゃいますよ!」

「海水が既に毒水のようなものだからな。……ゼド、この変わったはお前のコレか? まるで清水のように純粋ピュアじゃ」


 ケートスの胸鰭が、海面からぴん、と一度浮上して、大きな波をたててまた海面下へと沈んでいった。


徒情あだなさけで拾った、ただの居候いそうろうだ。興味深いだろう。生粋のお人好し性分が骨の髄まで染み込んでやがる」


 ケートスは、シーナの優しさに目を白黒させている。その様子を眺めるゼドの眼差しには、見逃してしまいそうになるほど仄かな、温かみが灯っていた。

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