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「似合ってるわよ」
「俺は、
フェンリルは苦笑して、獣の姿でシーナの傍に寄り添った。
彼女は瞳を閉じて、心地よさげに獣毛に身体を沈め、体重を預けてくる。フェンリルはそれを受け入れた。
シーナの笑顔が向けられると、
「奴がやられたのは、これなんだろうな」
小さく鼻を鳴らしたフェンリルの咽喉元を、シーナが手の甲でくすぐった。愛嬌が滲む。
ゼドはこの目に
だが、これだけははっきりしている。彼女に備わっている、ひとを見る良知とうものが、あの冷え冷えとした心根にさえも届いたということが。
「ここは少しだけヘヴンを思い出すわ」
──ヘヴンの自然は
「小さいお庭や花壇しかないのだけれど、綺麗なお花ばかりが咲いているの」
──そりゃあ、奴等の美意識で、
「私ね、ラズベリーが好きで、ジャムを作るために庭園によく摘みに行っていたの。でも、棘が刺さったら危ないわって、こっぴどく叱られたわ」
──痛みを知らぬ者に、危険など分かるものか。
シーナは
彼女の話の断片から察するに、狭い
「日が暮れる前に行くぞ」
どれほど
ほんの瞬きした感覚でシーナが瞼を開けると、人の
「さあ、悪夢を見に行こう」
微笑むのは、天使か、悪魔か。
シーナにはもう、
†
「伏せろ」
「わっ」
フェンリルの手がシーナの頭を上から押さえつけた。二人は小さな茂みに身を隠す。
「百鬼夜行だ」
百鬼夜行とは、鬼や妖怪などの倭の
重みのある邪気が充満している。妖が薄暮の空を埋め尽くす様は
「様子がおかしいな。お嬢ちゃん、でけえ音たてたら一瞬で襲われるから気ぃつけな」
口を一文字に結び、返事とばかりにシーナは大きく頷いた。
ぐぐぐ、とフェンリルの骨が軋んで湾曲し、骨格が変形して、髪と同じ灰茶色の獣毛が、震える彼の全身を覆い尽くした。乗れ、とばかりに腰を下げ、体高を低くするので、シーナはその背にしがみつく。
フェンリルが駆け出した。あっという間に景色が後ろに流れていく。一気に森を駆け抜け、崖を登った。高い崖だ。そこからは、窪地の
「この茂みに隠れて様子を窺おう」
二人は断崖の上で腹ばいになって身を乗り出し、草付から戦場と化した草原見下ろした。
「あっちゃあ、絶賛戦闘中だ。一番やべえ時に連れてきちまったかな」
また人の形に戻ったフェンリルが、頭をめぐらせて肩越しにシーナをちらと見た。彼女は目を見開いて、混乱極まった戦場を凝視していた。
少々刺激が強すぎたかな、とフェンリルは陰でぺろりと舌を出した。彼女の視線の先には、化けの皮の剥がれたゼドの姿があるだろう。
さあ、どうなる。胸がぞわぞわ
「あれが本来のあいつだよ」
これぞ正しく、
ゼドの足が踏みしめた場所は、瞬く間に噴血で飾られ、容赦ない
何という暴悪。何という絶対的力──。
片輪車を蹴り飛ばしたゼドは、拳で
鮮紅の雫が肌を汚す間も与えず、ゼドは一気に加速する。
風鬼の懐に入ると身体を
死角からの攻撃を髪一重で躱しながら、鬼の腹に絡めた脚と腕の力で、ごきりと首を締め落とした。破砕された首の骨は、飛沫のように辺りに飛び散った。
「怪我……してないわよね?」
「あの暴れっぷりを見て、あいつの心配かよ。とんだお人好しだな」
「大丈夫なの? お兄ちゃん血だらけよ!」
「多分返り血だ。大丈夫だろうよ。が、ありゃあ理性が飛んじまってるな」
「見てられないわ。止めてくる」
「無理に決まってるだろ。非力なお前の入る隙なんざねえよ」
シーナは心の内で、
「ちょ、お嬢ちゃん? どこ行くの」
「決まってるじゃない。お兄ちゃんのところよ」
「はあ?」
引き留めようとするフェンリルの腕をすり抜け、シーナは乱戦の跡が残る戦場に足をむけた。
「無謀だ! あいつの暴走は、立ち上がる敵がいなくなるまで続くぞ!」
フェンリルの咆哮が聞こえる。それを無視して、シーナは急斜面を駆け降りた。縦横無尽に伸びる枝が、衣を裂き、腕や脚を引っ掻いた。
しかし、シーナは速度を緩めなかった。少しでも早く、彼の元へ。
確かにシーナは、彼が邪神だということを、いつしか忘れていた。フェンリルが言うように、ゼドの本性を知らなかったのだ。いや、本当は、目を背けていただけかもしれない。
「お兄ちゃん!」
絞り出した叫びは、ゼドには届いていないようであった。
今の彼は、まるで、悪の
今まで本当のゼドを見ていなかったのは自分ではないか。自分の弱さではないか。
「お兄ちゃん! お願い止まって! もう戦いは終わりでしょ!」
シーナの見当は
「お兄ちゃん! 私よ! シーナよ! 一緒に帰りましょう!」
しかし、ゼドの猛撃は
ゼドの意識は、完全に自我の
──お兄ちゃん!
遠くで、誰かが俺を呼んでいる。
──お願い止まって! ゼド!
違う。それは
熟れた
金縛りにあったかのように、シーナは動けなくなった。指の一本すらも、微動だにできない。
瞳孔が開ききっている。
灰茶色の大きな狼が、体当たりで妖怪を押し除けながら、二人のもとに向かって猛突進する。怒号のような咆哮が
「ゼド! 止まれ! そいつぁシーナだ!」
気付けばゼドは、シーナを組み伏せ、その
「あ……」
シーナの肩と手首を抑えるゼドの手は、込み上げる衝動と闘い、震えていた。乱れた銀髪に隠れ、表情は窺い知れない。
血を吸って重くなった黒の革手袋が、シーナの両肩を押し返した。
唇からは苦しそうな息が洩れた。
ゆっくりと、毒牙が抜かれる。
肌に押し込まれていた鋭い先端が離れ、ぷつ、と赤い液体が丸く膨らんだ。
シーナの血管に流し込まれることなく、寸止めされた毒が、牙を伝ってぽたりぽたりと地面に
ゼドのきつく合わされた歯の間から、奥歯を嚙み締める音が鳴った。
「……何故、お前が……ここに」
「お兄ちゃん! ああ、良かった。いつものお兄ちゃんだ……」
嘆息混じりにそう言って、シーナはそのまま、ゼドの首に腕を回し、身体を引き寄せてめいいっぱい抱き締めた。
ゼドの麻痺した感覚でも、この力の強さが伝わるように。温かな肌の温度が伝わるように。生きている鼓動が、伝わるように。
「お兄ちゃん、帰ろう?」
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