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「似合ってるわよ」

「俺は、稀代きたいの魔獣、フェンリル様だぜ。こんなファンシーな冠はいらねえっての」


 フェンリルは苦笑して、獣の姿でシーナの傍に寄り添った。

 彼女は瞳を閉じて、心地よさげに獣毛に身体を沈め、体重を預けてくる。フェンリルはそれを受け入れた。

 シーナの笑顔が向けられると、しくも全身から毒気が抜けていくようだった。肺の中、胸の奥、胃の底。堆積した悪意のおりが溶けだし、悪罵あくばで満たされた腹の中がすっきりとして、意味もなく清々しい気持ちが押し寄せた。一方で、過去の引っ掻き傷に張り付いた瘡蓋かさぶたを、思い出したかのように、無性に掻きむしりたくもなった。


「奴がやられたのは、これなんだろうな」


 小さく鼻を鳴らしたフェンリルの咽喉元を、シーナが手の甲でくすぐった。愛嬌が滲む。

 ゼドはこの目にそそのかされたのだろうか。この笑顔にほだされ、この言葉に魅了されて、その身を欲望とは別の感情におかされているのだろうか。彼の心情を察することは霧を掴もうとするのと同じことだ。

 だが、これだけははっきりしている。彼女に備わっている、ひとを見る良知とうものが、あの冷え冷えとした心根にさえも届いたということが。


「ここは少しだけヘヴンを思い出すわ」


 ──ヘヴンの自然は複製品レプリカさ。


「小さいお庭や花壇しかないのだけれど、綺麗なお花ばかりが咲いているの」


 ──そりゃあ、奴等の美意識で、美醜びしゅうを選別をしているからだろう。


「私ね、ラズベリーが好きで、ジャムを作るために庭園によく摘みに行っていたの。でも、棘が刺さったら危ないわって、こっぴどく叱られたわ」


 ──痛みを知らぬ者に、危険など分かるものか。


 シーナはとろけるような眼差しで、故郷を思い起こしている。

 彼女の話の断片から察するに、狭い範疇はんちゅうでしか物事をあげつらううことしかできないヘヴンの愚民には未だ、生命への理解のあけぼのは訪れないようだ。


「日が暮れる前に行くぞ」


 どれほど時間ときが経ったのだろうか。

 ほんの瞬きした感覚でシーナが瞼を開けると、人の姿かたちをしたフェンリルがこちらを見下ろしている。靉靆あいたいの空は相変わらずのくすんだあや


「さあ、悪夢を見に行こう」


 微笑むのは、天使か、悪魔か。

 シーナにはもう、わからない。



 †



「伏せろ」

「わっ」


 フェンリルの手がシーナの頭を上から押さえつけた。二人は小さな茂みに身を隠す。


「百鬼夜行だ」


 百鬼夜行とは、鬼や妖怪などの倭の魑魅魍魎ちみもうりょうが、ひしめきあって夜の街を徘徊はいかいすることだ。目にするだけで祟りをもらうと、ヘヴンで教えられてきたが、それも妄言もうげんであったようだと、シーナは空を空の様子をうかがった。

 重みのある邪気が充満している。妖が薄暮の空を埋め尽くす様はまさに圧巻であった。蠢動しゅんどうする妖の姿は、いとわずにはいられないほどのグロテスクな様相を呈し、咽せるような苦くも甘い匂いが漂った。


「様子がおかしいな。お嬢ちゃん、でけえ音たてたら一瞬で襲われるから気ぃつけな」


 口を一文字に結び、返事とばかりにシーナは大きく頷いた。

 ぐぐぐ、とフェンリルの骨が軋んで湾曲し、骨格が変形して、髪と同じ灰茶色の獣毛が、震える彼の全身を覆い尽くした。乗れ、とばかりに腰を下げ、体高を低くするので、シーナはその背にしがみつく。

 フェンリルが駆け出した。あっという間に景色が後ろに流れていく。一気に森を駆け抜け、崖を登った。高い崖だ。そこからは、窪地の草原そうげんや、大陸を分かつように横切る大河、轟音をたてる瀑布ばくふ。そして、遠くにそびええる山までもを一望することができた。


「この茂みに隠れて様子を窺おう」


 二人は断崖の上で腹ばいになって身を乗り出し、草付から戦場と化した草原見下ろした。


「あっちゃあ、絶賛戦闘中だ。一番やべえ時に連れてきちまったかな」


 また人の形に戻ったフェンリルが、頭をめぐらせて肩越しにシーナをちらと見た。彼女は目を見開いて、混乱極まった戦場を凝視していた。あたうう限り、冷静であろうと努めているようだった。半ば放心状態になりながらも、震える腕を上から押さえ込んでいる。

 少々刺激が強すぎたかな、とフェンリルは陰でぺろりと舌を出した。彼女の視線の先には、化けの皮の剥がれたゼドの姿があるだろう。

 さあ、どうなる。胸がぞわぞわさざなみ立つ。悪を更に血ですすいだ奴の本性を前に、この娘はどんな反応を見せてくれる? 期待と好奇心が疼く。


「あれが本来のあいつだよ」


 これぞ正しく、荒御魂あらみたまおもむくがまま。

 ゼドの足が踏みしめた場所は、瞬く間に噴血で飾られ、容赦ない打擲ちょうちゃくで、おびただしい数の屍がうず高く積み上げられてゆく。


 何という暴悪。何という絶対的力──。


 片輪車を蹴り飛ばしたゼドは、拳で白沢はくたくの腹に風穴を開け、ナイフで鉄鼠てっその腕を付け根から削ぎ落とした。血柱が上り、辺りを濡らす。

 鮮紅の雫が肌を汚す間も与えず、ゼドは一気に加速する。

 風鬼の懐に入ると身体をよじって、その回転で脚を折り、背後から首に手を回す。

 死角からの攻撃を髪一重で躱しながら、鬼の腹に絡めた脚と腕の力で、ごきりと首を締め落とした。破砕された首の骨は、飛沫のように辺りに飛び散った。


「怪我……してないわよね?」

「あの暴れっぷりを見て、あいつの心配かよ。とんだお人好しだな」

「大丈夫なの? お兄ちゃん血だらけよ!」

「多分返り血だ。大丈夫だろうよ。が、ありゃあ理性が飛んじまってるな」

「見てられないわ。止めてくる」

「無理に決まってるだろ。非力なお前の入る隙なんざねえよ」


 シーナは心の内で、惰弱だじゃくな己を叱咤しったした。怯むなシーナ、と。


「ちょ、お嬢ちゃん? どこ行くの」

「決まってるじゃない。お兄ちゃんのところよ」

「はあ?」


 引き留めようとするフェンリルの腕をすり抜け、シーナは乱戦の跡が残る戦場に足をむけた。


「無謀だ! あいつの暴走は、立ち上がる敵がいなくなるまで続くぞ!」


 フェンリルの咆哮が聞こえる。それを無視して、シーナは急斜面を駆け降りた。縦横無尽に伸びる枝が、衣を裂き、腕や脚を引っ掻いた。

 しかし、シーナは速度を緩めなかった。少しでも早く、彼の元へ。

 確かにシーナは、彼が邪神だということを、いつしか忘れていた。フェンリルが言うように、ゼドの本性を知らなかったのだ。いや、本当は、目を背けていただけかもしれない。


「お兄ちゃん!」


 絞り出した叫びは、ゼドには届いていないようであった。

 今の彼は、まるで、悪の権化ごんげそのものではないか。一瞬そんな思いが過ぎってしまい、シーナは頭を振って思考を払い落とす。

 今まで本当のゼドを見ていなかったのは自分ではないか。自分の弱さではないか。


「お兄ちゃん! お願い止まって! もう戦いは終わりでしょ!」


 シーナの見当は大凡おおよそ間違ってはいなかった。五ムフールタ(約四時間)にも続いた戦闘は、終息に向かいつつあったのだ。


「お兄ちゃん! 私よ! シーナよ! 一緒に帰りましょう!」


 しかし、ゼドの猛撃はとどまるところを知らない。それどころか、ますます冴えは増し、力ははげしくなるばかり。

 ゼドの意識は、完全に自我の埒外らちがいにあった。


 ──お兄ちゃん!

 遠くで、誰かが俺を呼んでいる。

 ──お願い止まって! ゼド!

 違う。それはあざなだ。俺の名じゃあ、ない。


 熟れた柘榴ざくろを彷彿とさせる炯眼が、うずくような殺気を伴って、獲物シーナを射抜く。

 金縛りにあったかのように、シーナは動けなくなった。指の一本すらも、微動だにできない。

 腥風せいふうを纏い、腕を振り上げて、シーナに肉迫するゼド。

 瞳孔が開ききっている。

 灰茶色の大きな狼が、体当たりで妖怪を押し除けながら、二人のもとに向かって猛突進する。怒号のような咆哮がほとばしった。


「ゼド! 止まれ! そいつぁシーナだ!」


 気付けばゼドは、シーナを組み伏せ、その和肌にきはだに牙を突き立てていた。甘やかで、肌理きめの細かな白い肌が、呼吸にあわせて上下している。


「あ……」


 シーナの肩と手首を抑えるゼドの手は、込み上げる衝動と闘い、震えていた。乱れた銀髪に隠れ、表情は窺い知れない。

 血を吸って重くなった黒の革手袋が、シーナの両肩を押し返した。

 唇からは苦しそうな息が洩れた。


 ゆっくりと、毒牙が抜かれる。

 肌に押し込まれていた鋭い先端が離れ、ぷつ、と赤い液体が丸く膨らんだ。

 シーナの血管に流し込まれることなく、寸止めされた毒が、牙を伝ってぽたりぽたりと地面にしたたり落ちた。猛毒は土を溶かし、蒸気の沸く音をたてて白煙を上げる。

 ゼドのきつく合わされた歯の間から、奥歯を嚙み締める音が鳴った。


「……何故、お前が……ここに」

「お兄ちゃん! ああ、良かった。いつものお兄ちゃんだ……」


 嘆息混じりにそう言って、シーナはそのまま、ゼドの首に腕を回し、身体を引き寄せてめいいっぱい抱き締めた。

 ゼドの麻痺した感覚でも、この力の強さが伝わるように。温かな肌の温度が伝わるように。生きている鼓動が、伝わるように。


「お兄ちゃん、帰ろう?」

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