666 -γ

 †



「きゃー! ねえ、どうしようフェンリル! 止まらないわ!」

「お、い、おいおいおいっ! こっち来んな! やめろ、巻き込むんじゃねえ!」


 二人の絶叫が相まって、それに追いつくように、ガシャーン! という大きな破砕音が響き渡った。


「いたた……」


 シーナと共に地面に放り出されたフェンリルが、身体を起こし、腰をさすった。


「なぁんでこっち来た!」

「ブレーキが私の言うことを聞いてくれないんだもの」

「お嬢ちゃんねえ……」


 フェンリルは立ち上がって、ズボンに付いた土と草を払う。自転車のハンドル部分だけを持って未だ転がったままのシーナを、片手で引っ張り起こして、彼は嘆息たんそくを零した。


「見事に壊れたな」

「あはは。こんなに、ばらばらになっちゃったわ」


 横倒しになった自転車は、サドルが折れ、ペダルも粉々。チェーンは絡まり合い、ハブから外れた前輪は、緩い速度で蛇行しながら転がっていって、茂みにぶつかって止まった。その衝撃で、幾つかの白い花が花弁を散らす。


 部屋の掃除を終えたシーナは、庭に出た。ゼドから、シーナのお守り役を仰せつかったフェンリルは、木陰に寝そべり、シーナが庭ではしゃぐ様子をつまらなそうに眺めていたのだが、ふと気付くと彼女の姿がない。これはまずいと起き上がった矢先、どこからか引っ張り出してきた、錆び付いた自転車を乗り回し、挙げ句暴走したシーナに巻き込まれたのだ。


「見かけによらず、やんちゃだねえ」

「自転車に一度乗ってみたかったのよ。最高の気分だったわ! 他にも何かないかしら。確か裏に倉庫があった気がするけれど?」

「やめてくれよ。俺がゼドに怒られちまう」

「フェンリルっていつも、友達ゼドとの約束を一番大切にするのよね」


 心底嫌そうに、フェンリルが顔を歪めた。

 重たそうな首輪チョーカーが、がちゃがちゃと鳴る。


「友達じゃねえよ。インフェルノの地には、友情はおろか、義理人情なんてもんは存在しねえ。お前はあいつの本当の姿を知らないから、そういうことを言えるんだ」

「本当の姿?」

「ああ。神や人の関係を繋ぐのは、恐怖による服従と、利益を伴う取引だ。悔しいが、俺はあいつに、畏怖の感情を植え付けられた。どう足掻こうが、あいつに逆らえやしないのさ」

「でも、よく一緒にいるじゃない。それは、畏怖とは関係ないんじゃないのかしら? きっと貴方自身がゼドと一緒にいたいって、そう思っているのよ」

「さあてねぇ。それはどうかな」


 フェンリルが壊れたサドルを蹴ると、錆色の部分がポキンと軽い音をたてて、真っ二つに折れた。

 あまりにも脆い。はらはらと、粉状の錆が舞い落ちる。屍肉しにくに張り付いた、繊弱せんじゃくな骨のようだ。


「人や神の間にも、愛情や友情は芽生えると思うわ」


 シーナは、記憶の中のゼドと過ごした日々を、ゆっくりと辿る。

 彼が浮かべるのは無表情ばかりで、口数も多くない。愛想も皆無。顔は怖い上にぶっきらぼう。でもこうやって、シーナを保護し、食事を与え、ベッドを分けてくれる。シーナの為に仕事を受け、パンや林檎を恵んでくれる。これが隣人りんじんを愛しむという行為でなかったら、何だというのだ。シーナは彼に、何も与えられないというのに。


「温室育ちらしい、甘っちょろい理想論だな」

「いいのよ。私がそう信じているだけ」

「お嬢ちゃんは今、あいつの気紛れに生かされているだけだぜ。うわばみの本質とは何か、知っているんだろ?」


 にやにやと、フェンリルはさも愉快げに笑った。犬歯が覗く。太く鋭く、その牙で肉を噛み千切り、血をすすることなど造作もないだろう。


「邪悪そのものが彼を創り、魔物さえ死に至らしめる猛毒を体内に巡らせている。奸智かんちに長けた頭脳と魅惑的な容姿で、人を陥れる。それがゼドの本質さ。お前の生命いのちは既に奴の掌中しょうちゅうさ」

「お兄ちゃんは私を生かしてくれた。その事実で、十分よ」


 それに、とシーナはフェンリルを振り返った。一縷の風に、黒髪が靡く。愛らしい嬌笑が、ふんわりと白い肌に頬紅を差した。

 フェンリルの喉仏が大きく上下し、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 ここに来た時にくるまっていた、小兎の毛皮を剥いで、シーナは凛々しさの片鱗を纏っている。

 不意打ちで見せる精悍な顔付きは、息をすることさえ忘れさせ、はっとするほどみやびやかだ。という、人の作った単語は、今この瞬間の彼女を指すには、あまりにも足りない。


「もしここで死ぬ運命さだめなら、私の命はゼドのものよ」


 へぇ、とフェンリルは笑う。


「見に行ってみるか?」

「え?」


 フェンリルの笑顔の奥には、ぽっかり空いた洞と深い闇が透けて見える。

 純金の輝きを放つ瞳には、期待と歓びが透けて見える。


「ゼドの別の姿を知りたくねえの? 今お嬢ちゃんが見ているのは、ほんの一部分だけだ。氷山の下に眠る、奴の思惟しいに近付いてみたいだろう?」


 シーナは狼姿のフェンリルに連れられ、屋敷の外に出た。傾いた陽が、地面を這う影を引き伸ばす。影が自我を持ち、早く早くとシーナを引っ張っているように思えた。

 フェンリルのあからさまな挑発に乗ってしまったと、後悔が過ぎる。砂利を踏みしめる度、シーナの足は重くなる一方だ。

 ゼドの秘密は甘い芳香を放ち、シーナの好奇心をくすぐった。謎めいた雰囲気と、黄金比率の創る美貌。それらが相まって、否応なしに心を惹きつける。誰だって、芳香漂う美しい花には手を伸ばしたくなるものだ。例え、その花が毒や棘を持っていたとしても、それが、抗うことのできぬ有情うじょうさが


「覗いてみな」


 フェンリルが、体の側面で大きな葉を押し退けた。シーナが恐る恐る顔だけを茂みに突っ込む。すると、間髪いれずにフェンリルの尻尾がお尻を叩いたので、シーナは勢いよく葉の向こう側に転がり出た。


「突然押さないで、よ……わぁ。これは、お花?」


 シーナの背丈の五倍はあろうかという、幾つもの大きな向日葵が、黄昏の空に浮かぶ青白い月に向かってお辞儀をしていた。シーナはその凛とした立ち姿に見惚みとれる。

 更に奥には、シーナが丸ごと包まれてしまいそうな大きさの、ダリアや水仙スイセンつぼみがふわりとほころびかけている。


「そっちに進むの?」


 フェンリルが前足で茎をして、シーナを振り返って、小さくいた。

 二人は胴体よりも太い茎を、押し除けながら進む。迷路のように紆曲うきょくしたくわ小径こみちを潜ると、開けた野原に出た。


「とっても綺麗」

「お前の脳内みてえな、満開の花畑だろ」


 いつの間に人間の姿に戻ったフェンリルが、唇の片端を上げている。

 無限に広がる丘一面を覆うように、色とりどりのたくさんの花が咲いていた。光の波濤と絡まりあいながら、ゆらゆら揺れている。

 丘の頂上にだけ降り注ぐ、水晶のような雨水は、地上から天上へ、点々と逆流している。その側では、桜が狂い咲き、濁った池には睡蓮すいれんと雲が水面みなもに浮かんでいた。


「これ、どうなっているの」


 花畑には、多様な種類の花が入り乱れるようにして咲いていた。トリカブト、黒百合、カルミア、紫陽花、タンジー……。シーナの知らぬ花もたくさんあった。そして、波が伝うように、それらが刻一刻と色を変えるのだ。

 近づくと、それが極端に短い花の寿命の所為だと判った。優雅な花弁を開き、咲き誇った花が一瞬にして枯れ、灰塵に帰した刹那、また新芽いのちが芽吹き、背を伸ばし、蕾を付けて、花を咲かせて散る。これを、僅か三十秒ほどで繰り返しているのだ。


「ここの毒土によって、一瞬で枯れちまうんだ。でも、毒の花は生命力が強い。一瞬で芽吹き返すが、成長するのも毒が全身に行き渡るまでの間。花が咲く時には毒もまた、その花を枯らしている」

「毒の土地で育つお花は強いのね。ヘヴンのお花を植えたら、すぐに枯れて、二度と生えてこなそうだわ」

「だろうな」


 シーナは花畑のベッドに飛び込んだ。花びらが舞い上がり、空でふわふわと踊る。爽やかなローズマリーの匂いがした。


「フェンリル! こっちおいで」

「俺を犬みたいに呼ぶなっての」


 シーナがすぐ隣の地面をぽんぽんと叩いている。フェンリルは不平を垂れながらも、彼女の傍に胡座をかく。


「こうやってね、お花の茎の部分を織り込んで……」

「手を切るなよ。傷口から毒が入るぞ」

「ほら、できた」


 フェンリルの頭に、花の冠がのった。


「狼の王様ね」


 にっこりと微笑むシーナの笑顔を通して、フェンリルは何かを見た。それは、蓋をして、心の奥底に掩蔽えんぺいしていた、おぼろげな記憶。

 胸糞悪い無垢な笑顔がそっくりで、フェンリルに触れようとする、細くて白い指先が、面影と重なる。透き通るハイトーンの声も、身体から香る爽やかで優しい香りも、どことなく、どこかの誰かに似ている。

 嫌な記憶は、閉じた瞼の裏にはっきりとよみがえるのに、どうして幸せな記憶はこうも、儚いのであろうか。





***伏線の手引き

ゼドの屋敷の庭の茂みに咲く花は、後々関わってきます

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