黙示録 -θ

 ふわふわとした白い綿毛が、雪のように舞う。

 ゆっくりと、しとやかに、舞っている。


 シーナは、ゼドに導かれ、屋根の上に登っていた。素焼き瓦が帯びた夜の冷気が、裸足に滲み入る。

 箱入り娘のシーナにとって、木よりも高いところに登るのは、初めての体験だった。幹にしがみつけば、「危険ですから」と、抱え上げられ、節に足を掛けようものなら、「はしたない」と説教を聞かされてきた。

 そんな息苦しい生活から解放され、今、彼女はを手にしていた。筆舌ひつぜつに尽くし難いこのよろこびを、じっくりと、味わうように堪能する。そして、眼下に広がるは、美しき銀世界。

 瞳を閉じた時には存在感を放ち、脳内を飛び交っていた雑念は、瞬く間に萎んでいって、雪のなかに吸い込まれていった。


「これは……?」


 手を伸ばせば、綿毛は指先とたわむれてはまた、飛んでいく。彼方かなたへと、ふらり、気侭きままな旅に出掛けるように。


カビだ」

「カビ?」

「正確には、カビ胞子ほうしだ。夏の夜には北から風が吹く。ここから三百スタディオン(約五十五キロメートル)ほど北に行ったところに、朽ちた神殿跡がある。そこから湧いた菌が、胞子を飛ばしているんだ」


 夏の執拗な暑さを拭い去る、浮世離れした清涼な景色は、その陰惨な背景さえ知らなければ見事な佳景かけいであった。冷たい黴の雪は、月光に照らされて、ほんのりと囲炉裏の灯の色に染まる。


「カビが降っても、街はカビだらけにならないのね」

「インフェルノの土地は酸を含んでいるからな。表面的には、胞子が土に落ちた瞬間、雪のように溶けてなくなるように見える。でも実際は、カビは地下深くに根を下ろし、土は腐りきっている」

「大地には良くないこと、なのよね?」

「当たり前だ。ヘヴンは、垂れ流される汚染水で酸性化した土地と、胞子を吐き出し続ける菌の温床を遺していった。養分を使うだけ使って、ろくに後始末もしない」


 唾棄だきするわけでもなく、淡々と述べるだけの口調が、曖昧模糊あいまいもこたる不安を煽る。

 ゼド、貴方は何を考えているの──。

 鉄のような仮面の奥で、ゼドはヘヴンを心底軽蔑しているように思える。低俗な行為に辟易へきえきし、安易な考えを嘲笑あざわらえども、本心を一片たりとも見せてはくれない。その見えざるゼドの狂気と怒気は、一体どこへと向かうのか。

 シーナは怖い。檻の中にひた隠された、彼の核心に触れた途端、何かが弾け飛んで、シーナの指先をき、彼が彼でなくなる気がする。


 白夜の光を溶かし込んだゼドの灰銀髪が、夜闇やあんに妖しく艶めいた。

 少年らしからぬ、古雅こがで悠然とした佇まい。中性的で、彫刻のような美貌に不釣り合いな、鋭い威圧感。計り知れない、幾多の死線を潜り抜けてきたことを窺わせる掌の皮の厚みは、手袋越しでも伝わるものだ。


「お前の住む場所ヘヴンは、数多の人間と邪神のしかばねの上に成り立っている」


 今は白く華やかな神殿も、石灰で舗装された広場も、街中に張り巡らされた水路も。全て、死屍の大地の上に創りあげられた、美しい世界の虚構きょこうだというのか。


「私は、どうしたらいいのかしら」


 シーナがゼドを呼ぶ。ゼドがシーナに顔を向ける。


「私に教えて。この世界で何が起こっているのか。こうかいなんて、しないわ。だから、教えて欲しいの」


 真実を。


「知れば、戻れなくなるぞ」

「いいわ」

「懐疑に取り憑かれた者は、必ず懊悩おうのうあえぐ。ヘヴンに帰っても、孤独が心を蝕み、己への呵責かしゃくと行き場のない憤懣ふんまんが身を苛むだろう。その覚悟があるのか」

「望むところよ」


 シーナは固く誓った。

 これからどんな苦痛が心身を打ち据えても、こうかいだけは、絶対に、しない。


「わかった」


 あっさり了承したゼドに、願い乞うたシーナの方が吃驚びっくりして、おかしな顔になる。それをゼドはほんの少し笑って、また白銀に染まった下界を眺めた。


 ゼドは、どこか期待をしていた自分を認めねばならなかった。

 清純な彼女が、その可憐な口許を穢れた水でそそぎ、猥雑わいざつな泥で手を汚し、毒をむところを見たいと思った。ヘヴンが描く水彩の絵空事を、落書きで上塗りして、あまつさえ、その偽善まやかしの化粧を擦り落としてみて欲しいと思った。

 真っ白な画布キャンバスほど汚したくなる。これも邪神故の邪念なのだろうか。そんな突発的で凶暴な衝動が、はらの底から込み上げてくるのだ。


「俺が、教えてやる。一度誓ったからには、泣こうがわめこうが、目だけは逸らすなよ」


 空間が、時計の針を回すことをめていた。そう表現したくなる、ゆっくりとした時間が流れ、心地良い沈黙が降りる。

 静謐せいひつな世界を、ふたり占めしている。そんな、贅沢なときであった。




 第一章 【黙示録】 了───

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