第二章

666 -α

  ここに知恵が必要である。

  賢い人は、獣の数字にどのような意味があるか、考えるがよい。



        ヨハネの黙示録 13章18節







 大地を踏み荒らし、終末の独裁者たるもの。それは、

 獣を象徴する、数字。それは、666。

 6とは、『不完全』を指し示す。




「何してんだ」

「お掃除よ? 見てわからない?」

「いや、分かるけど……」


 起床したゼドを朝一番に出迎えたのは、羽衣の袖を襷掛けした出立ちで、箒片手に仁王立ちするシーナの姿であった。

 半身を起こしたゼドは、欠伸を噛み殺しながら、寝癖のついたシルバーの髪をがしがしと乱雑に掻く。そして、彼女が元気良く動き回る姿をしばしぼうっと眺めていたが、シーナに急かされて、嫌がりながらもベットから降りた。年季の入ったスプリングが軋む。

 キッチンで、ゼドはインスタント珈琲と一匙の人工甘味料をマグに淹れ、鈍色にぶいろのスプーンで混ぜる。薄くはあるが、まどかな芳香が、湯気と絡まりながら漂う。一口つけると、溶けきらなかった砂糖の塊が咽喉のどに転がり込んできた。


「今日は仕事に行く。代わりにフェンリルが来る」

「お仕事?」

「ここで大人しくしていろよ。……お、おい、お前何してる。そこは動かさないでくれ」

「何って、この場所こそ整理が必要でしょ? このままじゃ、本が雪崩を起こすわ」

「ちょっ、待て待て。俺なりの順番があるんだ」

「こんなに散乱してたら、順番も何もないじゃない。任せて。私がぜーんぶ、綺麗に片しちゃうわ!」


 制止の声を聞こうともしない彼女の腕を掴み、ゼドは眉根を寄せた。


「ここはやらなくていい。そんなに掃除がしたいなら、廊下でも玄関でもやっておけ」

「あら。一番使うところこそ、真っ先にお掃除すべきよ?」

「頼んでいない」

「私が勝手にやってるの。いいでしょ? ね? それに私、お掃除は得意なの」

「掃除に得意も不得意もあるか」


 折れそうにないシーナの様子に、ゼドは反駁はんばくを諦めた。好きにしろとばかりに押し黙って、テーブルの椅子を引く。不恰好な目玉焼きと端が焦げた丸いバゲットが、磨かれた皿の上にちょこんと乗っていた。料理や洗濯はてんで才能がなかったが、彼女いわく、掃除だけは得意なようだ。

 シーナはとても楽しそうに掃除をする。古びた紙の匂い。さびの剥がれる音。箒が踊り、硝子の破片がはしゃぐ。

 彼女はゼドの知らないうたを口ずさむ。そこかしこに頭や脚をぶつけて、時折、埃にせ、面白そうな文献に出会うと、掃除の手を止める。


「ゼド、これって、絵画よね? 何の場面シーンなのかしら」


 シーナが奥から引っ張り出したのは、古ぼけた絵画だった。角が欠け、あちこち擦った痕が残っている。彼女がそっと埃を払うと、油絵はぼんやりと色合いを取り戻した。


「どうせ贋作がんさくだろう」


 ゼドはバゲットを齧りながら、シーナの背中越しに絵画を覗いた。

 瑞々みずみずしい自然の風景が描かれていた。青い草木は天に向かって真っ直ぐと伸び、川と滝には綺麗な水が流れ、カビススを知らぬ蒼穹そうきゅうには、大きな鳥のつがいが羽を広げ、優雅に飛んでいる。


 どこか、懐かしいと感じるのは、何故だろう──。


 まるでねぎらうような優しい手つきで、シーナはその壊れた複製画を布で拭きあげ、欠けた壺を丁寧にぎしていく。忘れ去られたように、部屋の隅に転がされてあった、何の変哲もない壺だ。シーナお手製の藁灰わらばい釉薬ゆうやくを塗ると、壺は薄い膜で覆われ、うるんと艶めいた。


「ゼドくーん。遊びーましょー?」

「噂をすれば、ね!」


 シーナが背伸びをして、窓を押し開けた。

 露台バルコニーの欄干の縁に、フェンリルが器用に立っている。錆色の付着した欄干は、彼の体重に、ぎしぎしとたわんだ。


「やあやあ、おはよう御二方」


 取ってつけたような笑顔を貼り付け、彼はカーゴパンツのポケットに両手を突っ込んだまま、ふわりと飛び降りた。泥の付いた素足で、そのまま部屋に入ってくる。

 掃除したばかりの床に彼の足跡が綺麗に残り、シーナはショックを受けている。


「ゼードくーん」


 ゼドはフェンリルを無視して、食事を続けた。くるくると忙しなく彼は体勢を変え、ゼドの視界に入ってくる。持ち前の五月蝿うるさい彼の表情はひとを煽るのにもってこいだ。


「無視すんなよ」


 テーブルの上に置こうと振り上げられたフェンリルの足は、フォークに脅されてやむなく撤退していった。


「ねえねえ、ゼドくん。アンラのところで仕事なんて、珍しいじゃねぇの」

「何処で何の仕事をしようと、俺の勝手だろう」

「だってさぁ」


 フェンリルが、ゼドの向かいにどかりと腰を下ろした。彼の発する猫撫で声が、不愉快なほど脳内に響く。飴色のテーブルに寝そべるように上半身を乗せ、炯々けいけいとした目だけが射抜くようにゼドを見ていた。

 フェンリルの瞳は綺麗だ。口をついて出る汚い言葉も、屈折した心も、忘れてしまいそうになる黄金の宝石。

 眼窩がんかからくり抜いて、水槽にでも飾ったら、さぞ美しいことだろう。


「何だ。今日はいつにも増してうざったいな」

「やだ、ゼドくん辛辣しんらつぅ。俺はね、面白そうなことには、遠慮なく野次馬させてもらうことにしてんの。それに、最近のお前は殊更面白い」


 ゼドの片眉が、ぴくりと上がる。赤い瞳孔が、きゅうっと的を絞った。それに呼応するようにして、フェンリルが軽く息を吐き出す。


「怖い目ぇすんなよ。ただ……お前、少し変わったなと思ってさ」


 マグを傾け、ゼドは冷めた珈琲を流し込む。


「無駄口を叩く暇があるなら、あいつみたいに掃除でもしてくれよ」


 ゼドがシーナを顎でしゃくると、フェンリルもそれを追って彼女に視線をる。シーナはフェンリルが土で汚した床を、雑巾で拭いていた。


「やだね。掃除は嫌いなんだ」

「じゃあ依頼主おれの言う事を黙って聞くんだな」

「へえへえ」

「じゃ、頼んだぜ」


 フェンリルの肩を軽く叩き、ゼドは家を出た。

 朝日が照らし出す一本道を、ぬえの影が泳いでいく。

 ひょうひょう。不思議な奇声が、渺々びょうびょうたる空を震わせた。

 インフェルノを覆っていた朝霧が段々と降下し、荒涼とした大地と青みがかった白砂はくさの海が姿を現した。ぽつんぽつんと生える野草の葉の上に、カビの溶け残りが張り付いている。痛いほど乾燥した風の吹く砂漠を抜けると、濁った川がある。大地の垢を溜め込んだ、汚らしい川だ。


「ゼドだ」

「ゼドがいる」

「ヨルムンガンドのあいつだ」

「世界蛇だ」

「蛇神さまだぁ」

「ミッドガルドの大蛇さまだ」


 河口に近い、青緑あおみどろ蔓延る川のほとりには、川と海の双方から沢山の魔物が集う。


「ゼド。人間メシくれ」

「邪神さま、蛇神さま。抱いておくんなし」


 飛び交う挨拶を適当にかわし、川に架かる橋を渡る。腐りかけの橋は、ゼドの体重にさえ悲鳴をあげた。

 橋を渡ればすぐに野原が広がっており、その丘のを縁取るように歩くと、我楽多がらくたの山が現れる。これらは最近になって増え始めた新たなごみ、機械である。人類の叡智えいちの結晶も、壊れて捨てられたそれは、路端に放置された獣の排泄物と何ら変わりはしない。異臭を発しないだけ幾分かマシな程度だ。

 その谷を縫うように進むと、鉄骨のはみ出た廃墟ビル群がそそり立っていた。溶解し崩れかけのビル、草木に埋もれたビル、上から押し潰されたようなひしゃげ方をしたビル。思念の残骸が絡む薄闇と、おぼろな生活の痕跡。ゼドにとってそこは、特に理由はないが、歩いているだけで吐き気すら込み上げる、そんな場所だ。

 そんなビル群中でも、特に大きな黒塗りのビルの玄関を開けた。がらんとした広間には、魔物数匹の気配がしている。ゼドは階段を登っていく。所々拭き損ねた血痕が、点々と地図を描いていた。


「ゼドさん」

「出迎えは要らない」


 最上階に着いてすぐ現れた、スキンヘッドの男の出迎えを断り、ゼドはドアノブを回した。


「……取り込み中だったか。出直す」

「いや」


 くるりと黒革のチェアが回る。


「丁度終わるところだ」


 白目を剥き、口から泡を吹く男の胸ぐらを掴んで、にかりと笑う男が座っている。彼の金歯が、光を鈍く反射した。

 アンラ・マンユ。マフィアの首領ボスである。

 彼がぱっと手を離すと、男は膝から崩れ落ちた。失神している。


「もうそんな時間だったか」

「ああ」

「ぬらりひょんの百鬼と乱闘だ。ゼド、これを機に」

「あんたの組には入らないよ」


 先手を打ったゼドの答えに、アンラは筋肉質な肩を揺らして、呵々かかと笑った。


「残念だ。お前、いい腕してんのによ」

「寝ても覚めても闘争、闘争、闘争……。こんなところにいたら身が持たない」


 アンラ達は、この一帯を牛耳るマフィアだ。こういった荒くれ者達の集団は多いが、彼等はインフェルノの中でも指折りの強者である。

 彼はゼドのことを大層気に入っていて、事あるごとに「うちの組に入らんか?」と誘ってくる。


「そんな戦狂いじゃないさ。闘争、酒、女、の黄金比率だ」


 アンラが、傷痕走る頬をにやつかせた。


「自慢にもならない」

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