黙示録 -ς
「ほんっと、懲りねぇな」
「あの人いっつも女の
世も末だな、とフェンリルは注文したカクテルを掻き回しながら言う。ゼドには
「菅原殿に何か用があったのか」
「倭の神ならこいつのインフェルノでの生活の助けになる知恵の一つや二つ、持ってるかと思ってな」
ゼドはシーナを顎でしゃくってから、禍津を正面から捉えた。
「でも、出直す手間は省けたようだ。ここならシヴァ達もいる。同じ女に任せたほうが良い事もあるだろうし」
皆の視線が、シーナに集まる。彼女は初めて出会った飲み物の流動をじっくり観察し、匂いを嗅いでいた。それを、傾けたグラス越しにゼドは見る。何事も経験だ。新しいことを知る快感と、それに溺れる悦楽は、人を、そして神をも変える力を持つ。
頬杖をついて彼女を眺めるゼドの関心は、善神への興味へとすり替わっていた。
このまま悪を
こんな純真無垢な少女の身の内を、欲望と言う名の怪人が
──さすれば、この子はここにずっと居られるのだろうか。
「
さぁ、舐めてみろ。飲み下せ。渇きを癒し、誘惑の味を
おっかなびっくり、彼女は勧められるがままに
唇が濡れた。
喉が上下し、その
途端、彼女は幸せいっぱいの笑顔になった。
「美味しいわ! お兄ちゃん、私これ好き!」
「な? 美味いだろ」
「うんっ。林檎? と言うのね。とっても美味しい果物ね」
ゼドは心中で嗤う。
こんなことを口走れば、フェンリルと同じレベルだ。そう思い直して、舌先にまで乗ったそんな
「可愛らしい嬢ちゃんだ。ヘヴンに返すのか?」
オルクスが
「ああ。こんな使えねえ奴はさっさと
「慣れりゃ出来るようになるだろ。フェンリル、お前が教えてやりゃ良いじゃねえか」
「御免こうむるぜ」
フェンリルが吐き捨てた。
「しっかし、残念だなぁ。この子、成長したら相当な
オルクスはシーナを随分と気に入ったようだった。にこにこと屈託なく笑うシーナの頭を、腕を伸ばして撫でてやっている。
シガーを優雅に
高慢と不道徳のマントを羽織れども、意思なき
オルクスと酒を酌み交わしていた着流しの男が、椅子を回した。
「俺は
「ええ、勿論。
赤子がするように、好奇心に
彼の逞しい肉体が
紫紺の前髪から覗く、引き締まった
禍津が、誰にも悟られぬほど微小な単位を後退った。それでも尚、伸ばされた彼女の指先が、彼の袖にそっと触れる。
「なんだ。やっぱり死なないじゃない」
「死ぬ?」
「ヘヴンでは、貴方に触れると生気を吸い取られて死ぬって噂があるのよ」
それを聞いて、真っ先にオルクスとシヴァが吹き出した。
「やるなぁ、立派に悪名轟いてるじゃねえか。流石、八百万もいる倭の神の中で
オルクスが禍津を肘で小突くと、禍津は煙混じりの小さな艶笑を零す。
「
畏怖の念の多さは邪気の濃さ、邪気の濃さは邪神の強さ。禍津は、インフェルノに集う荒くれ者の神々の中でも指折りの武神であった。
「羽衣が少し傷んでいるな。向こうで聖水は使っていなかったんだろう? 時々俺の所に来ると良い。清めの水がある」
「いいの? ありがとうっ」
「倭の神は繊細だなあ」
オルクスがしみじみと言う。
それを横目で見ながら、ゼドは酒を
シーナの羽衣が傷んでいた事に気付かなかった。
「お前も、ヘルヘイムから聖水を引いてんだっけ?」
オルクスがゼドを見る。
「ああ。アンラ達に
「そりゃいい。嬢ちゃん、ヘルヘイムって分かるか」
シガーを持つ手の
「ヘルヘイムってのは」
とんとん、と彼の磨き上げられた革靴が床を軽く叩く。少しだけ土埃が舞った。
「この地下歓楽街アガルタの更に下。地上から数えて第三の層のことだ」
ヘルヘイム。霧に包まれ、死の瘴気が漂う層。そこには、煮え滾るフウェルゲルミルの泉があり、そこから幾数もの川が流れ出ている。勿論、人間がそのまま飲めば即死だ。多くの
「ヘヴンから見放された土地とは言えど、奴等はインフェルノを監視している。変な動きがあれば、反乱因子として処分する為にな。だからインフェルノの民は、地下へとその活動領域を広げていった」
オルクスの胸糞悪い紳士顔が歪む。筋肉の詰まったシャツにベストを羽織った正装じみた格好は、意地悪な憫笑を余計、底気味の悪い
「悪が集えば其処は
「悪趣味な」
「お褒めに預かり、光栄です」
年甲斐なく楽しそうに話すオルクスを見て、禍津は眉尻を下げる。
「堕ちていく奴らを眺める、あんたの嬉しそうな顔は気色が悪いって言ってんのよ」
遠くからシヴァが口を挟む。
「お前だって滾るだろ?
あの、とシーナがおずおずと口を挟む。
「かんし? しょぶん? って一体何のこと……」
「ああ、嬢ちゃんはまだ知らなくていいことだ」
オルクスの見せる優しさは、その裏返し。
優しさと言う線引き。思い遣りと言う名の牽制。守る体裁を繕っては、突き放す。
「で、でも」
「後悔するぞ。ヘヴンに帰ればもう交わらぬ世界だ」
「ヘヴンは貴方達に酷いことをしているの?」
「やめとけ」
ゼドもやむなく忠告を入れた。
「私、知りた……」
じっと会話を見守っていたフェンリルが、拳をテーブルに打ちつけた。どんっ、と大きな音が鳴って、皆が静まり、彼を見た。
シーナなど、肩をびくりと飛び上がらせ、目を丸くしてフェンリルを凝視している。シヴァが奥から文句を言っている声が、やや場違いに聞こえる。彼の握るグラスからは、氷で薄まった
「だからヘヴンの奴は嫌いなんだ!」
狼が少女に牙を剥いている。
狼と少女の話が、何処かの民話にあるらしい。狼に
──狼に気をつけろ。
そんな教訓を
「糞みてぇな善人面しやがって。安穏とした暮らしの中で本当に脳味噌がピーナッツになったようだな」
「ちょっと、あんた、落ち着いてよ」
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