黙示録 -ε
あんぐりと口を開けた
一匹の狼が二人の傍に擦り寄った。フェンリルの本来の姿である。毛並みは月光を浴びて艶めき、神秘的な輝きを纏っている。肌触りの良さそうな獣毛にシーナがそっと触れると、狼姿の彼は身を震わせて嫌がった。
「行くぞ」
「ま、待って」
心の準備をする暇も与えず、ゼドは
背後の気配は
「お兄ちゃん? どこ?」
「早くしろ」
「ごめんなさい。暗がりには慣れてなくて……」
ゼドは仕方なしに数歩戻って、手を差し伸べた。それが見えていない彼女がその手を取る事はない。
「手」
「え?」
「手を貸せ」
数センチ先で
彼女の手は驚くほど柔らかく、小さかった。
「お兄ちゃん、痛い」
「……ごめん」
長く続く細い一本道。突き当たりを左。その奥の円形の多叉路は十一時の方向。迷路のような地下道を、ゼドは迷いなく進む。
「もう元来た道が分からなくなったわ」
「覚える必要はない」
その言葉を受けてシーナは不服そうだ。
何もないような闇がりも、そこにいれば目が慣れて次第に、細部に至るまでよく見えるようになる。己の地ならば、行く道も買える道も、自分の目で見るべきだ。
分厚い丸型の鉄の扉が現れた。舵の形をした取手を反時計回りに力一杯回す。するとそれは、耳を塞ぎたくなる不快音をたてながら、
「わあ……」
シーナが期待に満ちた面持ちで、驚きの声を洩らす。彼女はこの先に
「俺から離れるな」
首肯する彼女の外套のフードを引っ張って、目深に被せる。取手を握る掌に、慎重に力を込めて引き寄せ、扉の奥に
逆光で、一瞬視界が白んだ。
──極彩色の
目が眩む。
嗚呼。身の内に流れ込んでくる、雑然とした欲望の
「……ゼド?」
無意識に舌舐めずりしていた。その姿は
拐かされ、引き摺り出された、暴力的なまでに
遠くに聞こえたシーナの呼び声が、ゼドの意識を引き戻した。それから、
「ここはアガルタ。歓楽街だ」
「かんらく……」
「ここに棲む者は皆、欲望の奴隷さ」
風に吹かれた砂塵と共に、空き瓶と紙屑が転がっていった。
向かい側からは
それをゼドは恫喝的な一瞥で黙らせると、フェンリルを従え、圧倒されるシーナを連れて早足で歩いて道を抜けた。
「背景は不釣り合いだけどさ、子供二人が手を繋いでる光景は
「黙れ」
「お兄ちゃん何か言った?」
「いいや」
獣の姿をしたフェンリルが発する言語は、同じく魔獣の者にしか聞こえない。
ゼドは昔から一つ、疑問を抱いていた。それは、ヨルムンガンドでありながら蛇神でもあったゼドが、何故か邪神の本質にばかり引っ張られることだ。
ヨルムンガンドは本来魔獣である。しかし、「人間や魔物を貪り、湿気の多い地下にじっと潜んで、時にその
「へールデ?」
立ち止まったゼドとフェンリルを交互に見たシーナは、彼らの視線の先にあるブリキの看板の文字を追った。剥がれかけのメッキは、不気味な様にもレトロ風情にも映る。
「
フェンリルが人間の容姿に戻り、言った。
意味を知らなかったシーナは、首を傾げた。それをふふん、と彼は鼻で笑う。
「集団から突出することを恐れる人間の特徴のことさ。どうだ、ヘヴンの臆病者共を指すのにぴったりの言葉だろ? 歓楽街の店名にしちまうとは、洒落っ気利いてるぜ」
フェンリルに続き、ゼドが口を開く。
「弱者は支配する強者を邪悪と
目的の店は、角を曲がってすぐにあった。切れかけのネオン管に
むわり。官能的な
「やーん、ゼドぉ。会いたかったわ!」
煙塗れの視界から突如現れた一人の女が、ゼドに思いきり飛びついた。
「おい、離れろ」
「
甘ったるい語尾と香水の
サスペンダーの下を、褐色の手がゆっくりと這う。その形を確かめるように、ゆっくりと。布地の少ないホルターネックから覗く、紛い物の宝石で飾り立てられた豊満な
「んーっ。相変わらず可愛いっ」
彼女の名はシヴァ。破壊の神であり、この店の踊り子である。
「おーいー、歓迎するのはゼドだけか」
不満顔のフェンリルが、シヴァに文句を言った。
「フェンリル。貴方は一度、その獣臭を洗ってから出直して来て? ここに来る時には化けるのやめてって言ってるでしょ」
「はぁ? お前こそ、そのキツい香水の香りを落としてから言え。鼻が曲がるぜ」
「うるさいわね。ここは聖水よりも香水が溢れる店よ」
呆れ顔でされるがままのゼドの頭を抱き締め直して、シヴァは未だゼドと手を繋ぐ少女を見下ろした。そして無言で、グラマラスな肢体を更にゼドの身体に密着させる。滑らかな褐色の肌は瑞々しく、肌に吸い付いてくる。
「あら、この子どうしたの」
シヴァの額にある、第三の眼がぱかりと開いて、シーナを凝視する。
光の加減では黒に焦茶にも見える、癖のある髪は美しく波打ち、散りばめられた三日月型の髪飾りが、仄暗い店内を照らす
「はじめまして。シーナです」
シーナは膝を折って挨拶をした。蜂蜜を
シヴァの鬱陶しい抱擁を押し退けながら、ゼドはその行儀の良い
「ゼドが拾って来たんだ」
フェンリルが口を挟む。
「あたしという絶世の美女がいながら?」
「もう年頃の男神だからな。同世代の清楚系に夢見ちまうんだよ」
にやけ面のフェンリルに、反論する気も失せたゼドは、
彼女に案内された席の側にはバーカウンターがあり、男が二人腰掛けていた。ゼド達を見て、「やあ」と片手を挙げる。
「オルクスに
フェンリルが、ぱっと笑顔になる。
「おう。何だ何だ、その嬢ちゃんは」
オルクスが咥えていたシガーを指で挟み、ウィスキーを
「珍しい
「ゼドの拾いものですってよ」
カウンターに回ったシヴァが、オルクスのグラスに
シーナがまた丁寧に挨拶をした。
「
「
フェンリルが訊ねる。
オルクスと並んで座る、黒無地の衣を着流した男が静かに頷いた。
オルクスとはまた違った存在感を放つ男であった。小袖の合わせ目から覗く、無駄のない引き締まった筋肉と、その上を走る無数の
「
ゼドが言う。
「あの変態ジジイなら、また暫く出禁よー」
***伏線の手引き***
フェンリルの地下道での動きに注目?
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