黙示録 -ε

 あんぐりと口を開けた隧道ずいどうを前に、シーナは足をすくませる。燈會ランタン無しは怖いのだろうかと、ゼドは彼女を見た。唇を噛み、震えを抑えようと強がる姿は、ゼドの目にはやや滑稽に映る。家を出る際に着せた黒い外套がいとうが、不安げに揺れている。

 一匹の狼が二人の傍に擦り寄った。フェンリルの本来の姿である。毛並みは月光を浴びて艶めき、神秘的な輝きを纏っている。肌触りの良さそうな獣毛にシーナがそっと触れると、狼姿の彼は身を震わせて嫌がった。


「行くぞ」

「ま、待って」


 心の準備をする暇も与えず、ゼドは文目あやめも分かぬ闇の中に身を投じた。老朽化した暗渠あんきょ。そこに堆積した砂利とごみの狭間を流れる水の細声さざれごえの伴奏に合わせて、反響する足音が旋律を刻む。その一定の歩調は、秒針が静かに時を奏でるかのようだ。

 背後の気配は微動ひどうだにしない。何をもたもたしているのかと振り返れってみれば、彼女は暗闇に一歩足を踏み入れた辺りで往生していた。夜目の利くゼドには、手探り状態で狼狽うろたえるシーナの姿がはっきりと見て取れた。足元の狼が羽衣の裾を引っ張るも、バランスが取れずに余計に慌てるだけ。


「お兄ちゃん? どこ?」

「早くしろ」

「ごめんなさい。暗がりには慣れてなくて……」


 ゼドは仕方なしに数歩戻って、手を差し伸べた。それが見えていない彼女がその手を取る事はない。


「手」

「え?」

「手を貸せ」


 数センチ先でくうを掻くシーナの手を、ゼドはやや乱雑に掴んだ。

 彼女の手は驚くほど柔らかく、小さかった。


「お兄ちゃん、痛い」

「……ごめん」


 長く続く細い一本道。突き当たりを左。その奥の円形の多叉路は十一時の方向。迷路のような地下道を、ゼドは迷いなく進む。


「もう元来た道が分からなくなったわ」

「覚える必要はない」


 その言葉を受けてシーナは不服そうだ。

 何もないような闇がりも、そこにいれば目が慣れて次第に、細部に至るまでよく見えるようになる。己の地ならば、行く道も買える道も、自分の目で見るべきだ。

 分厚い丸型の鉄の扉が現れた。舵の形をした取手を反時計回りに力一杯回す。するとそれは、耳を塞ぎたくなる不快音をたてながら、鈍重どんちょうに開いた。


「わあ……」


 シーナが期待に満ちた面持ちで、驚きの声を洩らす。彼女はこの先に理想郷ユートピアが在るとでも思っているのだろうか。


「俺から離れるな」


 首肯する彼女の外套のフードを引っ張って、目深に被せる。取手を握る掌に、慎重に力を込めて引き寄せ、扉の奥に掩蔽えんぺいされた世界に彼らは足を踏み入れた。

 逆光で、一瞬視界が白んだ。

 ──極彩色の混乱カオス

 目が眩む。

 嗚呼。身の内に流れ込んでくる、雑然とした欲望のなみに酔いそうだ。


「……ゼド?」


 無意識に舌舐めずりしていた。その姿は蛇蝎だかつらしく奸悪かんあくで艶容であった。

 拐かされ、引き摺り出された、暴力的なまでに凄烈せいれつな本性に呑まれそうになる。こめかみに筋が浮いた。

 遠くに聞こえたシーナの呼び声が、ゼドの意識を引き戻した。それから、かしましい街の音が折り重なるように耳に入ってくる。


「ここはアガルタ。歓楽街だ」

「かんらく……」

「ここに棲む者は皆、欲望の奴隷さ」


 紅殻べんがら色のまがきから、淫らに打掛を着崩した花魁擬きの魔女が誘惑し、道端には酔い潰れた淫蕩いんとうな獣神が横たわり、身体のラインに沿った派手なドレスを纏う妖精達がたむろして、煙草キセル片手に談笑しつつ不躾ぶしつけな視線を寄越す。

 風に吹かれた砂塵と共に、空き瓶と紙屑が転がっていった。

 向かい側からは極道ヤクザ者の風体の下賤な魔物共がそぞろ歩き、客引きの怪物が揉み手しながら卑下ひげた愛想笑いを引っ提げて、蒼蠅あおばえのようにへつらっては、擦り寄ってくる。

 それをゼドは恫喝的な一瞥で黙らせると、フェンリルを従え、圧倒されるシーナを連れて早足で歩いて道を抜けた。


「背景は不釣り合いだけどさ、子供二人が手を繋いでる光景は存外ぞんがい可愛らしいもんだな」

「黙れ」

「お兄ちゃん何か言った?」

「いいや」


 獣の姿をしたフェンリルが発する言語は、同じく魔獣の者にしか聞こえない。すなわち、魔獣ヨルムンガンドの化身であったゼドは、彼の言葉を聞き取ることが出来た。

 ゼドは昔から一つ、疑問を抱いていた。それは、ヨルムンガンドでありながら蛇神でもあったゼドが、何故か邪神の本質にばかり引っ張られることだ。

 ヨルムンガンドは本来魔獣である。しかし、「人間や魔物を貪り、湿気の多い地下にじっと潜んで、時にその巨軀きょくで地の調和を壊したい」などという狂暴的情動じょうどうに駆られたことは一度もなかった。


「へールデ?」


 立ち止まったゼドとフェンリルを交互に見たシーナは、彼らの視線の先にあるブリキの看板の文字を追った。剥がれかけのメッキは、不気味な様にもレトロ風情にも映る。


畜群Heerde。 イカした店名だろ」


 フェンリルが人間の容姿に戻り、言った。

 意味を知らなかったシーナは、首を傾げた。それをふふん、と彼は鼻で笑う。


「集団から突出することを恐れる人間の特徴のことさ。どうだ、ヘヴンの臆病者共を指すのにぴったりの言葉だろ? 歓楽街の店名にしちまうとは、洒落っ気利いてるぜ」


 フェンリルに続き、ゼドが口を開く。


「弱者は支配する強者を邪悪と見做みなすことで、みずからを正当化する。そんな考えに使われた言葉だが、これもヘヴンから排除された。よっぽど奴らにおあつらえ向きの言葉に思えるがな」


 目的の店は、角を曲がってすぐにあった。切れかけのネオン管にが群がり、歪んだ灰皿から溢れ落ちた灰が、入り口に敷かれたマットを汚している。今にも底が抜けそうなきざはしを降り、ゼドは錆びた真鍮しんちゅうの取手を回した。

 むわり。官能的な馥郁ふくいくと煙草がくゆらす紫煙しえんが立ち込める空間が、三人を迎え入れる。


「やーん、ゼドぉ。会いたかったわ!」


 煙塗れの視界から突如現れた一人の女が、ゼドに思いきり飛びついた。


「おい、離れろ」

ぁよ。久しぶりじゃない、お姉さんが恋しくなっちゃった?」


 甘ったるい語尾と香水のかおり鼻腔びくうをくすぐる。彼女はゼドの首に腕を回し、短いスカートからのぞく脚を股下に絡ませ、おまけに腰に手を添わせた。

 サスペンダーの下を、褐色の手がゆっくりと這う。その形を確かめるように、ゆっくりと。布地の少ないホルターネックから覗く、紛い物の宝石で飾り立てられた豊満な乳房ちぶさが、ゼドの頬に押し付けられた。


「んーっ。相変わらず可愛いっ」


 彼女の名はシヴァ。破壊の神であり、この店の踊り子である。


「おーいー、歓迎するのはゼドだけか」


 不満顔のフェンリルが、シヴァに文句を言った。


「フェンリル。貴方は一度、その獣臭を洗ってから出直して来て? ここに来る時には化けるのやめてって言ってるでしょ」

「はぁ? お前こそ、そのキツい香水の香りを落としてから言え。鼻が曲がるぜ」

「うるさいわね。ここは聖水よりも香水が溢れる店よ」


 呆れ顔でされるがままのゼドの頭を抱き締め直して、シヴァは未だゼドと手を繋ぐ少女を見下ろした。そして無言で、グラマラスな肢体を更にゼドの身体に密着させる。滑らかな褐色の肌は瑞々しく、肌に吸い付いてくる。


「あら、この子どうしたの」


 シヴァの額にある、第三の眼がぱかりと開いて、シーナを凝視する。みどりの大きな虹彩は、奥に宇宙を秘めているようだった。

 光の加減では黒に焦茶にも見える、癖のある髪は美しく波打ち、散りばめられた三日月型の髪飾りが、仄暗い店内を照らすあかりを反射して煌めいた。


「はじめまして。シーナです」


 シーナは膝を折って挨拶をした。蜂蜜をいたような艶のあるストレートの黒髪が、さらりと肩から落ちる。それはまるで、月光を織り込んだシルクだ。

 シヴァの鬱陶しい抱擁を押し退けながら、ゼドはその行儀の良い旋毛つむじを眺めた。節々で見せるこの度胸は幼さ故なのだろうか、彼女の性格なのか、世間知らずの影響か。


「ゼドが拾って来たんだ」


 フェンリルが口を挟む。


「あたしという絶世の美女がいながら?」

「もう年頃の男神だからな。同世代の清楚系に夢見ちまうんだよ」


 にやけ面のフェンリルに、反論する気も失せたゼドは、顳顬こめかみに手を当てて溜息を吐いた。手をひらひらとさせて、早く席に案内しろとシヴァを急かす。

 彼女に案内された席の側にはバーカウンターがあり、男が二人腰掛けていた。ゼド達を見て、「やあ」と片手を挙げる。


「オルクスに禍津まがつさんじゃえねえか」


 フェンリルが、ぱっと笑顔になる。


「おう。何だ何だ、その嬢ちゃんは」


 オルクスが咥えていたシガーを指で挟み、ウィスキーをめた。無精髭の生えた顎に手を当てる仕種が、妙に色気がある男だった。淡褐眼ヘーゼルアイが細まる。品定めの目付きだ。黒い外套とゼドの邪気だけでは、彼らにシーナの正気せいきは隠しきれないだろう。


「珍しいもん連れてんなぁ」

「ゼドの拾いものですってよ」


 カウンターに回ったシヴァが、オルクスのグラスに火酒かしゅを注ぎ足す。カラン、と角ばった氷が回転した。結露で出来た水滴がグラスの背を伝う。

 シーナがまた丁寧に挨拶をした。


やまとの女神か」

禍津まがつさんは確か、倭の災いの神? だったよな」


 フェンリルが訊ねる。

 オルクスと並んで座る、黒無地の衣を着流した男が静かに頷いた。

 オルクスとはまた違った存在感を放つ男であった。小袖の合わせ目から覗く、無駄のない引き締まった筋肉と、その上を走る無数の刀疵かたなきずは、彼の威厳と魅力を殊更引き立てている。


菅原すがわらの親父に会えるかと思って来たんだが、禍津さんが居てよかった」


 ゼドが言う。


「あの変態ジジイなら、また暫く出禁よー」





***伏線の手引き***


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