黙示録 -β
「お兄ちゃん、誰?」
ゼドはナイフをおろした。
「……先、俺の質問に答えろよ」
「シーナ。私の名前はシーナ」
積まれた木箱の隙間に埋もれるようにして
これほどまで美しい虹彩を、ゼドは見たことがなかった。それは、幻想的の一言では片付けることのできない透明度と輝き。どんなに晴れ渡った夜空の色を詰め込んでも、どんなに清涼な海底の水を搔き集めても、これほどまでに美しい色は生み出せまい。
「ヘヴンから来たのか」
「門番さんと喧嘩してたおじさんが、ハンカチを落としたから、渡さなきゃと思って……」
「それで迷いこんだのか」
「うん」
溜息を吐いて、ゼドは指先で頭をかいた。
「インフェルノまで迷いこむなんざ、聞いたことがない」
外から内への警備は厳しい。門は堅く閉ざされ、門兵達が四六時中見張っている。しかし、逆はそうでないのかもしれない。インフェルノに行こうとするヘヴンの住人など、存在する訳がないからだ。
「お兄ちゃんも神?」
ゼドはナイフをベルトに戻した。袖を血で汚すほどですらない。
「……邪神だ」
「私も神よ! おんなじね!」
シーナという少女は、緊張に強張らせていた身体を僅かに弛緩させ、安心したようににっこりと笑った。
「同じじゃあない」
「一緒よ」
幼いからだろうか。目を覆いたくなるほどに無垢な彼女が眩しくて、ゼドは目を細めた。
インフェルノに一人放り込まれれば、こんなか弱そうな少女などひとたまりもないだろう。だが、それもこの娘の定め。運が悪かっただけのことだ。
彼女が獣の
「ま、何でもいいや。じゃあな、頑張って帰れよ」
背を向けたゼドのシャツが、クン、と引っ張られた。小さな力であったが、振り返った時にゼドを見つめる黒い
手を払うも良し、肩を押して転ばせるも良し。手にしたナイフで喉笛を掻っ捌いても良し。さっきの男を
――捨て置け。
理性が、正しいはずの判断を告げている。
「お兄ちゃん、私を連れてって」
「は?」
ゼドは目を丸くする。
「お兄ちゃんと一緒に行く」
「ふざけるな。お前はさっさとヘヴンに帰れ」
「帰り方がわからないんだもの」
「だからってな……お前の知る場所とは違って、ここは毎日が生きるか死ぬかの戦いの世界だ。俺は、お荷物を抱えてやれるほどお人好しじゃない」
心に畏怖を植え付けると恐れられる、ゼドの
「何でもするわ! だからお願い」
「何でもって、
「お願いよ、お兄ちゃんっ」
暫く逡巡してから、ゼドは未だ嫌そうな顔でくるりとシーナの方に向き直った。
彼女の身体に震えはない。嫌悪、
「お兄ちゃん!」
「……本当に、何でもするんだな」
「うん」
シーナはこくりと頷く。
沈黙が、雪のように静かに降り積もる。
「……俺の言うことは絶対だ」
「わかったわ」
「俺に干渉するな。勝手なことはするな」
「うん」
「自分の身は自分で守れよ」
「約束するわ」
肺の空気を全て吐き出すほど、深い溜息を
「俺の名はゼド。すぐに帰んなきゃ路頭に放り出すからな」
こうして、善神の少女と邪神の少年の奇妙な生活が始まった。
†
「……ここが、おうち?」
「こんな
「……」
「だろうな」
煉獄が存在しなかった時代。かつて人間と
神々は時間という軸を失い、世界を創造した神から、人間の願いが神格化されて生まれた神まで、人間が欲する
そして、この大いなる自然の中に、多種多様な神々と人間が共存する世界が出来あがったのだ。人間の死と、滅多に訪れないが永劫とも言い切れぬ神の死を
しかし、統合された豊かな文明は、そう長くは続かなかった。
いつしか人間は、土地が持ち
こうして使い物にならなくなった、
したがって、ほぼ腐り落ちてはいるものの、インフェルノには一応街としての様相を保っている場所が多く
多くの罪人は雨風を凌ぐ為に、廃墟や神社、神殿を
人間は新たな地に移り住む度、
家というものをあまり必要としない邪神も、
ゼドは一つ
「文句は言うなよ」
「わぁ……素敵! 私こんなに雰囲気のあるお家、初めて見たわ! お化けが出そうね!」
「気に入ったようでよかった」
くす、と皮肉か本気か分からぬ笑いを洩らして、ゼドは彼女を屋敷へ招き入れた。
がらんとした広間、冷たい石の階段、シャンデリアには蜘蛛の巣が張り、曇った窓硝子は所々破れていて風が吹き込む。
「広いわね」
「貴族の屋敷だったようだ。
ゼドは、シーナを連れて螺旋状の階段を登る。華奢な
「なに、これ……」
「本だ」
「すごい。すごいわ! お兄ちゃん!」
積み重ねられた本の山を見て、彼女はきゃっきゃっと嬉しそうに
部屋の中でくるくる踊るシーナの姿を、腕を組みドア枠に寄り掛かって、ゼドは眺める。
「そんなに珍しいのか」
「ええ。ねっ、この本触ってもいいかしら?」
ゼドの許可を得た彼女は、
ぱぁっ。そんな音が弾けた錯覚を起こさせる笑顔が、シーナの顔いっぱいに華咲く。黒の双眸はきらきらとした光を帯びて、その雪肌に柔らかな桃色がふわりと色づいた。
「ヘヴンではね、たくさんの本が禁書に指定されていて、読みたくても読めないの。見てもいいのは、数学や歴史みたいな勉学の本や、教典だけ」
「つまらない世界だな」
「でも、誰もその面白さを知らないから、一人として不満は言わないわ」
ゼドが溜息を零す。
「……無知を知るは、学問の始めなり」
思春期前にしては低めのその声に
赤い眸に縦にナイフを入れたような細い瞳孔が、何を言わずとも、
「ソクラテスの言葉さ」
「物知りなのね。素敵だわ」
あまりにもストレートな褒め言葉を食らって、ゼドは咄嗟に
「お兄ちゃんは、どんな本が好きなの?」
弾む声で、シーナが訊く。
「……悲劇」
「劇ってどんなもの?」
シーナの纏う、不可思議な色彩の羽衣が行ったり来たりする。
ゼドは部屋に足を踏み入れ、
「恐怖というものを、俺はほとんど忘れてしまった」
強い引力に引き寄せられる。シーナはそんな感覚に
「かつては闇夜を走る叫びを聞いて、全五官が悪寒で打ち震えたものだ」
なんて心地の良い声なのだろう、とシーナは聴き惚れる。
先刻までの無表情が嘘だったかのように、抑えきれぬ心の叫びを、嘲笑混じりで苦しそうに
人間よりも、人間らしいほどに。
「今はありとあらゆる恐ろしいことが、この身内に浸みこんでしまい、何が起ろうと、人殺しのおれには日常茶飯事。もう、ぎくりともしないのだ」
否応なしに惹き込まれる。
「大海の水を傾けても、この血を綺麗に洗い流せはしまい……」
ゼドの魅せる演技ひとつひとつを見逃さないように、息を呑むのも忘れ、シーナは
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