聖書を牙で裂く

南雲 燦

第一章

黙示録 -α

  罪を犯す者は、悪魔から出た者である。

  悪魔は初めから罪を犯しているからである。



        ヨハネの第一の手紙 3章8節







 神の気まぐれを、人間は時としてと呼ぶらしい。


 邪神の云為うんいがその言葉に釣り合うのかは定かではないが、その運命とやらを、「くだらない」と一蹴するのに躊躇せざるを得ないのは、このしようもない過去の運命きまぐれの所為である。




 その日はしたたか雨が降っていた。太陽の熱射に焼かれた石畳からは水蒸気が立ち昇り、元より薄汚れた煤塗れの街はたちまち灰にかれる。

 夏が到来したこの街では、路端に転がるしかばねが増えた。腐乱した肉とこぼれ始める骨。どれもこれも、罪を犯してこの廃れた街に追放されてきた、人間の成れの果てだ。

 くたばるには十分な暑さと劣悪な環境は、「ほれ死にたまえ」とばかりに、容赦無く死の影をちらつかせる。


 くいう少年ゼドも、肌に張り付く服と蒸すような暑気しょきに思わず顔を顰めた。しかながら、視界の悪い猛暑日は、金を漁るに絶好の日和ひよりである。

 瓦礫がれきの山を越え、茂みを掻き分け、凹凸の目立つ足高道いしだかみちをゆく。目指すは、天国と地獄の境目に立ち塞がる、大いなる壁『煉獄れんごく』。

 聖なる壁と称される割に随分と無機質なそれは、人間と善神が住む地域『ヘヴン』と、邪神の棲まうこの荒廃したスラム街『インフェルノ』を分かつ、業火ごうかの壁だ。愛やら平等やらを好んで説く者が創造したとは思えない、無慈悲な産物である。


 煉獄付近では、インフェルノに永久追放された罪人の死体がたくさん転がっていた。彼らはヘヴンを恋しがってか、壁の周囲を彷徨さまようのだが、為す術がないことを悟って絶望した頃には体力を使い果たし、そこで絶命してしまうのだ。

 ゼドは崩潰ほうかいした屋根から軽やかに飛び降り、うつ伏せに倒れている男に近づいた。


「生きていたか」


 ゼドの足で転がされた男は、仰向けになって呻吟しんぎんする。この様子ではあと半日と持たないであろう。

 ゼドは土と垢に汚れた男のズボンからコインを、履き潰れた麻布靴の踵から、ぐっしょり濡れた数枚の札を、うっかり破らないよう慎重に抜き取ると、てのひらの上でコインの数を数えた。

 ヘヴンから来た人間は、金はあっても使い方が下手だ。持参した資金は蕩尽とうじんされ、大抵すぐ底を尽く。その上、食い扶持ぶちをつなぐ手段も度胸もない。

 彼らは喧嘩にも滅法めっぽう弱い。強請ゆすられれば言い返し、喧嘩を売られれば殴り返す、そうして生きていかねばインフェルノでは到底生き残れまい。


「頼む……殺してくれ」


 ゼドは底冷えする視線を男に投げて寄越した。譫言うわごとのように、彼はそれだけを繰り返す。

 痩せ細った片脚は折れ、あらぬ方向に向いていた。ろくに飢えた腹を満たすこともできず、怪我をして身動きが取れなくなったのだろう。

 つまらない言葉を滔々とうとうと垂れ流すその身体は、最早もはや魂をうしなったただのいれものうつろな瞳は白濁はくだくし、焦点を失って久遠くおんの何かを映している。

 何事もなかったかのように、ゼドの蛇眼へびめは再び、銀貨の表面に走る、泥の刷り込まれた傷をなぞった。


「俺が手を下さなくとも、お前はすぐに死ぬ」


 銀貨が七枚と、紙幣が三枚。

 今日の晩飯には肉を添えることができそうだ、とゼドは満足げに頷いた。


「早く、楽に、なりたいんだ……」


 今にも消え入りそうな懇願に、ゼドはやっと、男の方に顔を向けた。既にむしが湧き、はえたかり始めている。


 人間は、至極勝手な生き物だ。あらゆる悪念とあくなき欲望をはらに抱えているくせに、悪を嫌悪排他し、目を逸らす。

 十字架を背負った者達を、神聖をうたう自分達の領域から追放し続けた末路が、この惨状である。インフェルノは今や、悪の化身たる邪神や獣、罪人など、楽園ヘヴンから追放された者達が、這いずる様に生きる芥溜ごみだめだ。


「お願いだ……殺して、くれ……」


 ゼド達邪神にとって、風前のともしびとなった命の一つや二つ、奪う事は容易いことであった。邪神あくやくらしく、願いを叶える代償として魂を頂戴することだってできる。ただ残念なことに、魂を喰らったところで腹は膨れない上に、特別うまくもない。


 程良くししの付いた、成熟しきっていない白い腕が伸ばされればすぐに、バキ、と頚椎けいついから大きな音が響く。

 男の心臓が織り成す鼓動の速度が、次第に緩やかになっていくのと同時に、肢体から生命のエネルギーがゆっくりと抜け落ちるのが分かった。


 にわかに、雨脚が強くなった。

 横たわる肉塊の上で雨水が躍る。軽快な音色が滑稽な旋律を紡ぐ。

 ゼドは、男の首に掛けていた手を離した。肩からずり落ちたサスペンダーを掛け直し、黒手袋の端を引っ張って、立ち上がる。


「命の対価にしちゃあ端金はしたがねだな」


 金を尻ポケットにじ込んで、次なる獲物を探す為、ゼドはその場を立ち去った。


 出会でくわしたのが善神だったならば、彼の願いは叶えられる事はなかったはずだ。人間だったならば、醜い死に体を前に長ったらしい祈祷でも始まったはずである。

 どんな状況下であろうと、故意に命を捨てる行為をとする考えが根付いたヘヴンであったならば、既に手の施しようのなかった彼は、苦痛や恐怖にさいなまれながら、忍び寄る死にじわじわと呑み込まれることとなったろう。


 少年の顔を映す水溜りに、矢継ぎ早に雫が飛び込み、その感情の乏しい面相を歪めた。


 ゼドは毒蛇の神、ヨルムンガンドの化身である。

 ヨルムンガンドは巨大な精霊ガンド故に、揶揄やゆされることも間々ままあるが、神の時間尺度で言えば生まれて間もないゼドは少年の姿かたちをしていた。


 ゼド達神は、気付くと世界に存在していた。

 邪神も善神も等しく、人間の思いが形を成して神殿に忽然と現れる。神の誕生の瞬間である。

 そして、と呼ばれる儀式により、善神とみなされた神はヘヴンで贅沢で安全な暮らしを保証され、その一方、邪神とみなされた神はインフェルノへと放り出された。情けとばかりに投げて寄越されるのは、手の平程度の固いパンを二つと、薄い味の葡萄ぶどう酒を一瓶。

 人間という生き物は、至極勝手で残酷だ。彼らの願いが具現化し、化身が創り出されたというのに、いざ悪を目の前にすると、それが神の端くれであろうと受け入れる事を拒絶する。


 無論、ゼドも即刻外へと放り出された。

 彼は見るからに邪神の様相であったので、儀式を執り行った神官も、ゼドの手を取ることを明白あからさま厭悪えんおしていた。教典を読む声は震え、挙げ句の果てにゼドの蛇眼に見つめられて戦慄わななく始末。


 とんとんとん。些少さしょうな音だけをその場に残して、ゼドは傾いた屋根の軒下に身体を滑り込ませた。頭を振って、灰髪はいはつに絡み付いた雨水を振り落とし、黒のシャツとズボンを伝う水滴を手で払い除ける。

 雨露うろの恩恵という名の通り、雨は正に自然のもたらす恩恵だ。

 身体を汚していた街の塵と煤をすっかり流し出し、シルクに似た肌触りの服は元の綺麗な色合いを取り戻す。神の衣と身体は常に清い。水に濡れれば穢れははらわれ、光を浴びれば力がみなぎる。


「誰だ」


 重たい薄闇が、潰れかけの家屋の奥に広がっている。それを振り返って、一言。ゼドは問いかけた。

 太腿に仕込んでいたナイフを抜き、戸を蹴破る。蝶番の外れた古めかしい扉は、粉塵を撒き散らして四散した。

 ほの明かりが差した、腐りかけの床。寂寞じゃくまくが佇む部屋の中へと、慎重に歩みを進める。

 ごそごそと、何者かが身動みじろぐ微かな音がした。何者かが、息を殺して隠れている。

 小さな窯の横、矮小わいしょうな気配が不安気に揺れた。怯えた野兎のようだ。


「お前、どこから来た」


 物置から覗く小さな頭に、ゼドはわかりきったことを訊ねた。それが放つ正気しょうきからは、インフェルノでは滅多にお目に掛かることのない、清澄せいちょうで穢れのない魂のを感じる。

 一歩。また一歩と、ゼドが大股で距離を縮めれば、それはびくりと肩を跳ねさせて、後退あとずさった。

 ゆっくりと、部屋の隅に追いやる。

 ゼドは素早く思考を巡らせながら、ナイフの柄を握る手に力を入れた。

 不都合があれば、殺して済む話だ。動物だった場合、人間だった場合。それから──。

 屋根に空いた穴から差し込んだ光が、その正体を照らしだした。

 幼い少女だった。ゼドを見て、怯えた表情かおで固まっている。


 これが、ゼドと豊穣の善なる神、櫛名田比売クシナダヒメの化身、シーナとの出会いであった。






***伏線の手引き***


 この物語には、伏線と意味を含ませている言葉や設定を入れようと思っています。気軽に読んでいただいて、超超超ノープロブレムですが、こういうのが好きな方は是非、考察しながら読んでみてください☺︎

 大したことのない伏線は、(たぶん…)「伏線の手引き」という形でメモ書き程度に書きます。

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