第18編「泣かないでください」

「……ああ、そういえば」

「……?」



 裕一郎は不意に何か思い出したかのような声を出し、ゆっくりと恋幸から体を離して立ち上がるとサークルの外に出る。

 先ほどの急接近で今だほうけたままの恋幸はそんな彼の様子をぼうっと眺めていたが、「小日向さん、ついて来てください」と低音で呼ばれてやっと我に返り、言われるがまま裕一郎の後に続いた。





 花専用部屋を出て、広大で美しい庭園を眺めながら長い廊下を歩き、次に案内されたのはなんと裕一郎の自室。

 緊張こそすれど裕一郎に対しての警戒心が0の恋幸は何の疑問も持たず中へ入ると、用意された座布団に座りきょろきょろと辺りを見渡した。


 彼の自室は高級旅館の宿泊部屋を彷彿ほうふつとさせ、和の雰囲気に馴染む木製の本棚には小難しい小説がずらりと並べられている。

 ……その中に『未来まで愛して、旦那様!』が全巻紛れていると恋幸が気づくのはいつになるだろうか。



「実は、渡したい物があります」

「……? 渡したい物?」



 裕一郎は一つ頷くと、すぐそばにあった棚の引き出しから何かを取り出し、恋幸の真隣に移動して腰を下ろした。



「……これを」



 そう言って、彼は綺麗にラッピングされた小さな箱を差し出す。

 頭の上にたくさんの疑問符を浮かべつつも恋幸がそれを受け取ると、何かを察したらしい裕一郎は無表情のまま「先日頂いたプレゼントのお礼です」と付け加えた。



「あっ、ありがとうございます……!」

「いえ、こちらこそ」

「……開けてみてもいいですか?」

「勿論」



 裕一郎が自分の事を思い、自分の事を考えながら、自分のために選んでくれた物。

 恋幸は中身を見る前からそう考えただけで踊りだしそうなほど嬉しくなる。


 1枚1枚慎重にテープを剥がして、切れ目が入らないように包装紙を剥いていると、ふと子供の頃のクリスマスを思い出しよりいっそう笑みが漏れた。

 そして手のひらサイズの箱の蓋を開けてみると、中に入っていたのはなんとも可愛らしい桜の髪飾り。



「可愛い……!! 嬉しいです、ありがとうございます! ずっとずっと大切に、……っ!?」



 恋幸が隣の彼へ顔を向けた拍子に軽く肩がぶつかり、彼女はそこでやっと裕一郎との距離が近いことに気がついた。


 対して、あまり気に留めていない様子の裕一郎は恋幸の手元にある箱から髪飾りを取り出すと、彼女のこめかみ辺りにクリップをそっとし込む。



「喜んでいただけたようで何よりです」

「……っあ、倉本、さ、」

「正直に言うと……『お礼』なんて、ただの建前なんですよ」

「建前……?」



 髪飾りを付け終えた裕一郎は指先で恋幸の髪をすくい取り、毛先にかけてまるで名残惜しむかのようについと撫でながら口の端をわずかに持ち上げた。



「本当は、小日向さんに“これ”を付けてもらいたかっただけなんです。私のわがままに付き合わせてすみません」

「い、いえ、そんな……っ! わがままだなんて、ぜんぜん思いません……!」

「良かったです。……想像通り、貴方には桜がよく似合う」

「――っ!!」



 ――……刹那。裕一郎に、和臣かずあきの姿が重なる。



『やっぱり、幸音ゆきねさんには桜がよく似合う』



 そして、あの時の言葉も。



「……っ、う……」

「……!? 小日向さん?」



 込み上げた涙を止めるすべなど、恋幸にはわからなかった。

 急に泣き出したせいで彼を困らせているという確かな罪悪感があるというのに、自分の意志とは関係なく水滴は次から次に溢れ出て頬を伝い落ちていく。


 彼に記憶がなくても、和臣の生まれ変わりは間違いなく裕一郎だ。

 彼のことが、心の底から愛おしくて仕方がない。なのに、



「ごめ、なさ……、倉本様、ごめんなさい……っ」

「どうして謝るんですか?」

「だって、」



 どれだけ裕一郎を想っても、いくら考えても、恋幸は結局あの時の『答え』が出せないままだった。



「私、倉本様のこと……っ、前世を抜きにしたら……何でこんなに心が惹かれるのか、どうして、一緒にいるとドキドキするのか、わからないんです……倉本様を見ているつもりなのに、和臣様から切り離しきれていないんです……私、偉そうなこと言っておいて、本当に最低です……ごめんなさい……っ」

「……小日向さん、」

「……っう……くっ、倉本様は……どうして、私に優しくしてくれるんですか……? 今日だって、なんで、一緒にいてくれるんですか……? わたっ、私は……1回、えっちなことするための、きっ、キープですか……? 考えるほど、なんにもわからなくなりました……倉本様、ごめんなさ……っ、」

「恋幸さん」



 何度も目元の涙を拭う恋幸の両手を裕一郎は優しく捕まえると、上半身を少し屈めて彼女の瞳を覗き込む。

 そのまま顔を近づけた彼は恋幸のひたいに触れるだけの口付けを落とし、両手を移動させてその小さな体を強く抱きしめた。



「……くら、も、と、さ……」



 頬の熱が、思考回路まで溶かしてしまっているかのように錯覚する。

 恋幸の足元に置かれたままの包装紙が、カサリと小さく音を立てた。

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