第19編「ああ……本物だ」
恋幸には、わからないことだらけだった。
自分自身の気持ちはもちろん、裕一郎が今なにを考えているのか。どうして、
なぜ、抱きしめてくれたのか……全て、理解が追いつかない。
「……謝る必要なんてありませんよ」
やっと口を開いた裕一郎が落としたのはそんな言葉で、恋幸は反射的に「でも、」と言い返し少し体を離して彼の顔を仰ぎ見た。
自身を映す空色の
ぱちくりと
「……恋幸さん、泣かないで」
恋幸から見て右目下にある泣きぼくろ。
裕一郎は“そこ”にも一つキスを落としたあと、ちゅっと小さな音を立てて今だ目尻に滲む恋幸の涙に口付ける。
その『おかげ』と言うべきか、その『せい』と言うべきか。
先ほどまで恋幸の心を侵食していた真っ黒いモヤモヤは一瞬で消えてしまい、今はただバクバクと激しく主張する心臓の鼓動が耳の奥まで響いていた。
(し、下……下の名前で、呼んで……)
「……貴女をそこまで思い悩ませてしまって、すみません。私のせいです」
「ち、ちがっ……倉本様じゃなくて、」
私のせいです。
そう言いかけた恋幸の唇に裕一郎は自身の人差し指を軽く押し当てて、その先の言葉を封じてしまう。
ずるい、ずるい。そうやってドキドキさせて、私に何も言えなくさせるんだ。
そんな考えが“また”恋幸の顔に出てしまっていたのか、裕一郎は「ふ」と小さく息を吐いてほんの少しだけ表情を和らげる。
「……私のせいですよ」
長くしなやかな指の背が恋幸の頬をするりと撫でて、
「もっと……早く、言っておけばよかったですね」
ガラス細工に触れるかのような手つきで彼女の輪郭をなぞり、耳たぶに優しく触れた。
「……なに、を……ですか……?」
「色んな事を、です。私は……貴女に出会う前から、貴女のことを知っていたんです。そして、」
裕一郎の大きな両手が、恋幸の頬を包み込む。
「あの日、あの店で貴女に出会うよりずっと昔から……私は、貴女のことが好きでした」
「……え……?」
「小日向さん、私は……夢の中で貴女に出会って、一目惚れしました。そう言ったら、貴女は……気持ち悪いと、思いますか?」
まるでお
しかしそれは決して「信じられない」や「気持ち悪い」というネガティブな理由ではなく、彼の言葉に対しても恋幸は動かせる範囲で首を横に振る。
「気持ち悪い、とか、そんなこと思いません……! だって、それは、」
――……きっと、貴方が
直前で言葉を飲み込み唇を引き結んだ恋幸を見て、裕一郎はくすりと小さく笑った。
表情こそ変化していないものの、黒縁眼鏡のレンズ越しに恋幸を映す空色の瞳はひどく優しい眼差しを彼女に向けている。
「……小日向さんに初めて夢で出会ったのは、小学校に上がったばかりの時でした」
裕一郎は恋幸の頬から両手を離し、そのまま自分の方へ抱き寄せて彼女の頭を撫でながら言葉を続けた。
「と、言っても……所詮、夢は夢です。中学へ上がる頃には『夢の中で見た女性は、この世に存在しない。想い続けるだけ無駄だ』と理解して……勉強に没頭したり、他の女性と仲良くしてみたり。自分なりに、忘れようとしました」
そう語る彼の声はひどく穏やかな音をしていて、恋幸は今、裕一郎がどんな表情をしているのか気になってしまう。
「あの日……初めて、小日向さんに出会った時。何年も想い焦がれた“夢の中の女性”が目の前にいることが、とても信じられませんでした。結婚してくださいと言われた時も、私の幻聴ではないだろうか? と自分の耳を疑いました」
「で、でも……お断りします、って……」
「言ったでしょう? まずは、お互いのことを深く知るべきだと。それは本心です。……貴女から『前世』の話を聞いて、全ての事に合点がいきました。同時に……これは、運命だ。生まれて初めて、そんな風に思ったんです。ただ貴女という存在が、目の前に
そこで言葉を切った裕一郎は恋幸からゆっくりと体を離し、彼女の両手をそっとすくいとった。
「小日向さんがこれから先も私の手の届く場所に居てくれるのなら、どんな理由でも構いません」
「……っ、倉本、さま……」
「……やっと、本物の貴女に言える。……好きです」
「……っ、」
感極まった恋幸は、本能に身を任せて勢いよく裕一郎に抱きつく。
彼はそんな彼女を両腕で抱き留めながらその場に寝転がり、恋幸の長い髪を指で
「わた、っし……私も、好きです……ひっく……倉本様のことが、好き……っ」
「……ええ、知っていますよ。ずっと、顔に出ていましたから」
自身に馬乗りになったまま再び涙する恋幸の目尻に口づけようと、裕一郎が首を持ち上げた――……その時。
「裕一郎様、星川です。失礼しますね」
恋幸が止める間もなく部屋の
「本日のお夕飯、は……きゃっ! あら……?! まあ、ごめんなさい……!」
「……いいえ、こちらこそ」
(……ひゃあ……)
ああどうか彼女が10秒後には今見たことを全て忘れていますように。
裕一郎の上に乗ったまま、恋幸はひたすら神に願うばかりだった。
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