宿の豪勢な夕食をお腹一杯に食べた後、のんびりと過ごしていた。

 私はゆっくりとした時間を満喫しているように見せかけて刻々と迫るあの時間に備え、枕を手元に置いて部屋の角で臨戦態勢を取っていた。

 それはお父さんとお母さんも一緒で手の届く範囲に枕があり、お互いを警戒し合っている。

 お父さんと目が合うと「おやおや何かね?」と言いたげにニッコリと微笑み、お母さんと目が合うと「あらあら何かしら?」と上目遣いで微笑んでいた。

 現地時間二十一時フタヒトマルマル

 お父さんのスマホからワーグナーの「ワルキューレ」が流れ出す。

 開戦の合図である。

 皆枕を手に取って立ち上がる。

 先に動いたのはお父さんだった。

 投手のように振りかぶって投げた枕は、轟音を響かせてまっすぐにこちらへ飛んで来た。

 枕は私の頬をかすめた。危うく直撃を受ける所だったけど何とか躱せた。

 反撃に出る。

 目一杯投げた枕はお父さんに難なくキャッチされた。

 お父さんはニヤリと笑う。

 女の力では通用しないようだ。

 お母さんはお父さんの死角をついて枕を投げたけどそれも簡単にキャッチされた。

「お前達の力はそんなものか? 見せてくれよ、お前達の本気をな!」

  お父さんはまるでラスボスのようなセリフを吐いた。

 お父さんは私とお母さんへ枕を投げ返した。

 枕をキャッチしたけどずしりと重い。

 一人で戦うのはジリ貧だ。

 お母さんへ「一緒に戦おう」とアイサインを送る。

 お母さんとは私の意図を理解して頷いた。

 ここに共同戦線が形成される。

 お父さんを倒すには挟み撃ちしかないと思った。

 私がお父さんの前に立ち、お母さんはお父さんの背後に立ち、前後に挟み込む。

「ほほう挟撃か‥‥‥そのような生兵法がこの父さんに通用すると思っているのか?」

「そうやって余裕でいられるのは今の内よお父さん、お母さんとの連携で倒す!」

「あなたはまだ私の真の力を知らない。そしてそれを知った時はあなたは大地を舐める事になるわ!」

「ならば来い、お前達をねじ伏せてやる‥‥‥」

「行くよお母さん!」

「任せて恵!」

 私とお母さんがタイミングを合わせて投げた枕はあっさりと避けられた。

 しゃがんでいるお父さんはどや顔をしていた。

 けれど私達にとって最大のチャンスでもあった。

 私とお母さんは前進しながら枕をキャッチして高く飛び上がった。 

 推進力と角度つけた攻撃「エアK&K(エアけい&エア母さん)」を繰り出す。

「痛っ!」

 枕はしゃがんでいたお父さんの頭と腰に命中した。

 お父さんは急に息を乱し、よつん這いになった。

 私とお母さんはお父さんへ駆け寄る。

「お父さん大丈夫?」

「はぁ、はぁ、はぁ、あぁ大丈夫だ‥‥‥いやぁ参ったよ、降参だ。やっぱり病人にはキツイな。少し早いがパジャマトークにしようか。悪いが二人とも手を貸してくれないか」

 お父さんを支えて布団まで歩いた。

 部屋の灯りを間接照明にして布団に入る。

 私はお父さんの右側の布団に入りお母さんは左側に入った。

 お父さんは話しを始める前に咳払いをした。

 私は少し薄暗い中でお父さんの横顔をじっと眺めていた。

「こうして家族揃って同じ部屋で寝るなんていつぶりだろうか母さん?」

「そうね‥‥‥恵が小学校の頃かしら」

「そんな前になるのか‥‥‥恵に話すのは初めてになるが、父さんと母さんの間にはなかなか子供が出来なくてな、子宝神社でお参りに行ったり、不妊治療を受けたり、やれる事は何でもやったがそれでも出来なかったんだ。そんな中で恵が生まれてくれた。嬉しかった。ようやく生まれてきた娘は神様からの授かり物だから「恵」と名付けたんだ」

 私の知らない過去が次々と語られる。

 名前の由来がお父さんとお母さんの不妊に関係してるとは思わなかった。

 私は望まれて生まれて来たんだと知り心が温かくなった。

 その余韻に浸る私を置き去りにお父さんの話を続く。

「恵との思い出は沢山あるんだ。例えば生まれてから初めて抱いた時は涙を流して喜んだし、初めて『パパ』と呼んでくれた時は飛び跳ねて喜んだなぁ。後はだな‥‥‥母さん、大喧嘩したあの日の事を覚えているかい?」

「ええ、録画がされて無かったという下らない理由で喧嘩したアレね」

「今までにない大喧嘩だったけど、五歳の恵が『喧嘩は駄目、家族は仲良し仲直り』なんて言って私達を仲裁する恵は可愛かったよ」

「私も恵に癒されたわねぇ」

「小学校に入って成長していくに連れ、恵は父さんから離れて行った。同僚から聞かされてはいたけど淋しかったなぁ。だから不安になり心配になった。父さんの知らない所で悪い友達の影響は受けてないか、悪い男に騙されて‥‥‥何だその、貞操を奪われてないとか心配をしたらキリがなかった。恵が酷い目に遭ったり道を誤らないように厳しく接しきた。恵には嫌な父さんだったかもしれないが恵の為を思っての事だったんだ。もし傷付けてしまっていたらすまない。ごめんな恵」

「無かったとは言わないけど、もう気にしてないから大丈夫。だからお父さんも気にしないでね」

「ありがとう恵。それと母さん、いや幸子、こんな甲斐性なしの私に愚痴を溢さずついて来てくれてありがとう。幸子と結婚出来て世界一の幸せ者だったよ」

「ふふふっ、貴方の知らない所で愚痴を言ってストレスを解消していたから平気よ」

「え、そうなの?」

「だから気になさらずに。私も貴方と結婚出来て幸せでしたよ。甲斐性なしなんかじゃなくて素敵な旦那様でありましたわ」

「そう言って貰えると助かるよ‥‥‥話は変わるが父さんが、なぜ紫陽花の咲く宿を選び、何で枕投げをしたかったのかを聴いて欲しい。皆は紫陽花の花言葉は知っているか?」

 お父さんは私とお母さんの顔を見て答えを知らない事を確認してから話を続けた。

「紫陽花は花言葉は色々あるが家族や団らんとか言われている。なんでも寄り添い合うように咲いている姿が理由らしい。父さんはそれを知ってから紫陽花が好きになった。だからこの宿を選んだ。紫陽花が綺麗なこの宿で恵とお母さんとの思い出を作りたかったんだ。それと枕投げだけどな、父さんは敢えて悪役になった。恵とお母さんは協力して父さんを倒して貰いたかったからだ。これから先は父さん無しで二人で協力して生きていかなくてはならない。きっとどんな困難も二人一緒に頑張れば大丈夫だから」

「お父さんからそんな弱音は聞きたくない、まだまだ生きられるよ」

「そうよ、恵の言う通りで縁起でもないわ」

「‥‥‥父さんの命はもう僅かだ。だから生きている間には言っておきたい。俺達家族も紫陽花のようであって欲しい。家族で寄り添って生きて欲しい。いつも一緒なら何があっても平気なはずだ。恵はいつか結婚して子供を生む。紫陽花のように家族を増やして幸せになってくれ。幸子が淋しがらないように孫に囲まれた幸せな生活を送ってくれよな。父さんのいのちは枯れ落ちようとも新たに咲く花々がお前達を幸せにしてくれるはずだからな。恵、生まれて来てくれてありがとう、幸子、結婚してくれてありがとう。何度も言うが父さんは本当に幸せだった。だから天国からお前達を眺めているぞ。世界で一番綺麗な紫陽花であってくれ。でもな‥‥‥恵のウェディングドレス姿をこの目で見れないのが残念だ」

 お父さんは声を詰まらせた。

 悔しさを滲ませている。

 やり残した事が沢山あるに違いない。

 まだ「生きたい」そんな気持ちが伝わってきた。

 私もお母さんもまだまだ生きていて欲しいと願っている。

 けれど運命には逆らえないから無情だ。

 薄暗い静かな部屋でお母さんが啜り泣く。それがスイッチになって我慢してきた私も耐えきれずに啜り泣く。

 お父さんは咽び泣いていた。

「死にたくない、まだ死にたくないんだ‥‥‥もっと生きていたい」

 私はお父さんに抱き寄せられた。

 腕が背中を強く優しく締め付けてくる。

 そして腰には細腕が絡み付きた。

 それはお母さんの腕だった。

 私達はお父さん挟んで抱き締め合った。

 夜が深まる静かな山宿の一室で枕を涙雨に濡らしながら、鳥の囀りが聞こえる時間まで紫陽花のように寄り添っていた。


 あれだけ泣いた後だから朝ごはんは進まない。

 お母さんは笑顔でいるけど目が赤い。

 けれどお父さんだけ穏やかで透き通るような笑顔だった。

 何だかこのまま直ぐに消えてしまいそうで怖かった。

 身支度を整えてロビーへ。

 チェックアウトの手続きを済ませた私達を女将さんがわざわざお見送りに来てくれた。

「ご宿泊ありがとうございました野崎様。また皆様揃ってのお越しを心よりお待ちしています」

 私達家族にとって女将さんの言葉は余りにも残酷だった。

 悪意がないのは分かっている。

 家族しか知らない事情だから仕方がない。

 でも簡単には割りきれる物でもない。

 お父さんとの旅行がこれで最後だと思うと目が熱くなり心が痛くなる。

 お母さんはハンカチで目を拭っていた。

 女将さんは私達家族へ失言したと気付いたようだ。

 何かを違う話題で雰囲気を変えようと試みるものの、何も言えずに言葉を飲み込んでしまい声には出せない。それを何度も繰り返していた。

 沈黙が続き空気がどんどん重くなっていく。

「パンッ」

 突然乾いた音が鳴り響いた。

 お父さんの手を叩く音だった。

「ああ、何でそれに気が付かなかったんだろう。良いね、それい良いね、また家族揃って来ようよ。来年も再来年もずっとずっとずっとだ。女将さん来年も三名で予約できますか?」

「ええ、はい、大丈夫です。ご予約ありがとうございます。来年のお越しをお待ちしております‥‥‥申し訳御座いません、本当にありがとうございます‥‥‥」

「いいえこちらこそ、女将さんのおかげでまた新たな夢ができました。病気になんか負けてられないな。奇跡を起こしてやるさ。よーし、どうせなら恵の結婚式に出席するまでは死ねないな!」

 お父さんは勝ち気に笑って空気を変えた。

 その笑顔は私達を救ってくれた。

 それにしてもお父さんのその自信はどこから来るのだろうか。お父さんの寿命は延びたりしないのに。

 けれどその元気で強気な笑顔が本当に奇跡を起こしてくれるんじゃないかって期待せずにはいられなかった。

「さぁ恵、母さん、家に帰ろう。来年のこの日の為に最善を尽くさなくちゃな。二人も色々と協力してくれよな!」

「ええ、そうね父さん、体に良い食事を作らなきゃね」

「ありがとう母さん」

「お父さん、毎日散歩して体力をつけよう。私も一緒に歩くよ」 

「ありがとう恵」

「あ、あのう野崎様‥‥‥改めて皆様のお越しをお待ちしております」

「ええ必ず」

 私達は女将さんとの挨拶を済ませ送迎車で駅まで送って貰った。

 帰りの新幹線は行きと違いお父さんはずっと眠っていた。

 多分疲れたんだと思う。

 お父さんの寝顔はとても満ち足りていて幸せそうに見えた。

 

 旅行から帰ってきてから三日後、お父さんの様態は急変して緊急入院することになった。

 日を追うごとに病状は悪化していき会話も難しくなり、医師からはもう長くは無いと言われた。

 私は受け入れたくはなかった。

 来年もお父さんと一緒に旅行へ行くし、結婚式まで死なないと言ったお父さんの言葉を信じて奇跡を願った。

 けれど現実は甘くはなかった。

 お父さんの最後の時は迫り、混濁する意識の中で私の手を握り締めて呟いた。

「恵、幸子、あじ‥‥‥の前で‥‥‥いる」

「お父さんしっかりして、どうしたの、何が言いたいの?」

「‥‥‥」

 神様はお父さんが答えるまでの時間を与えてはくれなかった。

 言いかけの言葉が最後になった。

 梅雨は開けて紫陽花から蓮の花へ咲き変わる頃、お父さんは私達に看取られながら天国へ旅立った。

 野崎孝雄、享年四十九歳。

 お父さんは私とお母さんを残して紫陽花いのちを散らした。


    *    *


 お父さんが亡くなってから十年が経った。

 私はあの旅行をきっかけに歴史の教師となり、同じ職場で働く男性教師の宏さんと結婚して娘の希を儲けた。

 その希は三歳となり、お腹の中には新たな命を宿していた。

 今年も梅雨が来た。

 私達は母を含めて四人で、かつてお父さんと訪れたあの旅館に泊まりに来ていた。

 お父さんを喪ってからも紫陽花が咲くこの季節に毎年欠かす事なく家族旅行をしていた。

 ロビーに入ると女将さんがお出迎えしてくれた。

「お足元が悪い中お越し下さりありがとうございます野崎様。本日は孝雄様も含めて五名様でよろしいですね?」

「お久しぶりですね女将さん。今日はお父さんを入れた五人でお願いします」

 私が答えると女将さんは私のお腹をまじまじと見た。

「あら恵さん‥‥‥少しお腹がふっくらされてますね。ひょっとしてお二人目で御座いすか?」

「ええ、来年はもう一人増えて六人で泊まりに来ますね」

「それはおめでとうござます。身重で御座いましたら早速チェックインしてお体を休ませないと‥‥‥あぁ失礼しました。先ずは中庭で記念写真を済ませておきましょうか」

 女将さんに案内され中庭へ移動する。

 白髪が目立つようになったけど、相変わらず美しい立ち振舞いについつい見惚れてしまう。

 私もいつかあんな素敵な歳の取り方をしたいと、女将さんの後ろ姿を眺めながら思った。

「さあ皆様、紫陽花の前に立って下さい」

 お母さんは空を眺めながらぼやいた。

「あーあ、やっぱり今年も雨なのね‥‥‥傘を差したままの記念写真は残念だわ」

「仕方ないじゃないお母さん、だって梅雨時の旅行なんですから。でもそのおかげで紫陽花が綺麗に咲いているじゃないの」

「そうね、お父さんの好きな紫陽花が今年もたくさん咲いていて嬉しいわ。お父さんも見てるかしらねぇ」

「さぁお義母さん、僕たちの真ん中へ」

 宏さんの手を引かれてお母さんは真ん中へ、希はお母さんの足にぴったりと背を着けて立ち、宏さんはお母さんの右、私はお母さんの左に立った。

「さぁ皆さんもう少し寄って下さい。それでは撮りますよ‥‥‥三、二、一、ハイ‥‥‥綺麗に取れましたよ。さぁ皆様ロビーへ。ウェルカムドリンクをお飲みになってお待ち下さい」

 皆がロビーへ歩いて行く中で希だけ紫陽花の前から動こうとはしなかった。

「どうしたの希?」

 希は指をさした。

「じぃじ、じぃじ!」

 娘が指をさす方には誰もいない。

「希、そこにじぃじがいるの?」

「うん、じぃじ、じぃじがいるの!」

 私には何も見えない。

 けれど見える見えないなんて些細な問題でしかなかい。

 私は十年前のあの約束を思い出した。

「ひょっとしてお父さんも毎年欠かさずに来てくれたのかしら‥‥‥ありがとう。そうか、お父さんが最後に伝えたかった言葉が今になって分かった気がする。気付くのが遅くなってごめんね」

 下瞼に溜まりつつある涙を人差し指で拭う。

 私は娘の言葉を信じて、そこに居るであろうお父さんへ問いかける。

紫陽花かぞくが増えて随分と賑かになって来ましたよ。ねぇお父さん、私達は綺麗に咲いていますか?」

 目を閉じて耳を澄ませる。

 降る雨の傘を叩く音、降る雨の紫陽花を叩く音、降る雨の大地を叩く音、聞こえて来る様々な雨音の中からお父さんの声を探した。


 《了》

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思い出の終活旅行 紫陽花の前で君を待つ 平野水面 @minamo1582

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