私も変わった。

 お父さんと過ごす日々が掛け替えのない物に思えるようになり、以前と比べて積極的にお父さんと関わるようになった。

 例えば一緒に買い物や散歩に出かけるようになったり、家にいる時は自室ではなくお父さんのいるリビングで同じテレビや映画を見る時間が増えた。

 そんなある日の夕食後、お父さんはリビングのテーブルに旅行雑誌を開いて興奮気味に言った。

「皆で旅行に行こう!」

 突然の提案だった。

 呆気にとられる私に尚も熱く説得をしてきた。

「ここの旅館はな、今が旬な温泉旅館でな、庭園に綺麗な紫陽花が咲いているんだよ。ちょうど見頃だから皆で行こう!」

 私達家族が遠出するのはお爺ちゃんとお婆ちゃんの家へ行くぐらいもので、家族で旅行に行った事は一度もなかった。

「旅行って楽しい?」

「旅行は楽しいぞ。行ってみないか? 母さんも行きたいよな?」

「そうね、新婚旅行以来ずっと行ってなかったわね。皆で行きましょうよ、是非とも行きましょう!」

「そうだね‥‥‥これが最初で最後の家族旅行になるかもだし」

 お父さんとお母さんのは「パチン」とハイタッチをして喜んだ。

 もしかしたらだけど、お父さんの夢とは家族と行く旅行だったのかもしれない。

「それでお父さん、旅行の予定はいつなの?」

「‥‥‥明日行こう!」

「はあ? 明日? 準備は? 学校はどうするの?」

「サボれば良いじゃないか。風邪で休みますとか仮病ですとか、もっともらしい理由をつけてさぁ!」

「仮病は通用しないから。普通の親は『学校を行きなさい』とは言うけど『学校をサボれ』とかは言わないよ」

「こら恵、お父さんのさぼれに従いなさい!」

「落ち着いてお母さん、叱り方がおかしいから。でもいきなり明日って言われても準備とか出来てるの?」

 お母さんは一旦リビングを出て直ぐに戻ってきた。

 持っていた三つの鞄をドサッと床に置いた。

「恵の分も含めて荷造りは完了よ。それと旅館の要約はもう済ましてあるから問題なし。私達夫婦の旅行計画に抜りはないわ!」

 この夫婦が入念に練った旅行計画は一分の隙も無く完璧らしい。

「やり方が強引過ぎるけど‥‥‥まぁどうせ行くなら楽しまないとね。それで観光とかもあるの?」

 お父さんは旅行雑誌の下に隠していた書類を自慢気に見せてきた。

「えーとタイトルはこちら『お父さんと行く思い出の終活旅行』です。お父さんは毎日が日曜日だったので素晴らしい旅のしおりを作っていました」

 配られたしおりの最初のページを捲り当日の予定に目を通した。

 毎日暇だったわりには案外ざっくりとした予定だった。

 

 八時半 家を出発

 九時頃 新幹線で移動

 十ニ時頃 現地着

 十二時半 有名なうどんを食べる

 十三時 現地の観光スポットを巡る

 十六時 旅館着 

 十七時 入浴

 十八時 食事

 十九時 自由時間

 二十一時 枕投げ&パジャマトーク

 二十二時 就寝


「まるで修学旅行みたいだね‥‥‥て言うか枕投げとパジャマトークって本気なの。て言うか浴衣トークでしょ?」

「細かな違いくらいは許してくれよ。母さんはこういうのやってみたいよな」

「ええ、やってみたいわ父さん!」

「二人はもう大人でしょ?」

「父さんは三人で朝まで語り合いたいのです!」

「そうね、恵に彼氏がいるのか、いたならどこまで進んでいるのか気になるじゃない!」

「いや、父さんはそういう話は断固反対だ。どこの馬の骨とも分からぬ奴の恋愛話なんて父さんは聴きたくない、絶対に許さんぞ!」

「二人とも調子にノリ過ぎ。お父さんは気が早すぎ。て言うか私の恋愛話がOKならお父さんとお母さんの恋愛遍歴とか聞いても良いの?」

「駄目です!」

 そこは二人とも強く否定した。

 ツッコミ所が満載だけど空気の読めない私ではない。

 夫婦間の空気がおかしくなる前に退散する事にした。

「明日の旅行に備えて早めに休ませて貰うわ。おやすみなさい」

 両親に挨拶を済ませて自室へ戻った。


 上野発の東北新幹線の車窓は雨が降る都会から小雨に濡れる田園風景へ移って行った。

 お父さんは今日も元気一杯である。

 事情をしらない人がお父さんを見たらただの陽気なオジサンに映るはずだ。決して重い病気を患ってるようには見えないと思う。

 それにしてもお父さんの底抜けの明るさは修学旅行へ行く学生以上のノリで、そのテンションに合わせている私達は行きの新幹線で少しだけ疲れた。

 十二時過ぎに目的の駅に着いた。

 駅を出ると雨はあがっていた。

 私達は近くの飲食店に入りご当地グルメのうどんを堪能する。

 食が細くなっているはずのお父さんは一人前のうどんを残さず食べたから驚いた。

 無理してないか少し心配になる。

 案の定食べ過ぎたお父さんは「もう動けない」とお腹を擦りながら椅子から動こうとはしない。

 私はずぼらなお父さん手を引き、お母さんはお父さんの背を押し武家屋敷を目指して歩いた。

 予定より少し遅れて武家屋敷通りに入る。

 梅雨時の平日にも関わらず沢山の観光客で賑わっていた。人気の高さを伺える。

 武家屋敷通りを実際に歩いてみて感じた事は、旅番組で見たイメージと実際に見たイメージとではまるで違っていた。

 小さな区域にポツンと武家屋敷があるのだろうと思っていたけど、その想像とは桁違いのスケールである。

 黒板の塀と塀の内側からそり立つ大樹が道を挟んでずっと続いていた。壮観な眺めだった。

 まるで町がまるごとが武家屋敷で江戸時代にタイムスリップしてきたような感覚だった。

 こだけのポテンシャルを持った武家屋敷はテレビや雑誌に取り上げられて人気の観光スポットになるのも必然だと感じた。

 様々なお屋敷を歩いて回っていると、やがて大きくて立派な門のある武家屋敷に着いた。

「ここだな。ずっと前から一度は来てみたいと思ってたんだよ。さぁ中へ入ろう」

「ちょ、お父さん、そんなに慌てないで」

 今度はお父さんが私の手をグイグイと引っ張って門を潜り武家屋敷に入った。

 広大な敷地に沢山の施設があって全てを見て回った。

 私は正直歴史には興味がない。

 でもお父さんは展示物等を分かりやすく丁寧に解説してくれるので、歴史が苦手な私でも良さや面白さが少しだけ伝わってきた。

 これからはもう歴史の授業にも力を入れてみようと思った。

 一通り観光を終えた後は駅に戻り旅館の送迎車を待った。

 時間になって黒いミニバンが私達の前に止まった。

 車から笑顔が素敵な三十代くらいの男性が降りてきた。

「いらっしゃいませ、お荷物をお持ちします」

 私達の荷物軽々持ち上げ車のトランクに載せた。

 車は駅のロータリーを出て、市街地を通り抜けて田んぼ道を走っていた。

 都会育ちの私にはこの牧歌的な風景を見ていて飽きなかった。

 踏み切りを越えて山道に入った。

 景色は一変し木々に囲まれた林道を進んで行く。

 心なしか空気が美味しくなったような気がした。

 しばらく林道を走っていると舗装されていない道へと変わり車は速度を落として走った。

 人生において始めての悪路である。

 細い山道、ガタガタ上下に揺れる車、直ぐ横は崖になっていた。

 私は車が崖の下に落ちたりしないか急に不安になった。

 すると隣に座るお父さんの左手が私の右手を優しく握ってくれた。

 お父さんは何も言わずにニコリと笑う。

 たったそれだけの事だけど私の不安を取り除くには充分で、その気遣いと優しさに心の中で感謝した。

 駅から走って三十分くらい経った頃、ようやく林道を抜け開けた場所で車は止まった。

 車窓から見える温泉旅館は山奥にあるとは思えないくらいのシックでモダンな建物である。建物を覆う黒板の塀は武家屋敷通り連想させた。

 運転手は振り返る。

「着きましたお疲れさまです。皆様をフロントまでご案内致しますので、お足元をお気をつけになって着いて来て下さい」

 案内されて宿に入ると着物を来た四十前後の女性が待っていた。

「野崎様、当旅館へお越しくださいましてありがとうございます。私はこの旅館の女将でございます。これよりチェックインのお手続きをさせて頂きます。こちらの席にお座りになってお待ち下さい」

 椅子に座り、出されたドリンクを飲みながらエントランスとフロントロビーを眺めていた。

 私が抱いていた温泉旅館のイメージがあっさり吹き飛んでしまった。

 館内はヨーロピアンスタイルでテーブルとチェアはスタイリッシュでモダン、けれどアンティークにも見えるデザインは斬新。広い中庭に目を向けると洋風を基調としているけど和風の要素もしっかりある。和と洋の調和がバランス良くとれていた。

「お洒落でキレイね‥‥‥あっ、お父さんが言っていた紫陽花ってあれね?」

「ああ、中庭に咲く紫陽花がとても綺麗だよな」

「うん、私この旅館が気に入ったかも!」

 私のテンションがグッと上がった。

 そんな私を見たお父さんとお母さんは嬉しそうに微笑んでいた。

 チェックインを済ませて案内された部屋を見て「わあ」と声を上げる。

 室内のインテリアもヨーロッパ風である。外には露天風呂があった。

 この部屋は露天風呂付き客室だった。

 自然豊かな景色を眺めながら温泉に浸かったら最高だと思う。

「夕食まで時間があるし中庭の紫陽花の前で記念写真を撮ろう」

 お父さんの提案にのって部屋を出てロビーから中庭に出る。

 お父さんの自撮りの準備を終えると私達は紫陽花の前で並ぶ。

 私を真ん中して右はお父さん、左はお母さんが立った。

「カシャ」

 静かな庭園にシャッターが響いた。

 お父さんはスマホの画像を確認する。

「よしOK。部屋に戻って皆で露天風 呂に入ろうか」

「え‥‥‥皆でって私も一緒に入るの?」

「三人で一緒に入るぞ‥‥‥まぁ無理にとは言わないけど」

「‥‥‥平気、大丈夫、平気だよ」

 そうは言ったものの正直とても恥ずかしい。

 でもお父さんがそれを望むなら少し頑張うと思った。

 部屋に戻るとお母さんは直ぐに服を脱いであっという間に裸になった。

 一緒にお風呂に入ってたのは小学校の高学年まで。私の記憶はそこで止まっているので、脳内に残る当時のお母さんの裸と今のお母さんの裸を見比べた。

 私から一つだけ言える事は


 ――アイザック・ニュートンには逆らえない


 である。

「ほら、恵も早く脱ぎなさい。先に入っているわよ!」

 お母さんはもう待ちきれなかったみたいで速攻で体を洗い湯船に浸かった。

 恥ずかしいけど服を脱ぐ。

 上着とスカートを脱いでブラのホックを外そうとした時に背中に視線を感じた。

 振り向いて確認するまでもなく犯人は間違いなくお父さんである。

 気付かないフリをしてブラを外しショーツを脱いだ。

 見られたら恥ずかしい部分を隠しながらお父さんとは目を合わさずに外に出て体を洗い始める。

「よし、お父さんも脱ぐぞ!」

 裸を見られるのも恥ずかしいけど、お父さんの裸を見るのはもっと恥ずかしくて直視できる自信はない。

 私は男の子じゃないから分からないけど、男の人のアレって年をとっても形や大きさは変わらないと思っている。

 だから私の記憶が正しければお父さんなアレはビッグサイズだったような気がする。

 バスチェアに座りシャワーで体を洗っているとお父さんが背後に立っているのが分かった。

「ちょっとお父さん、私が洗い終えるまで向こうで待っててよ。色々と恥ずかしいから‥‥‥」

「実はな、恵に背中を流して欲しい。体を洗い終わって後で良いから頼むよ」

「ああ‥‥‥まぁ良いけど‥‥‥」

 ささっと体を洗ってからバスチェアを譲ろうと立ち上がった時にお父さんの体を見て思わず息を飲む。

 私は恥じた。

 裸を見る見られるの目先の事を気にし過ぎて肝心な事を忘れていた。

 お父さんの体から視線を逸らさしてはいけないと悟る。

 目の前にある厳しい現実をこの目に焼き映す。

 お父さんの体に残る手術跡、ミイラ一歩手前のガリガリになった体、余命がもう僅かであると物語っていた。

 お父さんはバスチェアに座り背中を向ける。

 肋骨と背骨が浮き出ていた。

「恵、背中を流してくれ」

「うん」

 タオルにボディーソープをつけて丁寧に優しく洗う。

「お父さん‥‥‥痛くない?」

「丁度良いよ」

「私がまだ幼かった頃はさぁ、お父さんの背中はとっても大きいと思っていたけど、何か小さくなったような気がする‥‥‥病気のせいで痩せちゃったのね」

「お父さんは病気のせいで確かに痩せた。だがそれだけが原因で体が小さく見えている訳じゃないぞ」

「何なの?」

 お父さんは振り向いて私の体をじっと見た。

「若い頃の母さんに似てきたな。立派な大人に近づきつつあるな。もう十年たてばスタイル抜群のボン、キュ、ボンの素敵な大人の女性になるだろうな。もしそうなったらきっと――」

「茶化さないでちゃんと答えてよ!」

 私は怒った。

 お父さんを心配したのが馬鹿らしくなった。

「ねぇ恵、今言ったそれが父さんの答えなのよ」

 突然お母さんが会話に入ってきた。

 私はお母さんに突っかかる。

「ボン、キュ、ボンのどこがよ、ただの下ネタじゃん!」

 お母さんは口を押さえて笑っている。

 どうも不正解らしい。

「ねぇお父さん答えを教えてよ」

「恵が立派に成長したって証なんだよ。恵が大きくなったから父さんが小さく見えるのさ。もう十年経って恵が成熟した大人になったその時は、目に映る父さんはさらに小さく見えてくるはずだよ。まぁ父さんはそんなには生きられないからな、これ以上小さくなる姿を見せられないのが残念だがな‥‥‥ありがとう、後は自分で洗うから温泉に入りない」

 お父さんが言いたい事を理解できた。

 少し硫黄の香る温泉に浸かりながらお父さんをじっと見る。

 目を閉じて何度も頭を洗い、時間をかけてシャワーで入念にすすいだ。

 見開いた目は赤かい。

 目にシャンプーが入ったのか、それとも違う理由なのかはお父さんにしか分からないけど、唇を噛む姿から多分後者なんだと思う。

「降り出したわね‥‥‥雨」

 振り向くとお母さんは湯船に凭れながら空を見つめていた。

 低い灰色の雲から降り始めた雨が露天風呂の湯にポツポツと落ちて波紋を作る。

 私は呆然と広がる波紋を眺めていた。

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