お父さんの衝撃的な告白から一週間、我が家は何も変わっていない。

 いや、変わったとも言える。

 ちょっと意味が分からない事を言っているけど、父さんとお母さんの仲が良すぎるのだ。

 まぁ何と言うか簡単に説明すると、歳の離れた弟か妹が出来そうな勢いである。

 うーん、まぁ、つまりは夜のアレの声がうるさくて睡眠不足なのである。

 朝ごはんを食べ終えてから、食器を洗いをしているお母さんにそれとなく注意をした。

 けれどお父さんが天国へ逝ってしまう前にお母さんの方が極楽にイッタようでデレデレ返答だった。

「だってだってぇ、お父さんったら急に遺伝子を残したいって言うから。あんなに求められたら断れないわよぉ。私はね‥‥‥久しぶりに女になった気分なの!」

 女を謳歌しているお母さんに説得は難しいようだ。

 それならお父さんを注意しよう‥‥‥とはならない。

 女の私から夜のお勤めを注意するのは絶対にあり得ないし恥ずかしい。だから却下である。

 チラリとお父さんの様子を窺う。

 いつも通り明るい。

 とう言うよりも寧ろ馬鹿っぽい。

 毎晩ヤリ過ぎて浮かれているのだろうか。

 あんなにニコニコしているお父さんを見ると間近に死が迫った人には見えない。

 結局「夜のアレの声問題」は解決しないまま学校へ行く時間になった。

「行ってきまーす」

「おう、行ってらっシャイガール。なんてな違うか、ちょっとスベって恥ずかしいシャイボーイ!」

 お父さんはスベりまくりの親父ギャグを言った。

 椅子に座ったままで顔を両手で覆い、足をバタバタさせて恥ずかしがっている。

 多分シャイボーイとスベって恥ずかしいを掛けたのだと思うけど、一連の動きがとてもキモい。

 お父さんのギャグにツッコミを入れずに家を出た。


    *    *


 四限目の終わり告げるチャイムが鳴り昼休みになった。

 私は友達と三人でいつもの様に机をくっつけてお弁当を食べていた。

 ツイテールの髪の友達が愚痴を溢した。

「あのクソ親父ムカつくわぁ、何でもかんでも干渉してきて、いちいち文句を言ってくる。マジでウザイ」

「ああ、分かる分かる」

 もう一人のショートボブの子も同調して頷いた。

 まぁこれくらいはよくある女子高生の日常である。

 きっといつもの私なら同調していたと思う。

 でもお父さんの余命が僅かだと知っている私としては共感は出来ない。

 お父さんの死をいまいち実感できてないけど、同級生との何気ない会話から「父親の死」を意識させられた。

 私は友達に聞いてみた。

「もし本当にお父さんが死んだらどうする?」

「別にいなくなっても困らないし」

 ツイテールの子はあっさりと答えた。

「むしろ消えて欲しいかも」

 ショートボブの子にいたっては甲高い声で笑っていた。

「そんな事はないでしょ。だってお父さんの収入が減れば進学が出来ないし、ひょっとしたら高校も通えなくなる。そしたら皆とお別れになっちゃうかもだよ?」 

「心配ないって、多分保険金とか出るから大丈夫じゃない。そのお金でお母さんと妹の三人で遊園地に行こうかな。恵も一緒にどう?」

 ショートボブの子は悪びれた様子もなく笑顔で答えた。

 私は二人のふざけた態度が許せなかった。

「ねぇ人が生きるって何なの? ねぇ人が死ぬって何なの? ねぇ家族だよね? 死んでいなくなったら悪口だって言えなくなるんだよ。確かにお父さんは文句ばかり言う生き物だけど、ひょっとしたら私達の事を思って言っているかもしれないじゃん。死んで良いとか、居なくなれとか言うのは違うと思う!」

 力任せに机の上を叩いた。

 なぜかは分からないけど悔しかった。

 なぜかは分からないけど怒りが込み上げてきた。

 なぜかは分からないけど鞄を持って教室を飛び出して走り出していた。

 頭が真っ白になって行く当てもなく走り続けていたらいつの間に家に帰って来た。

 完全にやらかしてしまった。

 学校をサボってしまった。

 こんな時間に帰ったきた所を見られたらヤバい。

 誰にも気付かれない様にこっそりと家に入ろうとした。

「あれ恵、こんな早く帰って来てどうした?」

 庭の紫陽花の前に立つお父さんに見つかってしまった。

「ちょっと体調が悪くて‥‥‥」

「な、何だってーーーーッ、風邪か? 腹痛か? まさか『あの日』か? 今すぐに横になるんだ!」

 お父さんは私の手を引いて階段を上って行く。

 こうしてお父さんから手を握られたのは何年ぶりだろうか。

 小さい頃は「お父さん、お父さん」とあんなに甘えていたのに、私が成長するにつれお父さんとの距離は離れていった。

 私の記憶の中のお父さんの手は大きいはずだった。

 でも高校生になった私とそんなには変わらなくなっていた。

 少しだけ大人になったんだなぁとちょっぴりセンチメンタルになった。

 そんな私の気持ちも知らずに、お父さんは断りもせずに私の部屋に入った。

「今すぐ着替えよう、全部脱ぎなさい、お父さんが着替えさせてあげるから安心しなさい!」

 お父さんが言った「安心」が全く安心できない。

 とりあえず本棚の本を掴んでお父さんの顔面に目掛けて投げた。

 お父さんの顔面に本の背が直撃した。

 顔の中心に本の跡が縦一文字についた。

「ひ、酷いじゃないか。親切心から着替えさせようと思ったのに‥‥‥」

「親切心じゃなくて下心でしょ!」

「いや、違うんだ、高校生になった恵の成長の証をこの脳に刻んで冥土の土産にするという大義名分が‥‥‥」

 私は再び本を掴み、投手のようなダイナミックなフォームでお父さんの顔に目掛けて第二球を投げた。

 もちろんストライクでお父さんの顔の中心に本の背の跡が横一文字についた。

 お父さんの顔面に赤い十字架が現れたと同時にスローモーションのようにゆっくりと倒れていった。

「変態なお父さんなんてそのまま――」

 私は迂闊にもお父さんへ「死んじゃえ」言いかけた。

 きっと前の私なら躊躇ためらいもなく言っていた。

 でもお父さんの命が残り僅かだと知っていたから言わずに済んだ。

 お父さんはムクリと体を起こす。

「どうした急に大人しくなって。やっぱり体調が悪いのか?」

「着替えるから出ていってよ」

「‥‥‥そうだったなドアの外にいるから何かあったら何でも言ってくれ」

「‥‥‥心配してくれてありがとう」

 お父さんは部屋を出た。

 制服から部屋着へ着替えながらお父さんに質問した。

「お父さんは少し変だよ。何でそんなに毎日を明るく過ごせるの?」

 お父さんが答えるまで妙な間が空いた。

 声色が怖かった頃のお父さんに近かった。

「‥‥‥入院中ずっと考えていたんだ」

「何を?」

「余命宣告を受けたその日から残された時間をどう過ごしてどう生きようかと。父さんはな、自分の為ではなく母さんや恵の為に身を粉にして働いてきた。まぁ稼ぎ頭なんだから当然だが。でも少しは自分の為に何かしたいなって思ったが父さんは趣味とか無いだろ。ならどうしようかって考えたら、残された人生を家族と共に過ごしたいと思ったから役所を辞めた。家族とこうして過ごせる事が楽しくて自然とテンション孝雄さんになるんだよ」

「その寒い親父ギャグはさておき‥‥‥お父さん無理して明るく振る舞ってない? 辛くない? 悲しくない?」

「そんなのはとうに卒業した。入院中に一生分怒ったり泣いたりしたからもう平気だ。一生分だぞ、だから父さんに残された感情は喜怒哀楽の喜楽だけになったよ。これからは生まれ変わった新しい父さんをよろしくな」

 私の知らないお父さんがいる。

 いつも私を厳しく叱ってばかりのお父さんはいなくなっていた。

 人は何かを切っ掛けに変われるものだと知った。

 お父さんは残された僅かな時間を私やお母さんと過ごす為に変わったのだ。

 心の奥がゆっくりと温められていく。

 お父さんを尊敬し、愛おしく思えた。

 気づいたら部屋から飛び出してお父さんに胸に飛び込んでいた。

「お父さんごめんなさい。体調が悪いなんて嘘で本当は友達と色々あって学校サボっちゃった」

「そんな事で怒ったりしないから大丈夫。何とも無いなら良かったよ。友達と何があったかは知らないけど明日学校に行ったら仲直りすれば良いさ。恵にとってこれからの人生で長い付き合いになる友達かもしれないからな‥‥‥」

「うん、謝っておく」

「そ、それとだな、その何だ、娘が下着姿で父親に抱きつくのはどうかと思う‥‥‥」

 またやらかしてしまった。

 感情的になって下着姿のままお父さんに抱きついてしまった。

 凄く恥ずかしい。

 どうやってこれを収めたら良いか考えているけど何も浮かばない。ただ分かっているのは顔も耳も滅茶苦茶に熱いっていう事だった。

 お父さんもきっと恥ずかしがっているだろうと顔を見ると案外普通で、寧ろ穏やかな笑顔をしていた。

 それもそうだ、いくら私が下着姿だからといって娘に恥ずかしいとか興奮とかなんてする訳がないのだ。お父さんは紳士なのだ。

「恵‥‥‥随分大人になったじゃないか、オッパイがなかなか大きいぞ。父さんの体にとても柔らかい感触が伝わってくる。うーんこれは‥‥‥Dカップだな。それと尻の方は‥‥‥凄く柔らかいな!」

 舐めるように体をジロジロ見られて、撫でるようにお尻を触られた。

 さっきまで言ってた事を全て撤回しようと思う。

 尊敬できるような人でも愛するような人でもない。

 お父さんは娘の体に興奮してしまうような変態に生まれ変わったのだ。

 なぜかは分からないけどさっきよりも体が燃えるように熱くなった。

「お父さんは最低だよ、変態だよ、口と体が凄く臭いよ、本当に最低だよ!」

 私は衝動的かつ反射的にお父さんの左頬にビンタを喰らわしてやった。

 お父さんの顔には本によって出来た十文字の跡の他に、私が食らわしたビンタの跡が深く刻まれたのだった。


 夕飯になってお父さんの顔の腫れは治まったけど、私の怒りはまだ収まらない。

 なんとか冷静でいられるのは、私の大好きな唐揚げ様が食卓に並んでいるからだ。

 ちなみに今日の夕飯に唐揚げ様をリクエストしたのはお父さんだとお母さんから聞かされた。

 私の機嫌を取って点数を稼ごうと小賢しい真似をしてきた。

 本当はこのような子供騙しで機嫌を直したりするような安い女じゃないけど、我が国の誇るスーパー国民食の唐揚げ様の前で意地を張って食べないのは大変なご無礼にあたるので、ここは美味しそうに食べて機嫌が直ったフリをした。

 変態のお父さんの様子はいつもと変わらずに寒い親父ギャグを連発していた。

 少し気になっていたのはお父さんの皿に盛られた唐揚げ様が手付かずのままだった。

 すると心の声が聞こえてきた。

「今、貴女の脳に直接訴え掛けています。唐揚げ様を奪うのです、お父さんの唐揚げ様を奪って食べ――」

 心の声が言い終える前にお父さんの唐揚げ様を奪って食べていた。

 やっぱり唐揚げ様は最高に美味しい。

「食欲が無いからお父さんの分も食べて良いよ」

 私のお父さんの名誉を回復し、さらにランクアップして新たな称号を与える事にした。


 ――唐揚げ様をくれる優しい変態親父


 である。

 私が唐揚げ様を食べている間に、お父さんは飲み薬をテーブルに並べ始めた。

 私はその量に驚く。

 そしてようやく気付いた。

 お父さんは病気のせいで食欲が無い事に。

 それは今日に限った事ではない。

 昨日も一昨日もその前の日からずっと食が細かった事を思い出した。

「一度に飲む薬の量が多いんだね‥‥‥」

「延命するにはな」

 お父さんは優しく微笑む。

 でも何となくだけど、お父さんの笑顔からは儚さと脆さを感じていた。


 二十二時になる頃、ラインで今日の事を友達に謝った。

 友達の方も私の事を心配してくれていたようで悪くもないのに謝ってくれた。

 その心遣いが嬉しかった。

「ガタン、ギシギシ」

 大きな物音とした。

「か、母さん、もう駄目だ、もう限界だ、もうこのままイカせてくれ!」

「だ、駄目よ、もう少し頑張って、イクなんて言わずにもう少しだけ耐えて!」

 続いてお父さんとお母さんの大きな声が寝室から聞こえてくる。

 まだ夜のお勤めを始めるには少し早い。

 年頃の娘がいるんだからもう少し遠慮というものがあっても良いはずだ。それにしてもいつもよりもうるさい。

 気になって廊下に出てみると両親の寝室のドアが少しだけ開いていた。

「べ、別に興味がある訳じゃない、娘として二人に気付かれないようにそっとドアを閉めるだけ。その時に何が見えても‥‥‥ふ、不可抗力よ、うん、そうよ」

 私は小声で自分を言い聞かせて両親の寝室に近づきそっと覗いてみた。

 私が見たのは想像していた物とはかけ離れた光景だった。

 お父さんはパジャマを汗でびっしょりと濡らし、苦痛に顔を歪め胸を押さえていた。

 お母さんは泣きながらお父さんの背を擦り励ましていた。

「頑張って、負けたら駄目よ」

「俺はもう駄目だ、苦しい苦しい苦しい、殺せ、俺を殺してくれ」

「諦めないで、恵の為にも私の為にも。もう少しだけ頑張ってお願い。貴方には叶えたい夢があるんでしょ。それまで死んではいけないわ、生きて、生きてお願い!」

 壮絶だった。

 悲鳴を出さないように両手で口を覆った。

 ずっと勘違いしていた。

 今、目の前で繰り広げられている光景こそが我が家で起きている現実なのだ。

 確かにここには夫婦の愛がある。

 けれどそれは快楽ではなく、必死に地獄の苦しみを乗り越えようとする夫婦の愛の姿だった。

 そっとドアを閉じて自室へ戻った。

 ベッドの中へ潜り込み耳を塞いでもお父さんの悶える声が聞こえてくる。

 私は思い知らされた。

 お父さんの死期はもう直ぐ側まで迫っていた。

 

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