風に舞う

 どうしてこうなったのかわからない。

 いま、住友ビルの屋上にいて、西新宿のビル街から昇る朝日を眺めている。

 ひとりだ。

 シュンは、もういない。

 「ミルクを探してくる」と言って、戻ってこなかった。どこかへ行ってしまったのか、事故にでも遭ったのか。食パンの袋とソントンのジャム。それがあれば、何もいらない。いつもそう言っていたのに。

 また、ひとりだ。

 うちのなかは静かで、テレビだけが音を立てていたけれど、昨日からは、白い画面ばかりになった。音楽がずっと流れていて、優しい水のせせらぎのような素敵な音楽。

 赤ちゃんは、笑う笑う笑う。

 よく行く環七角のスーパーに、嘘みたいに粉ミルクが放置してあったから、無人の店から借りてきた。

 説明書きの通りに作って、飲んで、眠って、腕の中。柔らかい頬に頬をこすりつけて、柔らかな舌が触れるのを確かめて、言葉にならない声、まあるく開いた茶色の瞳に、その間のわずかに窪んだ眉間に口づけた。

「おはよう。ほら、陽が昇るよ」

 一生で一番きれいな朝焼けだった。大勢の人たちが、同じように風が吹き付ける屋上から、重い思いに太陽を眺めていた。そうして、無事、空へ上っていったのを確かめるように、あたりに朝日が降り注いで「今日」が始まると、それから。

 誰かが飛び降りた。フェンスを越えて、壊して、座った縁から、立ったまま、次々と消えていった。誰も、何も話さない。無言のまま、手を繋いだり、抱き合ったり、ひとりだったり、むかし授業で聞いたねずみの群れのように、次から次へと落ちて行く。

 風が噴き上げていた。すごい風だ。

 いましかない、と思った。

 あの子を両手を持って、できるだけ伸ばして、伸ばして、目を閉じて眠っているあの子を空へ還した。目を閉じて、頬に残る肌のやわらかさと、やさしい匂いをもう一度吸い込んで、手を離した。

「バイバイ」

 なんで、一緒じゃないんだろう。ずっと一緒にいればいいのに。

 すーっと消えて、点になって、そして空へ上って天使になって跳んでいく。

 飛ぶことは、ずっと人類の夢だったよね。

 でも、飛んだら、あとは落ちるだけ。

 産まれたら、死んでいく。

 死んだら、生まれない。

 生きるって、なんだろう。

 今さらながら手のひらを見て、指を動かして、腕の中の温もりと肌にふれた。

 見上げる瞳。透明な青い水のような目。

 いつか、うん、いつか──。


 その時、世界が鱗粉のように舞い上がった。天上から降りそそぐ鼓の音。あたしは、永遠に舞い続けた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天鼓の舞、開放円を描く 濱口 佳和 @hamakawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ