幻覚研究会 (「焔野与左衛門」異曲)
安良巻祐介
それは、僕が大学に入って二年目の夏が始まりだったと記憶する。
いや、明確な開始点は、正直に言ってよくわからない。なんだかその辺りのことは非常に曖昧だ。薄明に見た夢のディティールを思い出そうとする時のように。
それでも目印を一つ立てるとするならやはり、あの不思議なサークルが立ち上がった時がそれなのだろう。が、それがいつのことだったか、誰も記憶していない。
「彼」はいつの間にか会館に居た。
長いこと空き部屋になっていた、二階北東の隅の部屋に木の看板をかけて、どこから持ち込んだのかわからない沢山のお香や書物を砦のように並べて、部屋の中なのに帽子を深くかむり、椅子の上、パイプで青煙草を吹かしていた。
確かにその年に突然発足したものであった筈なのに、ともすれば何十年も前からそうだったような錯覚をしてしまう、あの「幻覚研究会」。
と言って、当時は、会館で起こっていた出来事のかずかずと、彼のサークルを結び付けるものは誰もいなかったのだが。
とにかくあの、絵巻物の夢のような、不可思議で幻想的な現象群は、妙に陽炎の多い、輪郭の定まらない夏から始まった――僕たちの会館は元々何となく、どこか浮足立ったような雰囲気があったが、あの夏、会館は確かに何かしらの志向性を以て、それまでと明らかに異なる異様な雰囲気を纏い、僕たちを惑わしたのだ。
おかしなサークルがいつの間にか幾つも発足して(「彼」のものもその一つだった)、何食わぬ顔で文化会に混じっていたり。
誰もいない喫煙所に、霧と見紛うような濃い煙が立って、建物の入り口を覆っていたり。
見上げた会館の窓が、増えたり、減ったり、或いは、閉鎖された棟の中に人がいるように見えたり。
各階の角のところで、女生徒が何かに出くわして気絶する事件が立て続けに起こったり。
廊下にも、見たこともないような気味の悪い絵がかけられていたり、壁いっぱいにおかしな広告が貼られて、離れてみるとそれが一つの顔になっていたり。
夜、ギターの音が響き渡るので音楽部が注意を受けたが彼らの仕業でなく、それどころか、今度は存在しないはずの和楽器の音までが、日がな一日、どこからか奏でられていたり。
やがてそれらの、仄めかすような、予兆や気配のかけらに過ぎないようなものはエスカレートし、はっきりした形を取って、其処此処に出没し始めた。
冗談としか思えぬような馬鹿らしい造形のものも、その中にはたくさんあったものだ。
結局のところ、僕たちは、学生丸ごとを巻き込んだ集団パニックのようなものに陥っていたのだと思う。
モラトリアムの怠惰と飽和が産む、連鎖的な騒擾と、撒き散らかされる風説と、そういうものが作り上げた共同幻覚。
しかし、不思議だったのは、それらの幻覚そのものではなく、そんな状態であったのに、会館に出入りする生徒は絶えず、それどころか、かえって、普段よりも人の数が多くなっていたことだ。
おまけに僕たちは、連発する奇妙な出来事の数々に、長い歴史を持つ「夜警制度」で以て対抗することを選んだ。
いや、ちゃんとした対抗手段になっていたのかは甚だ怪しいのだけれども、旧来の持ち回り制の夜の自警団が、いくらか呪術的・迷信的な数々の対策、僕たちなりの「武器」を行程に組み込まれて生まれ変わり、真面目に幾度も敢行されたのだ。
本来いの一番に思い至るべき外部の手を借りることはせず、僕たちは、幻覚やパニックと奇妙な共生関係、共謀関係を作り上げ、実におよそ一年の間、脅かされ、惑わされ、抗い、驚き、色々な事件を経験し続けた。
理性的な者はいくらでもいたのに、なぜか会館の新たな、異常な空間のルールのもとに組み込まれて、彼らもあくまでその中でのみ理性を発揮し、頭を捻っていたのだ。
そうしておいて、次の年の夏に、それらの関係や制度や状態は、幻覚と共に綺麗さっぱり消え去った。
僕たちは後遺症も残さず、元通りの日常に戻った。
幻覚の最後の気配が消えたその日、僕は、幻覚研究会を尋ね、「彼」の本名と、別れのあいさつを聞いた。
時代錯誤な巻き物の中に青い墨で記された「
そして。
僕は今、おかしな郷愁に駆られながら、この筆を執っている。
「いつか必ずまた来る」という彼の言葉を心のどこかで漠然と信じていたけれど、結局彼は姿を現さず、あれ以来、会館を怪異が覆うことは二度となかった。
だから僕は、薄明かりの中でまどろんだ夢の中身を思い起こすように、こうして筆を動かしながら、そっと心の中で、こう呟く。
「焔野与左衛門さん、またおいで!」
幻覚研究会 (「焔野与左衛門」異曲) 安良巻祐介 @aramaki88
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