5 人形劇 二幕
李来を救護室に残し、姫野ゆりこの研究室へと向かった令と真紀。令は襲われたという人形の有様をみて少なからず動揺した。想像していたものより、被害者がはるかに重傷だったからだ。
手術台に寝かされた人形は鎮静剤を投与されているにも関わらず、縛り付けられた台の上で泣きじゃくっていた。右の肩口から先と右の股関節から下をごっそりと失って、床には臭気で湯気の立ちそうな血だまりが広がっている。縫って塞がれた傷口から、湧き水のように血が零れ落ちていた。四人の人形たちが、治療と掃除にと忙しなく動き回っている。
令は一呼吸おいて、冷静に頭を切り替えると彼女たちを観察した。負傷した人形と、周囲の人形は五人すべてが同じ顔。輪郭に沿って赤い糸で縫われており、李来の口にした犯人の手掛かりと一致している。
「どういう状況なんだ、これは」
真紀は手術台を囲む人形のひとり、青い目をしたフランス人形のような女に問いかけた。それに答えたのは、椅子にもたれて血だらけでコーヒーを飲んでいた女。全身を黒衣で包まれ、顔の他は一部の隙もない。大きく瞳孔の広がった丸い目が印象的で、研究室にいた人間のうちで唯一違う顔をしている。この女が姫野ゆりこなのだろう、と令は直感した。
「あぁ、真紀チャン。助かったよ、来てくれたんだね」
「一体、どういうことなんだ?」
真紀は改めて姫野ゆりこに問い直した。
「見たままだよ。なんとか止血したけど、エッタが落ち着かなくて困っているの。あの子たち、麻酔に耐性出来ちゃっているから利きが悪くって。このままだとまた輸血しないと死んじゃう。真紀チャンなんとかしてぇ」
ゆりこは猫撫で声で、真紀にすり寄っておねだりする。真紀は服に血を付けられ、眉間の皺をさらに深くした。
「私が聞きたいのはそういうことじゃない。お前たちが――」
「真紀チャン、ダメだよ」
真紀の唇に指を立て、彼女の口を塞いだゆりこ。ただならぬ雰囲気の中、何事かを視線で交わし合った三年生たち。数秒の後、真紀が舌打ちをして手術台の方へと体を向けた。
「それで、あなたはどなた?」
部外者に対する不躾な視線にむっとした令。眉をひくつかせるも、平静を保って返事をする。
「稲生令、一年です。昨晩、同級生の柏李来が何者かに襲われ、耳を切られました。最後に柏と会っていたのがあなた方であり、柏の証言によると犯人は姫野ゆりこの研究グループのうち誰かである可能性が高いと判断しました。あなた方の昨晩の行動を聞かせてもらえませんか」
令は作業に当たる人形たちの方を向いて言葉を発する。しかし、人形たちは令の言葉など聞こえていないかのように、返事はおろか見向きもしない。
「あなたが李来のお友達さんの、令チャンかぁ。そっか、私の人形たちを疑っているんだね。でも、私のエッタも襲われたんだよ。犯人はどこかの不審者かも」
「エッタ? それが名前ですか? 本名じゃありませんよね」
令が聞き返すと、ゆりこが面倒そうに補足する。
「ヘンリエッタで、エッタ。本名は古賀善香。しょうがないな……ほら、みんな挨拶してあげて」
彼女が手を叩くと、人形たちは作業の手を一瞬だけ止めて、令の方を向き直り手短に挨拶をする。真紀によって強制的に眠らせられたヘンリエッタ――古賀善香を除く、四人がさゆりによって紹介される。令は李来の話にあった人形の特徴を呼び出し、脳内に簡略な対応表を作っていく。いかんせん顔と体格が同じなので、特徴をまとめようにも髪色程度にしか判別できる要素がない。
・ヘンリエッタ。本名、古賀善香。栗毛ボブ。右腕脚が生身、左腕脚が義肢。
・コッペリア。本名、金子円。金髪碧眼。四肢すべてが義肢。
・ペトルーシュカ。本名、高村光。白金色の髪。右腕脚が義肢、左腕脚が生身。
・イヴ。本名、山下慶子。ウェーブブロンド。右腕左脚が義肢、左腕右脚が生身。
・雛子。本名、六条院万里。黒髪ロング。右腕左脚が生身、左腕右脚が義肢。
対応表を脳内で視覚的なイメージとして眺めて、令は違和感を覚える。生身と義肢の部位が交互になっている点だ。偶然というには不自然で、意図的なものを感じ取っていた。令はそこに推理の糸口を見つけ、思考を巡らせ始める。
「詳しく昨晩の状況を聞かせてください。犯人はなぜ、李来の耳だけを切る必要があったのか。なぜ、切られた耳は切り刻まれていたのか。その点が気にかかっていましたが、他の人形が襲われたことで理由が見えてきました。被害者、ヘンリエッタ――古賀善香さんは、ちょうど生身の右側が切り落とされている。偶然にしては出来過ぎている。もしかすると、彼女の切り落とされた手足は、再び付け直すことができないほど傷付けられていたのではありませんか?」
「よくわかったね。エッタが倒れていた隣には、ぐちゃぐちゃになった肉片が落ちていたよ。枝打ちに使う腰鉈といっしょに」
示された冷凍保存用のビニル袋には、乱雑にぶつ切りにされた人間のスペアリブが入っている。血みどろになった鉈も、別個にわけてビニルに入れて保存されていた。
「おそらくそれが凶器でしょう。ちょうど研究棟と学生寮の間にある森の傍に、森林管理のための用具入れがあったはずです。ここに来る時目にしました。そこから盗んできたものだと思います。持ち手に管理課の刻印がしてある」
「よく観察しているね」
「古賀善香さんを見つけたのは何時ですか?」
「20時半ぐらいかな。一度寮に夕食を食べに帰ったから、そのあと研究室に戻ろうとしてエッタを見つけたってわけ。最初は死んでいるんだと思ったよ。実際手当てしなければ失血死していたかもね」
腕と脚の切断。ゆりこの言う通り長時間放置されていたわけではないだろうと、令も頷く。古賀善香が襲われたのは長く見積もっても20時から20時半の間になる。李来の耳を切った犯人と同じ人物であることも十分にあり得る。
令は慎重に彼女らに質問を行っていく。彼女たちの中に犯人がいるならば、嘘を吐かれることに注意しなければならない。
「第一発見者は姫野先輩ということですか?」
「いいや。研究棟にいた大学生が見つけて、人を呼びに行く途中で私たちに会って知らせてくれたの。その時はペトラとイヴもいっしょだった。ふたりとも西寮で私と同じだからね。三人そろって食堂で食事している所は誰かが見ているはずだよ」
「分かりました。では、他のおふたりは?」
令はゆりこから、金子円と六条院万里に話を振る。ゆりこの口からではなく、直接話して聞かせろと目線で示す。人形たちがゆりこの指示なしでは自発的に発言しないことを、令は不満に思ったのだ。
「柏李来が帰ったあと今日は解散することになったので、寮の自室にいました。姫野から連絡を受けて研究室に戻りました。寮は一人部屋ですので、私の現場不在証明はできかねます」
最初に口を開いたのは、東寮に部屋があるコッペリアこと金子円。人形というより機械のような話し方。彼女には古賀善香が襲われた時間までのアリバイがないことが分かる。
次いで六条院万里がアリバイを口にする。
「ゆりこ様が急に祝い事があるから、とおっしゃったので特別なケーキの注文に街まで行っておりました。学院に戻ってきたのは22時ごろです。証拠が必要ならお店のレシートがありますが、確認しますか?」
万里よりレシートを受け取る令。レートには確かに昨日の日付と20時45分という時間が記されている。証拠としては十分なものだ。
令は確固としたアリバイがあることを確認して、レシートを戻す。
「古賀善香さんが研究棟の近くにいたことに何か心当たりはありますか?」
「もともと22時には研究室に戻って、作業の続きをする予定だったから。エッタだけは南寮で離れているから寂しかったのよ。いつも早くきて人一倍頑張ってくれるから、同じように早く戻ってきて作業を進めておくつもりだったのでしょうね」
解散して以降、古賀善香の姿を確認した人間は、この中にはいないということだった。
「つまり、彼女はひとりで行動していたわけですね。現時点でアリバイが証明できないのは金子さんと被害者である古賀さんだけ……もうひとつ確認させてください。李来の話では、姫野先輩のつくる特殊な義肢は筋力が低い、ということでした。それは金子さんも例外なく、同じということでしょうか?」
「ま、そうなるかな。コッペリアだけは球体関節じゃないけれど、基本的なつくりは同じだからね。さらにいうなら、コッペリアの方がより多くの改造をしている分、比べ物にならないほど繊細だ。犯行ができるか聞いているなら、コッペリアには不可能といっておくよ。斧を振るうことはもちろん、飛んだり跳ねたり走ったり。この子自身にも禁じているし、そうできないように作っているのは私だ」
令はゆりこの言葉から、情報を整理して反芻する。こめかみに指をあて、しばし目を閉じる。考えを口に出すことで、具体的な推理の筋道を立てていく。それは会話とも独り言とも違い、周りの空間に波紋を広げていく。
「まず、外部犯の可能性は排除できる。古賀善香の生身のパーツだけを狙っていることから、それを知る人間でなければならない。加えて、李来の耳だ。耳を狙った理由はひとつしかない。他ならぬ姫野ゆりこが、李来の耳を褒めそやしたから。欲しがったからに他ならない。そして、そのことを知るのはごく限られた人間だけ。
李来と古賀善香。このふたつの事件の犯人を特定するには、ふたつの重要な条件がある。ひとつはアリバイ。そして、もうひとつは義肢の性能。金子円以外の人間はアリバイがあり、なんらかの仕掛けがないかぎり犯行は不可能。そして、金子円には義肢の枷という縛りがある。このふたつの条件をクリアしない限り犯人の姿は見えてこない。
赤い糸、義肢の体、人形、入れ替わり、麻酔、輸血、切り刻まれた肉――」
令はゆっくりと瞳を開く。そして、その場にいる人間のなかから犯人を指し示す。
「犯人はヘンリエッタだ」
令は意識を失くしている被害者を指名した。
「アリバイと義肢、ふたつの条件をクリアしているのは彼女しかいない」
「自分で自分の手足を切り落とした、と? そんなことが有り得るか?」
真紀が令の推理に首をふる。意識を保ったままで、自分の手足を切り落とすなんて芸当人間には耐えられない、と不可能を説く。
「手首を切るぐらいならまだしも、痛覚が許容できる自傷行為の範囲を越えている」
「それが本物の手足ならそうでしょう。しかし、義肢なら可能なのではありませんか?」
令の発言に対して一切反応を示さない人形たちとゆりこに代わって、渋々真紀が口を開く。
「どういう意味だ」
仕方なく、会話を勧める為の相槌。最低な役回りだと、真紀は眼鏡を外して眉間を揉んだ。
「人形たちは時折、入れ替わっているそうですね。この研究室には彼女らの髪を再現する設備がある。かつらでなくとも、頭皮から入れ替えることも可能でしょう。そして、入れ替わりが行われている以上、犯人はふたり。二人目はペトルーシュカ。生身と義肢の位置が対になっている体。これ以上ない条件が整えられている。つまり、ヘンリエッタとペトルーシュカという人形の中身、古賀善香と高村光が入れ替わっていたんだ」
令の犯人指名に対して、ペトルーシュカが口を開こうとしたが、ゆりこに制される。
「最後まで聴きましょう。私たちは駒の力を知らなければならない」
ゆりこは令に向き直り先を促す。
「どうぞ、あなたの推理をしゃべっていいよ」
「上からな物言いをできるのも、今のうちだけだ。言っておくけれど、あなたに責任がないとは思わない」
「くぅ~、生意気ぃ~。なんであなたみたいなのが李来ちゃんのお友達なの? ほんっと、付き合う人間は選ぶべき、誰かが教えてあげないとなぁ」
「こっちの台詞だ……入れ替わりの仕掛けは単純だ。ヘンリエッタとなった高村光が寮に帰る途中の李来を襲い麻酔で眠らせる。ここにはそのための道具が十分に用意されている。その場で耳を切らなかったのはアリバイを作るためだ。李来を隠しておき、寝ている間に右耳を切っておく。李来の靴と服に土汚れがついていたのは、木立のなかにでも寝かされていたせいだろう。
そして、姫野さゆりたち南寮組が戻るのに合わせて義肢を切り落とす。切り刻んだのは義肢と分からないようにするため。古賀善香と高村光の身体は対照的だ。右側が生身のヘンリエッタとして高村光が右側を切れば、貴重な生身を切ることなく被害者ぶることができる。なぜなら、高村光の右腕脚は義肢なのだから。
その後、ペトルーシュカとなった古賀善香が治療の隙をみて抜け出し、李来の左耳を切りって、あたかも21時ごろに襲われたように細工し直す。左耳の断面が粗くなっていたのは、切断の最中に李来の麻酔が切れそうになったから。慌てて作業したせいで手元がずさんになった。そして、一次的に意識を取り戻した李来が私に連絡して発見された」
「どうしてこの子たちが、そんな回りくどいことをしてまで李来ちゃんの耳を切る必要があるの?」
「動機はあなた、姫野ゆりこにある。人形は常に五人だけ。そして、人形の代替えは珍しいことじゃない。李来を新しい人形に迎えようといった発言が、彼女たちを凶行に走らせたんだ。自分たちが捨てられることを恐れた古賀善香と高村光は一計を案じた。柏李来の魅力である耳を奪ってしまえばいい。切り刻まれた耳は嫉妬と怨嗟の現れなんだ」
ゆりこは間延びした拍手で令を馬鹿にする。
「一見筋は通っていそうに聞こえるけれど、早計と言わざるを得ないわね。朱華はなぜ、こんな子を気に入っているのか。正直、理解に苦しむ」
そういって、立ち上がると手術台に寝かせられたヘンリエッタの衣服に手をかける。コッペリアから鋏を受け取り、遠慮なく切り裂いていく。
「出血量で分かりそうなものだけどね。生の切り口じゃなければ、こんなに血はでないよ。それに見くびられたものね。私が自分の人形の入れ替わりに気付かない、間抜けだと思われていたなんて。例え他人からは見分けられなくとも、親は見分けがついて当然なのよ?」
剥かれた衣服の下には、まぎれもなく球体関節の手足がついていた。左の腕と脚が義肢になっている。ヘンリエッタは古賀善香で間違いない。人形の入れ替わりは起こっていない。
「残念、やりなおし」
冷酷に告げられる、二度目の敗北。純血会以降、探偵は再び敗れる。
令は歯噛みする。失敗した自分へか、思い通りにならない現実へか。
「馬鹿な。私は、またッ……いや、しかし、これ以外に条件を突破する方法は……」
崩れそうになる現実に、必死で踏み留まろうとする。
令は愕然と頭をかき乱す。髪に指を突っ込み、ほつれた髪が引き千切れるのも構わない。頭蓋骨を越えて、脳内に直接指を差し込んでかき回しているように。
「つかぬことを聞くが――」
真紀が眼鏡を押し上げて、誰ともない方向に質問を放り投げる。
「こんなにもクソ暑い時期に、なぜその格好なんだ?」
真紀の発言にゆりこは目を細め、令は唇を噛み切った。痛みは新たな刺激を彼女の脳内に引き起こし、口の端から流れ出した血が別の筋道を作り出す。
「アリバイ、義肢の制約、入れ替え、季節はずれな服装。理由はなんだ……肌を隠すため。そうだ、まだ入れ替えの可能性があった。あんたたちは確かに入れ替わって遊んでいた。李来と出会った、最初からッ!」
令はゆりこに向かって指を突きつける。
「服を脱げ姫野ゆりこ。いや、金子円。さっきと同じだ。証拠はそこにある」
「真紀チャン、あなたは中立なはずでしょ。こんなのルール違反だ。まぁ、いいけど……コッペリア、ごっこ遊びはもう終わりだ」
声を出したのは、目の前にいる姫野ゆりこではなかった。しかし、それた確かに姫野ゆりこの声と言葉だった。
姫野ゆりこだった黒衣の人物は、手袋を床に落とす。体から剥ぎ取るように衣服を脱ぎ捨てると、下から現れたのは四肢に継ぎ目のある傷だらけの肉体。薄ら笑いを浮かべていた表情も、服といっしょに剥ぎ捨て無表情な人形に戻る。
そして、もうひとり。コッペリアと呼ばれた青い瞳のフランス人形は、縫い付けられた顔を剥ぎ取る。薄い皮膚の膜一枚を隔てて、現れたのは別の顔。姫野ゆりこのにやけた顔。
「姫野ゆりことコッペリア――金子円の入れ替わり。アリバイと義肢の機能制限の条件はクリアされる。李来の耳を切り落としたのも、自分の人形の手足を切り落としたのも、どちらもあんたの仕業だったわけか、姫野ゆりこ」
「あーあ、真紀チャンが余計なこと言うから。ネタバレ厳禁だよ」
ゆりこは肩を落として、わざとらしくふて腐れてみせる。そこに他人を傷付けたことに対する罪悪感や後ろめたさはみじんもみられない。自分のたちの遊びを台無しにされたことへの不満から唇を尖らせる。小さな子供のような幼い癇癪に、令はぞっとした。この女も同じだ、令はそう気が付いた。
「公平の範囲内だ。そもそも三年なら、お前たちの顔が同じことを知っている。人形は人間の似姿、だからな」
「朱華に言いつけてやるからなぁ~」
「好きにしろ」
非難された真紀は意に介した様子もなく、それ以上のことには興味がないと言いたげに首を振る。
彼女らのやり取りを尻目に、令はあることを思い出す。それは切り取られたものの、切り刻まれなかった片方の耳の在処についてである。切り取った張本人であるゆりこがその所在を知らぬはずがない。
「耳は、李来の耳はどこだ? 切り刻まれたのは左側だけのはずだ。右耳はどこにやった」
「ああ、それなら――」
ゆりこが金糸の髪を掻きあげる。首を傾けた右側。ピアスでも見せつけるように、傷跡も生々しい縫いたての付け根を露わにする。令は持ち前の記憶力で、映像として記憶していた李来の姿を呼び起こす。そして、耳の形を脳内で照合する。まぎれもなく、その耳は、柏李来から奪い取られたもの。
「私がもらっちゃった」
ゆりの歪んだ笑みは、令を嘲る。
「この異常者ども……あいつの耳は返してもらう」
作業台の上に置かれていた手術用のメスを手に取る令。刃先をゆりこに向け、跳びかかろうとする。李来の耳を縫い付けた右耳に刃を振り下ろそうと迫る。しかし、令の視界は反転して、気が付けば天井を見上げていた。
「冷静になれ」
阻止したのは真紀だった。頭に血がのぼった令の足を払って、床に引き倒した。
「アンタどっちの味方なんだよ。人間か、化け物か」
「どっちでもない。怪我人を治療する、それだけだ。人間も化け物も、犯罪者も被害者もない」
令は真紀に膝で抑え込まれ、メスを握っていた腕は関節が可動域限界まで引き絞られている。痛みで腕が痺れ始めるが、令は意地でも刃物を離さない。痛覚と痙攣を怒りでねじ伏せる。
「私をその小さな刃物で切り刻む? それとも警察にでも突き出す? どちらでもいいけれど、李来ちゃんのためにはならないよ」
ゆりこは研究室の一角にある培養槽に歩み寄り、その中から現在進行形で培養されていた、ある肉片を取り出して見せる。
「ここに、あの子の耳介を複製したものがありまぁす。でも、この培養耳介の細胞を生かしたまま、だれかの体に移植するのはとても難しいよ? 傷跡も残さず完璧に治療できる人間は、日本には私以外に存在しないだろうねぇ。あなたが怒りのまま私を傷付けるのは勝手だけど、だれがあの子の体を元に戻すの? 真紀チャンかな? それともあなた? そんなことできるのぉ?」
姫野ゆりこは作業台の上に尻を乗せ、勝ち誇って足を組む。地べたに這いつくばった令を見下ろして、取引を提案する。取引の形をした、命令だった。
盤面はすでに詰み。令には彼女のいうことを聞く以外にない。すべての条件が整えられていた。令がこの研究室に殴り込んだときには、すべての決着がついていた。取り落としたメスを拾いなおすことは、彼女にはもうできない。
「私は李来ちゃんの耳を元に戻す。あなたは私の行為すべてをみなかったことにする。この件に関わるすべてを水に流して、今後一切触れないし、掘り起こさないことを誓う。これでどう? 李来ちゃんのことを考えれば、あなたに選択肢はないけどね」
令は奥歯を食いしばって、震える拳で床を殴りつけた。しかし、殴りつけただけだった。それ以上、彼女にはどうすることもできなかった。
「力なき探偵に哀れみを。所詮はただの駒。事件が終わった後にのこのこやってきて、真実を明かすだけの第三者に意味はない。悔しいなら盤面を作り変える支配者になるか、あなたも事件に加担するプレイヤーになることね。口を挟み込むだけの観客に、入り込む余地なんてないよ」
令にはもう言葉は聞こえていなかった。口の中に充満する血の匂いだけが、彼女の脳内を支配していった。
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