4 人形劇
不機嫌につりあがった眉が覗き込んでいる。心配してくれたのかな。それとも説教したそうだろうか。ゆっくり二度瞬きすると、そこが葵寮の救護室であることがわかった。私はベッドに寝かされ、傍らには腕組みしたまま瞼を閉じ、向かいのベッドに腰掛けている令がいる。カーテンから差し込む薄明りから早朝であることがわかる。
目をつぶると昨晩の記憶が蘇ってくる。すぐに怖くなって、思考を空にする。
シーツから手を出す。ずいぶんと汚れている。爪の間には泥がつまり、乾いた錆赤が手指の皺にこびりついている。夜の爪痕が、未だに私の体に残されている。
私は静かに上体を起こした。
そっと、あるべきものがあった場所に手を伸ばす。最初に髪に手が触れた。そのしたに隠れているはずの凹凸はない。穴の開いた床をブルーシートで覆い隠すように、ガーゼが張り付けてある。応急処置は終わっているのだろう、消毒の匂いが鼻のすぐ横まで漂っている。
耳。私の耳がない。ふたつとも、どこにもない。
耳の穴を覆うガーゼを引き千切った。血がたっぷりと染みこんで黒ずんでいる。凝固して肌と癒着していたものを力任せに引き剥した。おかげで塞がっていた傷口から生新しい血が溢れ出す。締め切っていない蛇口のように、ぽたりとシーツに染みを広げていく。ぽたり、ぽたりと。
(まっかな、わたしの――あかい、ち)
どくん、どくん。
私の内側に響いてくる。重たく流れる溶岩のような、まっかなもの。熱を帯びて、お腹の底からゆっくりとせり上がってくる。このあかいものが、脳まであがってきたら。私はどうなるのだろう。
落ち着かなきゃ。少しでも高ぶりを静めないと。
目についた自分の人差し指に噛みつく。皮膚を破って、肉に深々と突き刺さり、骨に到達する犬歯。干からびた舌と喉に、血が垂れ落ちて湿らせる。痛みに集中して余計なものを追い出そうとするが、うまくいかない。
(ああ、なんて――)
「おい。これ以上傷を増やすなら、もう手当はしない」
厳しい顔で入ってきたのは三年の真木理真紀。救護室に備え付けのシャワー室を使っていたらしく、髪が濡れている。そういえば、純血会の夜も彼女が琉花の手当てをしたのだった。時間外だったせいで、再び彼女が駆り出されたのだろう。迷惑をかけてしまったようで、申し訳なくなる。
噛んでいた指をとっさに隠したが、引きずり出されて、手荒に消毒を受ける。
「強く噛み過ぎだ。これでは跡が残る。あと、勝手にガーゼを剥がすな」
「ごめんなさい」
「君がどこで何をしようがどうでもいい。だが、夜中に怪我人の相手をさせられる私の身にもなってもらいたい。どいつもこいつも、私がまだ医者じゃないからと、かえって気軽に呼び出す。そのうえ、一年まで私に手を焼かせようとする」
口から不満を垂れ流しつつも、手際よく手当てを進めていく。音の受け皿だった耳介がなくなったせいか、少しばかり音が聞こえにくい。
「本来なら病院に連れて行って傷を縫うべきなのだろうが……まだ元に戻る可能性があるからな。傷口は開いたままだから、あまり触らないことだ」
彼女はガーゼで傷口に蓋をすると、髪の毛をそっと降ろして外から見えないようにしてくれた。
「あのずっと、ついてもらっていたんですか?」
「いや、私は仮眠のために小一時間ほど席を外していた。夜には君のルームメイトの
私と真紀のやり取りで目を覚ましたのか、相変わらず仏頂面の令がこちらをにらんでいる。忠告したばかりなのに、と責める視線に思わずシーツを持ち上げた。
「ご、ごめん」
「別に。夜中に散々学院内を探し回らせられたけど、たいしたことじゃない。そのうえ、寮までおぶって運ばせられたけど。挙句の果てには、私の忠告は聞き入れられなかったことがわかったけど、それもどうでもいい。別に、本当に、たいしたことじゃない」
よく見れば彼女の服も血で汚れている。染みになって、洗っても落ちないだろう。私が助けを求めてから、必死で探してくれたのだ。令は苛立っているけれど、私はにやけるほどうれしかった。
「怒ってる、よね?」
緩んだ頬がばれないように、シーツで顔を隠して問う。
「だから、別に。ただし犯人は絶対に吊し上げる。身近に切り裂き魔を放っておけるほど、図太い神経はしていないから。自分が襲われたときの状況を覚えている?」
私は小さく首を振る。
「正直、まだちょっと混乱していて」
「まあ、そうだろうな。真木理さん、こいつの耳を見せてやってくれませんか」
そう令が声をかけると、真紀は救護室の冷蔵庫からよく冷やされたタッパーを取り出した。中には、耳らしき形に並べられた肉片が。ジグソーパズルのピースのように、不規則な断面に沿ってピースが組み合わされている。しかし、いくつか足りないピースがあるようで、完全な耳の形をしていない。
「君の耳だ。現場付近に落ちていたのを拾ってきたらしい。切り取られた痕からして、君の左耳だと思うが、なんせ細切れだからな。正確にはDNAでも鑑定してみなければわからない。ただまぁ、切りたての耳なんぞ、そういくつも転がっているものでもないからな。十中八九、君のもので間違いないだろう」
そういって手渡されたが、私の耳と言われてもピンとこない。自分の耳の形など覚えていない。切り取られた左耳の根元は不揃いで、へたくそな切り方だということは自分でもよくわかった。
「李来、あんた部屋変えてもらった方がいい。同室のあの女、湯引きして食おうとか言い出したから。この肉片をつまみ食いから守るのも、それなりに苦労した」
「布雪さんらしいね。ポン酢が合いそうとか言ったんじゃない? ミミガー的に考えて」
情景が目に浮かぶようだ。布雪は欲望に忠実な人だから、究極にマイペースなところが羨ましくもある。思い出したら少しだけ気が楽になった。
「笑いごとじゃない。あんた、この学院の奴らに感化され過ぎでしょ。もっと、まっとうな頭でいるよう努力して」
令は一息置き、話を戻そうという。腕組みを解いて、こめかみに指をあてる。彼女は少しの間目を閉じ、思考を整理した。
「状況を整理する。
あんたから電話がかかってきたのは21時すぎ。そこから捜索に出て、大学の講義棟の前で倒れているのを発見したのが21時40分。現場には顔と服が血まみれになった李来と、刃物で切り分けられた左耳が落ちていた。あたりを探したけれど、右耳は見当たらなかった。発見した時に傷口は乾いていなかったことから、切り落とされてそう長くは経っていないと思う。右側の切断面は綺麗に切り落とされていたけれど、左側は雑で手荒い。左右で切り落とした状況に違いがあったと考えるべき。
大学講義棟前は地面が舗装されているから、李来の血痕以外には特になし。服と靴に土汚れがあったけれど、どこで付いたものかはわからない。それで、あんたを抱えて寮に戻ってきたのが22時過ぎ。本来なら警察に即連絡するべきなんだけど、佐里先輩にも、真木理さんにも止められた」
令はどんな状況でも冷静な観察を怠っていない。そのことに感心しつつも、少しぐらいは取り乱してくれてもいいんじゃないかと残念にも思った。
「警察に連絡しない方がいい理由は、ふたつだ。まずは内部犯、生徒が犯人である可能性が極めて高いから。大方の目星はつくが、それを考えるのは私の仕事じゃない。次に、柏李来の体を元に戻すため。推奨できる方法とは言い難いが、これも学院生を頼る方が手っ取り早い。そして、学院生を頼るということは、イリーガルな手法を使うということでもある。警察が入って来ると、そういったことはやりづらくなる。もっとも、この学院で起こった事件に警察が役に立つとは思えんがな」
令の説明に補足して、真紀が言葉を繋ぐ。学院に通う生徒の中には、資産家や権力者の家柄も少なくない。学院内で不都合なことがあっても外には漏れず、内々に処理されることが珍しくないということか。青純女学院の内部は、一種の治外法権が働いているのだろう。
「外部犯でないと言い切れるのですか?」
「学院の周囲には監視カメラもある。気になるなら、守衛に確認を取ってみればいい。そうでなくとも、学院自体が街から離れた山中にある。職員や学院生のほかに近づくものはそういない。加えてこういった行為をしそうな輩は、外より内に多い」
令は真紀の意見に一理あると思ったのか、特別反論することなく頷いた。学院のことを知っている分、生徒の方が暴力的な行為に対する心理的なハードルが低い。真紀の言う通り、外より内のほうが容疑者は多そうだ。
「あの、私の耳、こんな状態で元に戻るんですか?」
粗みじんにされた左耳を指していう。とてもではないが復元可能には見えない。
「君、姫野ゆりこと知り合いなのだろう? 生体の部品なら、彼女に頼るといい。ちょうど耳の型を取ったあとらしいじゃないか」
「当の姫野ゆりこが一番疑わしい。耳欲しさに、ということは十分に考えられる」
ここで令が咎めるように私をみた。なにか私自身にも、襲われる原因があったと言いたげだ。
「また姫野ゆりこのところに行っただろう」
「なんでそのことを?」
「あんたが気を失っている間に寮の一年生に聞き込みした。同じ授業を取っているやつから聞いたんだ。放課後、顔に縫い目のある人形みたいに綺麗な女が迎えに来た、って」
「あ、いや……ごめん」
あんな状況、誰かが覚えていてもおかしくはない。実際かなり目立っていた。あれだけ危険だと話をされて、その上実際に危ない目に遭っているのだから、弁解のしようもない。
「それで? 姫野ゆりこの研究室から命からがら逃げだしてきたってわけ?」
「ううん、ゆりこさんじゃないと思うけどな……」
殺気立った令をなだめるように、私は少しずつ思い出してきた研究室からの帰り道のことを話す。
「19時には研究室を出たのは時計を見たから覚えてる。そのあと、帰り道で後ろから誰かがつけてきて、気が付いたら倒れていたの。なんとか、助けを呼ぼうと思って令に電話したことはおぼろげに」
「襲った犯人を見た?」
私は首を振る。
「はっきりとは……でも、赤い……赤い糸が見えた気がする」
「糸?」
令は眉をあげたが、真紀の方はなにか心当たりがあったようだ。
「それは人形の縫い目じゃないか?」
「どういうことです?」
「顔、手足、胴体。姫野さゆりの人形は赤い糸で縫合してあるからな。柏が見たという赤い糸は、それじゃないのか?」
結局同じことじゃない、と令は眉間に皺を寄せた。
「真木理さん、申し訳ないですけれど、姫野さゆりを呼び出せますか? 彼女の人形とやらも一緒に。事情を聞く必要がある」
真紀は眼鏡を押し上げて、面倒だと息を吐いた。
「あまり、先輩を顎で使うなよ、一年。今回は同級生の尻拭いで大目に見てやるが」
「よろしくお願いします」
令が大人しく頭を下げたので、慌てて私も頭を下げた。
真紀がスマホを取り出してコールする。ゆりこの連絡先を知っていることは意外だったが、医学と義肢の分野でなんらかの接点があるのだろう。
電話は直ぐに繋がる。彼女が手短に要件を説明するが、なにやら電話越しに立て込んでいる様子が伝わってくる。二言三言交わすと、真紀は渋い表情で通話を終えた。
「どうかしましたか?」
「状況が変わったようだぞ、探偵。昨晩、人形のひとりが襲われたそうだ。手足を切り落とされてな」
そう告げた真紀は、鋭い目つきを隠さない。
変化し続ける事態は生き物のように、私たちを暗く飲み込んでいく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます