2 血の怪物

 話は幕末、日本各地で腥風が吹き荒れていた時代にさかのぼる。青純女学院の由来となった組織である純学堂という私塾が、現在の立地とそう変わらない場所にあったそうな。純学堂は蘭学、漢学、本草学、和算に暦法と多岐にわたる学問を独自に研究する、物を教えるというより学問好きの溜まり場のような場所だったらしい。そして、彼らが研究していたのは、単なる学問だけではなかった。

 冷戦中に米軍がESPの研究を積極的に行っていたとするのは、オカルト界隈ではよく知られていることだ。その研究成果や真偽はさておき、この純学堂では怪異や妖魔といわれるもの、あるいは物の怪の血をもつと人々から恐れられた、人ならざるヒトへの研究を行っていた。

 彼らが実際にどのような手法でもって研究を行っていたのか、現在の私たちが知るすべはない。文献にしろ物史料にしろ、すべてが焼き尽くされてしまったからだ。当時の純学堂の理念が形を変えて引き継がれ、こうして女学生たちの間にまことしやかにささやかれるのみである。

 曰く、彼らは科学と空想が入り混じる時代において、数多くの怪現象を物理的に解き明かし続け、ついには本物に辿り着いたという。詳細不明で単に『鬼』とだけ呼ばれた存在は、姿形は人と同じでありながら、人知を凌駕した力を持っていたという。さながら、修験道の開祖である役小角のようなものか。

 純学堂の連中は鬼を見つけてなにをしたのか。

 彼らは鬼のもつ力を解明して、わが物にせんとした。

 彼らに医学や薬学の知識があったことが悪い方向に災いした。鬼をだまし討ちして、血縁が住まう隠れ里を暴き、一人残らず生きたまま解剖していった。

 フグの毒が一体どこに含まれるのかを調べるのに似ている。どの部位に毒が含まれるのか、一つずつ確かめていくのだ。臓器や筋肉を一部ずつ切り取って、力を使わせる。その繰り返し。鬼の力の触媒が血であるか、心臓であるか、肺か、胃か、神経か、目か――。恋人や子供を人質にたて、知識欲を満たす為だけの研究に協力させた。鬼は実験動物に過ぎなかったのである。しかし、いくら切り刻んでも、彼らの肉体自体は単なる人間と大差なかったのである。ただ異能の力をもつ者たちには共通して、いくつかの禁忌を犯していることが分かった。人間としての禁忌。動物としての禁忌。生命としての禁忌。

 肉体に囚われないこと。精神に囚われないこと。人間という形に拘らないこと。

 それを破りすてるための、禁忌の侵犯。

 ついに彼らはひとつの結論に辿り着く。特殊な力を産み出す方法のひとつとして、人間の解放という結論を導き出した。一種の解脱とでもいうのだろうか。人間の殻をもつことが、本来眠っている人間の潜在的な力を抑制しているというのだ。人間の殻とは、人間らしい五体満足の体であったり、他者とのコミュニケーションであったり、生活共同体の法や習慣であったりした。

 研究は次の段階へと移行する。解明の次は、実践。

 純学堂のある山中には、周囲と隔離された小さな村があった。彼らは村を選んだ。新たな実験の地に選んだ。村人のひとり、氏神神社の巫女として祭などで神楽を踊る娘がいた。その娘の人間を解き放つことにした。

 純学堂の連中は、努めて穢れを避けるように生活していた娘に、血の味を覚えさせた。

 血の味というのは、血液の味という意味だけではなく、殺生の快楽や自己の内側に鬱屈とした欲望の味でもあった。娘には意中の男がいたが、男はすでに妻を持つ身であった。その恋心をうまく利用された。嫉妬は容易く娘を狂気に陥れ、流れた血が呼び水となって、新たな血を求めた。

 三日三晩、村では血の宴が催された。

 熟した果実のような死骸には蠅すらもたからず、山の湧き水からは血が染みだした。

 娘は村人だけでは飽き足らず、山を下り、麓の町で人々を襲う妖魔と化したという。片腕で大人の男を投げ飛ばす膂力を持ち、野山を狼と駆けまわり、一晩ごとに数十里離れた町や村で人を食い荒らす神出鬼没ぶりで己の食欲を満たしていったとされる。被害者は決まって、首筋に鋭い牙の噛み痕があり、全身の血を吸い尽くされたミイラとなって発見された。

 吸血鬼。娘は異常を繰り返すうちに、その体までも異形のものへと変化していってしまったのだ。Vampireの和訳に吸血鬼、鬼の字があてられたのは、『鬼』とよばれた一族に由来があるからという説もある。

 忌まわしき昔ばなしは、この地に迷信として根付いている。青純女学院の土を掘り起こすと、今でも一部から赤土とは異なる錆赤の地層が見つかるらしい。

 その後、化け物となった娘がどこに消えたのかはわからない。人間に退治されたのか、野垂れ死んだか、今も生きているのか。事件はしばらくして、落ち着きをみせた。ただ時代の流れで記憶が薄れていったのか、吸血鬼となった娘が身を隠し地下に潜ったのか。そこから十年と経たぬうちに、純学堂の跡地、血塗られた村を覆い隠すように修道院が建てられた。明治35年、青純女学院の前進である蓮見台聖純修道院の始まりであった。

 今でも時折、この青純女学院の生徒の中に、渇きを覚える女生徒がでることがある。水を飲んでも癒えない渇き。いつしか我慢ができなくなっていき――。


 甲高い悲鳴が談話室を揺らした。突然、談話室の明かりが落ちた。

「あら、停電かしら。いいところだったのにね」

 語り手であった朱華は暗闇の中でくすりと笑みをこぼした。

 私はというと、いつの間にか隣の令に抱き着くような形で震えていた。今この時にも、暗がりの中で私たちの首筋を狙っている者がいるのではないか。そんな不安に駆られて、少しでも体を守ろうとソファの背もたれや令に密着して、外部へ晒されている部分をなくそうとしていた。

 三年生たちの対応は落ち着いたもので、すぐに燭台に火が灯される。ここでケータイの明かりと取り出さない辺り、歴史あるお嬢様学校としての風格がある。ただ単に、怪談の雰囲気を壊さないためかもしれないが。

「やっぱり建物が古くてだめね。いくら改築しても電気系統の配線がもろくなっているのかしら。ここではよくあることだから、気にしないで。私が見てくるから……明かりがつくまでは、くれぐれもひとりきりにならないように、ね」

 揺れる炎に照らされた白い首筋をとんとん、と叩いて示した朱華。その仕草に、私を含めた数人の一年生が息を呑む気配があった。朱華の語りと青純女学院という物語の土台が裏付けとなって、怪談に強すぎる現実味を持たせていた。気の弱い子なら、今ひとりにされたら泣き出してしまうかも。

 朱華が出て行ってしばらく、十分ほど経っただろうか。

 葵寮には管理室が一階にあるから、おそらく分電盤もそこにあるのだろう。夕方まで雨が降っていたけれど、雷は鳴っていなかった。外的な要因による停電ではなさそうだ。談話室でも電気を使い過ぎるようなことはなしていないから、寮全体の停電だろうか。もし漏電とかならば、復旧には時間がかかるかもしれない。そんなことを考えていたら、ぱっと談話室の明かりが戻る。

「ちょうどいいから、少し休憩しましょうか? みなさん、お茶のおかわりはいかが?」

 三年生の先輩が湯気のあがる淹れたてのティーポッドを準備していた。いつの間に用意していたのだろうか、随分と準備がいい。談話室に給湯室はないから、電気ポットで沸かしたのだろう。

「ねぇ、もういいでしょ」

「あ、ごめん」

 私は令にしがみついていたことを思い出す。彼女の膝の上に乗り出すようにして、首に手を回していた。おかげで切れ味がでそうなほど整っていた彼女の毛先が、ぐちゃぐちゃになっている。彼女は溜息と舌打ちを飛ばして、手櫛で髪を撫でつける。

「あんなの作り話に決まっているじゃない。新入生をからかっただけよ」

「そうなのかな。そうだよね、きっと」

「当たり前。異能の力とか、化け物とか。そんなもの存在していいはずがない」

 苛立った彼女はそう言い切ったけれど、私の不安は晴れない。生来の小心が胃を縮みあがらせたせいで、乗り物酔いのような吐き気がせり上がってきていた。

「ごめん、悪いんだけど、ちょっと外まで一緒に」

「なんで私が?」

「お願い、ひとりでは無理なの」

 このときの私はひどく青ざめた顔をしていたのだろう。嫌そうにしながらも、私の腕をとって立ち上がってくれた。近くにいた先輩も気遣ってくれたが、申し訳なさでかえって目が回りそうになってしまう。

 令に脇を支えられながら、談話室を抜け廊下にでる。外の空気を吸おうと窓辺に近づくと、わずかに開いていた窓がある。押し開けると雨上がりの湿気った風が冷たく、私の気分を落ち着けた。あいかわらず、どんよりとした曇り空は月を覆い隠して今日の夜は薄暗い。

 遠くに投げていた視線をふと降ろすと、廊下の明かりに照らされる人影がみえる。三階から目を凝らしてみると、どうも様子がおかしい。人影は外の地面に寝そべり、少しも動かない。

「誰か倒れてるっ!」

 腕組みしていた令も窓から頭を出す。姿を認めた彼女は、すぐさま階段へと駆け出だした。私もつられて、彼女のあとを追いかける。階段を一階分降りたところで、下から登ってきた朱華とぶつかりそうになる。令は構わずに先に行ってしまった。

「なにかありましたか?」

「下で誰か倒れているんです」

 それだけで非常時を察知した彼女は、すぐに身をひるがえす。

「私は救護室からひとを呼んできます。頭を打っているようなら動かさないように、先に行った彼女にも伝えてください」

 私は激しい動悸を抱えたまま、なんとか冷静であろうとして頷く。

 下まで降りるには螺旋階段を通るしかない。朱華は今登ってきたばかりの階段を引き返し、私もそれに続く。長い階段を下まで降り切ると、玄関ホールで二手に分かれる。朱華は西翼の端にある救護室へと向かう。

 私は玄関を抜けて東に折れる。ぬかるんだ地面に残っているふたつの足跡を追いかけて、寮の東翼にそって走る。ひと足先に辿り着いていた令は、うつ伏せに倒れている女の子の傍に、片膝をついて安否を確かめている。

「その子、大丈夫なの?」

 女の子には見覚えがあった。一年生で、同じクラスの風早琉花かぜはやるかだ。彼女は確か南寮の寮生だったはず。

「気を失っているだけ。ただ……」

 令の視線が倒れた子の首筋に注がれる。そこに付けられていたのは、まだ乾いていないふたつの赤い点。

「ほんとにいたんだ、吸血鬼が」

 それは紛れもなく、何者かの牙の痕跡だった。しかし、私の言葉を令はすぐさま否定した。

「吸血鬼なんているはずない。よくみて、傷跡が浅すぎる。穴というより皮がむけた程度だ。吸い上げたとしても大した血の量は吸えない」

「でも、こんなに血の気が引いているのに」

 うつぶせに倒れた琉花の顔は、唇まで色を失って青黒くなっている。私の目には吸血されたことによる貧血で気を失っているようにしか思えない。

「彼女のうなじの下に、焦げたみたいな跡がある。停電したとき彼女はここにいて、背後からスタンガンかなにかで襲われたんだと思う。今夜は月も出ていないから、暗がりで不意を突くのは難しくない」

 令はそのまま無遠慮に琉花の体をまさぐり始める。

「あまり動かさない方がよくない? 大人しく先輩が来るのを待とうよ」

「あった。血の気が引いているのは、血を採られたから。でも、首の噛み痕からじゃない」

 令はうつ伏せの琉花を手荒くひっくり返し、左袖をまくり上げる。上腕の中ほどに一周、うっすら赤い線がある。肘の浅いくぼみには、赤い点がひとつ浮かび上がる。

「停電中に不意打ちして気を失わせたあと、腕から血を採る。そして、あたかも吸血鬼の仕業に見せかけて首筋に傷を残した……化け物の仕業なんかじゃない。これは人間の起こした事件だ」

「そんなことって。なら、犯人は」

「ここに来るとき、足跡はみたか? 夕方雨が降ったから、寮の玄関からここまではぬかるんだ地面を歩く必要がある。外を通れば必ず足跡が残る」

「足跡はふたつしかなかったけど。ひとつはここに倒れている風早さんのもの。もうひとつは駆けつけた、令さんのもの」

「そう、私が来た時もこの子のひとつ分しか見なかった」令は寮一階の窓を見上げる。「犯人はこの寮のなかにいる」

 令が言い切った直後、後ろから先輩たちの靴音が近づいて来ていた。

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