第2話 夢際、汚染

 気が付くと、そこは適度に眩しい世界だった。

 ついさっきまで色鮮やかな世界、白昼夢のような世界に居た気がするのだけど、どうやらここは違う場所のような気がする。視覚は揺らいでいて、捉えることの出来たのは、上方から降り注ぐチカチカとした人工的と思える光だった。その光は懐かしさと共に気だるさをもたらした。容易に抗う事の出来る光の中、私は眠い目を擦りながら僅かに首を傾けて辺りを見回す。そしてすぐに状況を理解することになった。


 私はここを知っていたのだから。


 一通り見回すと怠惰な安心感を覚えて、私は重い上瞼を下ろすことにした。

 ややバランスの悪いデスク、その上に山積みの学会紙と分厚い資料、再生のランプついたままのCDプレイヤー、明滅を繰り返す古いパソコン、律義に28℃に設定されたかび臭いエアコン、常に熱を発し続ける未だに使い方のわからない実験器具、画びょうの刺さったぼろぼろの壁、場違いにも思える数多のLPレコード……。

 どう観察しても、大学の見慣れた研究室に違いなかった。


「おい真季、いい加減に起きろ」

 二度寝を遮るように、低い男性の声がうしろの方から聞こえた。

 私は返事もままならないまま、デスクに伏せていた上体を起こして、回転いすに身を任せて振り向く。

 ぼやける視界にぬるりと入って来たのは、同じ研究室に入っている大学院生の先輩だった。

 研究分野はかなりマニアック。研究室はキャンパスの敷地の北の端,隅にある棟の最上階のこれまた端っこ。極めつけは教授がとても変わった人で、酷く評判が良くない。この三重不人気な研究室に、なぜかいる唯一の先輩だった。目鼻立ちは割と整っている癖に、髪も髭も伸びっぱなしで、よれたワイシャツも着崩しているから残念な感じは否めない。あと、湯気の立つコーヒーカップを手に持っているけれど、中身がコーヒーならばスティックシュガーの山が隠されているに違いない。そんな先輩だった。


 私が腕を突き上げて伸びをするのとほぼと同時に、先輩はぶっきらぼうに言った。

「やっと起きたか。とりあえず、そのスピーカーを止めてくれないか?」

「ふわぁ、すみません。うるさかったですか」

「いや、うるさくは無いんだが……よくそんな鬱っぽい曲を聴きながら寝られるな、お前は」

「え?確か、夜想曲ノクターンかジムノペディを流していたはずなんですけど」

 液晶の画面に映るトラックは、入眠前に設定した数字とは違った数字になっていた。一曲をリピートする設定にしていたはずなのに。

「これは……サティのグノシエンヌですね。どおりで」

「どおりで?」先輩は眉をひそめ、すぐに真顔に戻った。

「その陰鬱な曲が耳元で流れているのに、平然と寝ていられるお前の神経を疑わざるを得ない」

他人ひとの優雅な二度寝を遮る先輩の神経も疑いますよ」

「眠ってばっかりで貴重な日々を怠惰に過ごすとは……もし卒研が間に合わなくなったとしても俺は知らないぞ?あれは大変だ。かなり大変だ。うむ大変だった……」


 目を細めて明後日の方向を眺める先輩を後目に、私はCDプレイヤーに手を伸ばしていた。雑に扱っていたせいで壊れてしまったらしい。

 どのボタンを押しても曲が変わらないし、CDを取り出すことも出来ない。唯一出来るのは再生だけ。ポチポチいじくっていたらランプは消えたけれど、BGMにしてはやや小さな音量でグノシエンヌがリピート再生され続けている。停止することが出来ないし、内部バッテリー搭載だから充電が切れるまでは流れ続けるだろう。中々厄介なものだ。

 小型とはいえ、今どきCDプレイヤーなんかを扱ったことが悪いのだ。

 そう自分を渋々納得させて、再び机の端の方に押し込む。


「ところで私、どのくらい寝ていました?」

「おおよそ20分くらいだ。教授が久々の講義に行く前には、お前はもうスヤスヤだったからな」

 先輩は呆れたようにカップを啜る。

「20分ですか。もっと長い気がしていたんですけど」

「おそらく時間感覚のズレだな。例えば、夢なんかを見ると短い睡眠でも長く感じるよな」

「なるほど、確かにそうかもしれません。何だか半日くらい夢の世界に居た気がします」

「つまり……真季は今、夢を見ていたという事なのか?」

「ええそうです」私はそう口走って、ハッとする。


 先ほどの世界が、過度に鮮やかな色彩と目まぐるしい音の飛沫しぶきを飛び散らせながら、私の脳内をリフレインし始めた。欠けたところなど無い。まるで夢の中の視点がそのまま録画された映画の如く、私の記憶に張り付いていた。


 ――確かさの失われていない、不確かな夢。


 その印象は、この夢が普通では無いことを証明しているようでならなかった。


「あの世界は夢だったんでしょうか?」

 私は自問するように声を出した。ただその声は思ったよりも大きくて勢いがあったらしい。

 先輩は目を丸くして、カップをぐらりと揺らす。ふわっとコーヒーの良い香りが漂う。

「い、いや、俺に言われても分からんぞ。俺はその夢を見ていないんだからな」

 そして先輩は思いついたように片眉を上げる。

「それにDCミニは俺の分野でも、ましてお前の分野でもないだろう?」

「SFに分野なんてあるんですか」

「全SFファンを敵に回したな?まぁ俺はディストピア物は好かん。サイバーパンクは好きだがな」

「別に趣味嗜好の話をしているわけでは無いんですけど……ってとにかく私の夢の話を聞いてください!本当に不思議な夢だったんですから!」

 私が身を乗り出すと、先輩はムッとしたようにコーヒーカップを身に寄せた。

「まぁ俺も今は休憩時間だしな、少しくらいなら付き合ってやらんことも無い。しかしだな……」

「しかし何ですか?」

 先輩は自分の口元を指さす。

「……ヨダレは拭いておけよ。大学生になってそれは、さすがにだらしが無い」

「そういう事は先に言ってくださいよ!てか、先輩が言いますかそれ」


 私が手鏡で身だしなみで整えている間に、先輩は私の分のコーヒーも淹れてくれた。自分のコーヒーはホットだったのに、私のモノはわざわざアイスにしてくれる辺り、いらない気を回してくれたのだろう。ちょっぴり申し訳なくなる。でも、そのコーヒーは気を付けていなければ吹いてしまうほどに甘ったるかった。舌が粘ついて歯の間がキューっと締め付けられる。きっとスティックシュガーを何本も入れたに違い無い。さっきの申し訳なさは山盛りの砂糖と飽和的に混ざり合って、焦げ茶色の海へと沈んでしまった。


「それでどんな夢だったんだ?」

 先輩はそっけ無く言った。ただその目の奥には好奇心が影となって渦巻いているように見えた。

 そんな先輩を見て、私は思い出した。この先輩は科学畑なのに、オカルトやスピリチュアルに興味があるということを。研究室で顔を合わせると、いつも朝のニュースの占いの結果を教えてくる。私から訊いたことなんて一度もないのに。そう言えばつい先日も、エキゾチックで木彫りの可愛くない人形をお土産で貰った。何だか気味が悪くて、今ではデスクの端っこに押しやられているけれど。


 気を取り直して、私は先ほどの夢の世界をはじめから一つ一つ確認するように語った。


 夢の中で目覚めた私は、記憶も感覚も持っていなかったこと。自分が誰なのか分からなかったこと。どこかの駅のような場所に居て、空と草原のコントラストが印象的だったこと。ホームにグランドピアノが置いてあったこと。ずっとピアノの音が響いていたこと。駅以外には人工物が全く見えなかったこと。ワンピースの少女がピアノを弾いていたこと。何故か曲に関する記憶だけ、取り戻したこと。そして突然、夢の世界が溶けてしまったこと。


 一通り話終わると、先輩は渋い顔をして残りのコーヒーを啜った。目に見えて顔をしかめたあたり、溶け残った砂糖が底で溜まっていたのだろう。

「ええと、少しややこしいんだが今の真季は、夢の中の自分に記憶が無かった、ということを知っているんだな?」

「はい。夢の中で気が付いた時の私は、自分の名前も自分の存在にまつわることも、何も知りませんでした。ただ、根拠があるかと言われると微妙ですね」

「なぜだ?夢の記憶はあるんだろ?夢の中の視点が記憶を持っていなくても」

「それはそうなんですけど、既に夢の記憶と起きている今の私が接続してしまっているので、境があやふやかもしれません」

「もう一つ、目覚めた瞬間は全身の感覚、五感が全く働かなかったんだよな?」

「いいえ違います。視覚だけは眩しさを捉えていました。多分夢の中での目覚めと共に視覚だけは取り戻したんでしょうね」

 先輩は私の返事を聞くと、ふうむ、唸ったきり、腕を組んで眉をひそめてしまった。

 ややあって、

「もしかしたらだが、俺はその世界の事を知っているかもしれない」と先輩は首を傾げた。

「もう一度風景を詳細に教えてくれないか?お前の主観で良いから、周りの風景について」

「そうですね、少し流し気味でした。ええと、そこにある建物は駅だけなんです。さっきも言いましたけど、ホームが二つあって、そのホームを上にある渡り廊下がつないでいるタイプのモノです。線路はどこにもありませんでした。石はありましたけどね」

「駅の色は白なんだよな?」

「はい」

「把握した。続けてくれ」胡散臭い探偵のような手つきで促される。

「あ、あと印象的なのは空と草原です。青と緑と言うよりは、宝石みたいな蒼と碧でした。その二色が近代の抽象画みたく、きっちりと分かれていました。その境界線が地平線を為していました。宇宙から見た地球ってあるじゃないですか?あの大気と宇宙の境目を思い出していただければ、想像しやすいと思います」

「なるほどなるほど。で、駅のホームには立派なグランドピアノがあったと」

「そうです。確か、サティの曲が流れていました」

「サティねぇ……それにしてもお前が、か」

 先輩はコーヒーカップを空いたデスクの上にそっと置くと、ブツブツ言いながら不意に立ち上がった。そして夢遊病患者のようにフラフラと教授のデスクの方へ近づいて行った。

「ちょっと来てみろ」

「え……ああ、はい」

 教授のデスクが見えるところまで寄ると、先輩は教授のデスク後ろに伏せるように立てかけられていた額縁を持ち上げていた。私はその額縁の存在を知らなかった。そもそも教授の身の回りには、配属されてからの4カ月間、一度も気に掛けたことが無かった。というより近寄りたくなかった。


「真季、お前はこの絵の話を聞いた事があるか?」

 そう言って先輩が見せてきた絵は、


 まさにあの白昼夢のような世界と一分も違わなかった。


 ただ、あの世界のような、そう、抽象画のような美しさは微塵も無かった。

 お世辞にも構図は上手いとは言えない。目を凝らせば凝らすほど、稚拙さが浮き彫りになる。キャンバスの真ん中に白い駅があって、広い背景は二色に分かれていた。なんというか、引き気味でのっぺりとしている。パースペクティブなんてあったものじゃない。そして肝心のピアノはかろうじて捉えることが出来る程度だった。妙な現実感と底知れない非現実感がせめぎ合っていて、色合いの鮮やかさよりも気持ち悪さが強く主張している。

 悪く表せば、あの夢を表現するのに必要最低限の要素しか含まれていない。しかしそれは逆説的に、この絵があの夢だけを狙い撃ちするように描かれている証拠でもあると感じられた。


「これって……」

「多分お前が見た夢と似たような光景なんじゃないか?」

「そうです、まさにこんな感じです。でも私、この絵を見たなんて記憶は有りませんよ?」

 私は不安を誤魔化すようにキャンバスを撫でた。指先に薄く埃が付く。

「いや……お前が初めてこの研究室に入った頃は、まだ教授のデスクの後ろに飾ってあったはず。印象に残っていないだけで、きっと記憶の片隅には残っているんだろう」


 そう言われると一度くらいは見たことがある気がしてきた。ほんの僅かにだけだけど。

 あれは四月の初めころだったか、おそらくは教授の趣味なんだろうけど、今みたいにローテンポでピアノ主体のクラシックが流れるこの研究室に来た時のことだ。あの時はフォーレかドビュッシーの何某だったはず。ちょうど教授の後ろにあって、教授が身振り手振り動くたびにチラチラと見えたあの絵。それがあの夢を描いたモノだったのか。


「その絵を見てしまったことが、何か夢に関係するんですか?」

 私はおずおずと訊いた。部屋は冷えているのに額から汗がジンワリと滲む。

「関係していない方がおかしいだろう」先輩は低い語り口調で含みあるように言った。「難しく言えば、外的要因によって引き起こされた多人数連鎖的睡眠時幻覚か」


 正直に述べれば、この先輩が何を言っているのか全く分からなかった。単にボケただけなのか、学者の卵の癖で平易な事を遠回しに表現しているのか。なんにせよ非常にまどろっこしい。

「……すみません、なるべく分かり易くお願いします。あとこの絵の話って?」

「失敬失敬。まぁ絵の話は聞いていないみたいだな。教授と雑談していれば五回に一回は出てくる話題なんだが……」

 教授の留守を良いことに、先輩は教授の椅子にドスンと腰かけた。そして偉そうに背もたれに沈む。

「実はその絵を描いたのは教授本人だ。そしてその絵のモデルは教授が若いころに見た夢の世界らしい」

 あの変人として知られている教授か。

 空いている黒板に得体の知れないフランス語の決まり文句をいくつも書き殴り、研究や授業そっちのけでクラシックを聴きまくる。授業を放りだしてどこかに出かけることもしばしば。挙句の果てに、奇行を理由に解雇しようとしたけれど、割と研究実績はあるから解雇しようにも出来ないと噂のうちの教授が……。


「……つまりどういう事ですか?」

 反射的に訊くと、先輩は小バカにしたように鼻で笑う。


「教授も真季と同じ夢を見たということだろうが。常識的に考えて」


 夢の共有?そんなオカルトが実際にあると言うのか?

 よりにもよってあんな夢を。


 先輩は急に遠い目をして、さも自身の思い出のように語り始めた。

「教授が学生時代のことだ。長い夏休みを利用してヨーロッパに旅行したらしい。本場のクラシックを聴くだとか、絵画を見るだとか、食事を味わうだとか。とにかく異国の文化に触れに行ったらしいんだが、フランスのとある町で電車に乗り遅れたことがあったんだと。それで仕方なく駅近くの喫茶店で時間を潰すそうと考えて、店に入った。20分くらい待てば良かったらしく、紅茶だけ頼んで座っていたところ、案の定眠っちまったみたいなんだな。ちなみにその喫茶店で流れていたのはサティの曲だったらしいぞ。でまぁ結果として、お前が見たのと同じような世界に足を踏み入れたと」

「フランスですか……どう見ても駅は日本のモノですけど」

「この場合、夢を見た場所は関係ないらしい。むしろ、夢の共有という点では案外筋が通っているかもしれないぞ?」

「もしかして教授も他の人と夢を共有したという事ですか?日本の人と共有したから日本の駅がイメージとして繋がっているみたいな」

「まぁそうだろう。教授の知人、ここではR氏としよう。そのR氏が同じような夢を見ていたらしいからな。ヨーロッパに渡る直前に、その夢の話を聞いたんだとよ。正確にはR氏の夢日記を偶然見てしまったらしいが」

「絵を見たわけでは無いんですね」

「さっきも言ったがこの絵を描いたのは教授だ。しかし着眼点としては間違っていない」

「と言うと?」私は直球に促す。

「教授の考察によると、あの夢に帰属する何らかの要素を認識した人間には、あの夢を共有する可能性がある、という事らしい」

 なるほど。記憶には薄いけれど私はあの絵を見ているし、教授はR氏の夢日記で夢の事を知った。おそらくそのR氏も何らかの形、言葉、文字、絵、映像、音……それらであの世界を知ったのだ。


 先輩は腕を組んで得意そうに続ける。

「あと共有のきっかけ、トリガーだが、おそらくは入眠時の音楽だな。真季も教授も寝る時にサティを聴いていた。これがサティの曲だからなのか、グノシエンヌだからなのか、それともピアノ独奏曲だからなのかは分からない。なにせR氏の事例を俺は聞いていないからな」

 あの夢を共有しているとするならば、辻褄が合わないことも無いのか。

 私も教授も、ピアノ演奏のクラシックが好みらしいし、ピアノを習っていた経験もある。夢の世界の要素を事前に知ってはいた。季節は夏。昼寝。もしかしたら……。

 と、私は納得しかけて、不意に疑問を覚えた。

「どうやら先輩はこの件に非常にお詳しいようですけど、先輩はあの夢を見ていないんですか?」

「残念ながらな」先輩は目に見えて肩をがっくりと落とす。どうやら煽りとかではなく本心らしい。「俺には可能性があるだけで、確実に見られるわけでは無いらしい」

「そんなに見たいものですか?あれ」

「そりゃあ見たいさ」


 先輩は急に椅子を回転させ、窓の外を眺める向きになった。そしてやっぱり遠い目をするのだった。

「だって夢の中の視点は自分に関する記憶が無いんだろ?そんな感覚、一度でいいから味わってみたいと思うね。それに、不自然な世界にあるのはピアノだけ。知らない旋律が流れていて、ピアノに近づくと記憶を少しだけ取り戻す。そして奏者の男の子と一緒にピアノを弾く。いや真季の場合は女の子だったのか。ならば俺の場合は……多分男だろうな。ただ、俺はピアノを習ったことが無いからなぁ。タンバリンでもいいなら一緒に演奏したいものだ。いやいや、風景を眺めるのが先決だろう。空と大地、地平線。拝んでみたいものだ。

 ああ、俺がこんなに焦がれているというのに、なぜ真季が見ることが出来たんだろうか。思い返せばこんなことばっかりだ。小学生の頃に流行ったこっくりさんでは俺が入ると全く動かなかったし、高校の時に恐山まで行ってイタコに会ったが、連れの守護霊とは話が出来たのに、俺は全くだった。とんだぼったくりだった。催眠術にだってかかった試しがない。つくづく俺はオカルトに縁が無いのだ。神は不公平だ。どうしてこう……」


 先輩は自分だけの世界に浸り始めてしまったらしい。別に放っておいても良いのだけど、ブツブツと一人で語っている変な人と同じ部屋に居続けるのは、中々に気が滅入りそうなのだ。おまけに身振り手振りまでついているときたら、少し怖い。だから仕方が無い、先輩をこちら側に引き戻そう。楽しそうな先輩には悪いけれど。


「あのー先輩。ちょっと質問があります」

「……ん、なんだ?」

「なんか夢の共有とか大仰なことを言っていましたけど、やっぱり信じられません。確かに変な夢でした。ただ、私が一瞬だけ見た絵を、今になって夢に見たということもあり得ますよね?」

「俺に言われるまで忘れていた絵の光景を夢に見るもんかねぇ?」

「し、深層心理ですよ!よくわかんないけど!」

「ふうむ。そんなに納得がいかないのならば、簡単で明確な根拠を示そうじゃないか」

 そう言うと、先輩はデスクをゴソゴソと漁って、小さな紙切れとペン、それと自身のスマホを取り出した。そしてその紙にサラサラと見覚えのある文字を書き始めた。例のフランス語だ。

「真季は、教授が事あるごとに書いているフランス語のフレーズの意味を知っているか?」

 私がかぶりを振ると、先輩はその文字を慣れた手つきでスマホの翻訳アプリに打ち込み始めた。


 好奇心に駆られた私はその画面を覗き込んでしまった。

 結果として、その試みは失敗だったのかもしれない。

 なにせ、心底ゾッとしてしまったから。


「あのフレーズは『詮索するな。さようなら』って意味だ。お前にはわかるな?」


 私は息をのんだ。

 確かに、同じようなニュアンスの事を夢の覚め際に言われた。はっきりと言われたのだ。忘れるはずがない。その言葉と共に世界が溶けてしまったのだから。

 偶然とは思えない。

 私の思考は、夢の共有が事実であるという側へ傾いていた。


「い、一応訊くんですけど、あの夢を見たからって、何か影響は無いですよね?嫌ですよ私、知らないうちに見せられた変な絵のせいで、おかしくなるなんて」

 念のため、私は質問した。自分の身に関わることなのだ。知らないことは少ない方が良い。

 が、なんという事だ。案の定、先輩は顔を曇らせてしまったのだ。

「うーん、それが微妙なところなんだよな。あの教授が昔からああだったのか、それともあの夢を見てああなったのか……」

「げぇっ……」

 私がわざとらしく嫌な顔をすると、先輩は砕けて笑った。

「まぁ、教授からチラッと聞いたのは、夢を見た直後から視界の隅にピアノを弾いていた男の子の亡霊を見るようになったそうな。で、散々憔悴した教授は得体の知れぬ強迫観念に駆られて、この絵を描いたらしい。それ以来、その亡霊は見なくなったらしいがな」

「うわ、いかにもオカルトっぽい話!」

「本人が言っているだけだから、信じるかどうかはお前次第だな」

「それを言ったら、ここまでの話の全部が信じられないんですけど」

「まぁまぁ、今のところは何も起きていないから、大丈夫だろ」

「それはそうですけど……もし何かあったら、あの教授訴えてやりますよ!てか、黙っていた先輩も同罪ですからね!」

「おお怖い。民事も刑事も勘弁だから、俺はいったんドロンさせてもらう」

 先輩はニヤつきながらそう言うと、空いたコーヒーカップを洗いに部屋を出て行ってしまった。私は一人取り残された。ウロボロスのようにグノシエンヌは流れ続けている。


 埃臭い空気にいい加減に嫌気がさして、暑いと分かっていながらも窓を開けることにした。年代物のブラインドを一息に上げると、眩しい陽光が飛び込んできた。目を細めながら見上げると、夏の広い大空にもくもくと沸き立つ入道雲が浮かんでいた。立体感のある雲が重そうに見えて、落ちて来ないことは当たり前だけど、少し不思議に思えた。

 蠅の死骸が転がるアルミサッシを力任せに引くと。キイキイと軋む。開いた窓からはもわっとした熱気がなだれ込んでくる。横暴な熱気は冷気を押し除けて、体表面に密着してくる。

 案の定、汗が溢れだしてしまった。全身の汗腺がいっせいに開く。

 むだな冷気を吐き出すエアコンが、壊れる寸前かのような音を立てる影で、遠くに蝉の声を聴いた。クマゼミかミンミンゼミか。混ざり合って詳細は分からない。

 太陽、空、雲、蝉の声。

 あの白昼夢の世界とは少し違った夏がそこにはあった。案外、この風景にもグノシエンヌは悪くないな、なんとなくそう感じた。


 先輩に室温の上昇を口うるさく咎められることを面倒臭く思ったので、私はすぐに窓を閉じることにした。相変わらず窓ガラスの建付けは悪い。

 ブラインドを下ろすか下ろさないかのところで、先輩が戻って来た。上機嫌に鼻歌を奏でている。


「そう言えば先輩、ずっとグノシエンヌが流れ続けていますけど、気分は大丈夫ですか?」


 私は何気無く訊いた。


「別に俺は鬱っぽい曲が嫌いなわけでは無いんだがな。ん?流れ続けている?」

「ええ、どうやらCDプレイヤーが壊れてしまったみたいで。もう古いのかな」


 私が自分のデスクの上のCDプレイヤーを指さすと、先輩は焦ったようにそれに駆け寄った。手に持っていた洗ったばかりのコーヒーカップは、さも当然のように自由落下し、甲高い音を立てて崩壊した。けれど先輩はそんなことには目もくれず、CDプレイヤーを手に取る。そして叩いたり裏返したりして、見開いた目を走らせている。


「ね、ランプが消えているのに曲の再生が続いていますよね。バッテリーが切れるまでの辛抱なので、我慢してください」


「……いや」

 先輩はCDプレイヤーを私に見えるように持ち上げた。足元からはジャリという音がする。


「今、俺には音楽なんて聞こえない。ましてこいつは既に機能停止している」


 そして先輩は口をもごもごさせてから、小さく息を吐いた。

 ややあって、先輩は怯えたような眼をして言った。



「お前には何が聞こえているんだ?」





 ***




 思考の隅に居座った白昼夢は、気付かぬ宿主に認識災害をもたらし続ける。

 豊かで沈んだ旋律は響き続ける。鼓膜の内側で。

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夏、白昼夢、思考の隅で 神田椋梨 @SEA_NANO

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