室町幕府の組織 ③

守護


 正確には守護職しゅごしき

 元は令外官である追補使ついぶしがベースで、地方の治安維持を目的に臨時の官職として10世紀頃に誕生し、徐々に常設の役職となっていく。

 各地の国司が兼任、或いは地方の豪族を任命して運用されるようになる。そして12世紀なると惣追捕使という全国の追捕使を纏める役職が出来る。源頼朝が1185年に惣追捕使に任命され、全国各地の追捕使任命権(守護地頭任命権)が鎌倉に移ることとなる。

 その後、諸国守護権が公式に与えられると追捕使は守護(諸国ごと)、地頭(荘園、国衙領)に分けられ、守護地頭体制となる。

 守護の役割が明文化されたのは御成敗式目に於いて。鎌倉・京都での大番催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕の大犯三箇条の検断と大番役の指揮監督とされた。国司への関与や国衙領の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の被官化は進められていった。

 室町幕府に於いても当初は鎌倉幕府と同様であったが、国司が形骸化してしまったこともあり、1346年(貞和2年)になると刈田狼藉かりたろうぜきの検断と使節遵行権しせつじゅんぎょうけん(所領争いに関する裁判に対し幕府が発した裁定を執行するための現地手続き)が守護に認められた。

 続いて1352年(文和元年)には国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が与えられる。当初は臨時の処置であったが何度も申請され最終的には恒久的になっていく。1368年(応安元年)になると年貢どころか土地まで半分奪うことが認められてしまう。さらには荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請しゅごうけも行うようになり、段銭や棟別銭の徴収なども行うなど、段階的にその権力を増強し、ついには国衙を呑み込んで守護大名へと発展していく。

 ただここまで守護が大きくなると相対的に幕府の力は弱まり、実質上幕府は守護大名の連合政権へと変貌していく。畿内近国の守護は幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や、多くの分国を抱える場合などに、国人を守護の代官としたり、直属家臣の中から守護代を置いた。また守護代も在京していることもあり小守護代が置かれることもあった。

 なお大内や越後上杉のような地方有力守護の場合は京都に京都雑掌ざっしょう/在京雑掌が置かれることがあった。

 守護の恩典としては将軍の諱から一字をもらう一字拝領や白傘袋しろかさぶくろ毛氈鞍覆もうせんくらおおい塗輿ぬりごしが、有力守護になると屋形号や御朱采配が与えられる。

 そんな守護大名であるが、応仁の乱あたりからは度重なる戦乱に、各地の土豪の独立志向が強まり弱体化していくもの、逆に支配強化を成功させるものが別れる。

 最終的には豊臣秀吉の天下統一後に守護が置かれず消滅する。

 

守護代

 守護の下に置かれた役職。

 中央の政務に携わることが多く、任国を留守にすることが多かった守護に代わって領国経営を行っていた。また守護代も守護代の代わりになる小守護代を置くなど重層的な支配体制になっていた。

 室町時代では当初守護の一門や有力豪族を取り立てて守護代を任命していたが、徐々に世襲化し、守護に代わって実質的統治者になっていった。守護代になると唐傘袋からかさぶくろ、毛氈鞍覆、塗輿を与えられるなど守護に次ぐ格式が与えられた。

 土豪や国人が発展してくると守護と同様に没落する事例が多く存在したが、越後長尾や朝倉、織田、三好、尼子など戦国大名化した守護代もいたが、最終的には守護と同じく豊臣政権となると消滅した。


室町殿御分国

 室町幕府が支配権を与えられていた領域のことで、九州探題管轄の11ヵ国(九州+壱岐、対馬)、鎌倉府管轄の10ヵ国を除いた諸国になる。なお畿内の人間から見た日本国の領域に相当するらしい。

 

奥州総大将

 南北朝時代に奥羽の統制のために置かれた役職。

 斯波家長を充てたが北畠顕家の陸奥将軍府の手腕の前に、室町幕府の奥羽支配は遅々として進まず、挙げ句鎌倉で顕家率いる奥州軍に敗死してしまう。

 石塔義房が新たな奥州総大将として派遣され、二階堂氏などの実務官僚を引き抜いたり、郡検断職として既得権限を公認するなどして次々と有力武士を味方に引き入れ、国府を奪還する。しかし足利尊氏に独自支配の風潮が強くなったことを理由に解任されてしまう。

 その後は貞和6年(1345年)に畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命されたことで奥州総大将は廃止された。


奥州管領

 奥州総大将から改組された組織で、総大将が持っていた軍事指揮権に加えて、寺社興行権の保障と棟別銭の賦課、庶務・検断・雑務沙汰の審理、そして各郡代が持っていた使節遵行権を管領府が保有するようになる。

 畠山国氏と吉良貞家が任命されていたが、観応の擾乱前で畠山国氏と吉良貞家はそれぞれ尊氏派・直義派に属しており管領同士で相争うことになる。そして畠山国氏は吉良貞家に攻められて敗死すると尊氏派は失脚する。畠山国氏の息子である二本松国詮は二本松に移り奥州管領として執務し、そのまま二本松に定住して二本松氏となっている。

 なその混乱につけ込んだ南朝方北畠顕信に陸奥国府を奪取される。吉良貞家は反撃して国府を回復するも、文和2年(1353年)に死亡する。

 吉良貞家死亡後は吉良満家が継ぐものの、奥州総大将であった石塔義房の子義憲が奥州管領を自称、斯波家兼も奥州管領に任命されて下向してくるなど奥州管領はなぜか4人存在する状況となり、グダグダ血みどろな争いを広げていく。

 徐々に斯波家兼が優位に立つものの、国人や土豪に検断権などを付与したおかげで奥州では国人の力が非常に強くなり、戦国大名へと発展していく。一方で奥州管領はその権利を回収できないうちに鎌倉府に組み込まれ、室町と鎌倉の対立が深まると奥州探題設立に動いていく。

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