第五百三十一話 躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館 阿曽沼陸奥守遠野太郎親郷


 勝沼次郎五郎に連れられて甲府までやってきた。


「ほうこれはこれは」


 中々立派な館だ。躑躅ヶ崎館ってこの時代にはもうあったのだな。そして城下は京を模したのか条里制の中々面白い町割りになっており、甲斐の府ということで甲府と名付けたそうだが甲斐国の国府がここにあったわけではないそうだ。


「陸奥守様がなさっているように主だった武将をこの甲府に集めたのですが反発するものが多くございましてな。奴らを始末したと思えば此度の今川との戦でございまして」


「むう、大変であるな。しかしそれも甲斐がまとまるための産みの苦しみというものかもしれぬな」


「産みの苦しみ、でございますか。そうであればここは耐えねばなりませぬな」


 勝沼次郎五郎は少しつかれたような、しかし目をギラつかせて応じる。


「それではこの屋敷でしばしお休みくださいませ。兄に陸奥守様が到着為されたことを伝えて参ります故」


 そう言って勝沼次郎五郎は躑躅ヶ崎館から少し離れたこの屋敷からでていく。


「まさか招待されるとは思わなかったな」


「もし攻撃された場合はどうなさるので?」


 袰綿勘次郎が聞いてくる。


「其の場合は躑躅ヶ崎館もこの甲府という街もすべて燃やし尽くすさ」


「殿であればやりかねませんから、冗談に聞こえませぬな」


「そりゃあ冗談で言っているわけではないからな。騙し討ちと言うならばそれ相応の覚悟があってのことだろうよ」


 石油は持ってきていないが焼玉でも十分焼夷効果を期待できるものである。

 そしてどうせ聞き耳を立てて居るだろうから当たり障りのない話というか、やや恫喝する形で世間話をしていく。


 それから一刻ほどして勝沼次郎五郎が再びやってくる。


「お待たせいたしました。支度が整いましたのでご案内いたします」


「忝ない。ところで次郎五郎殿、少し汗をかかれているようだが」


「これはお見苦しいものを。少し急いでまいりました故」


「左様でござったか」


 袖で拭おうとしていたため懐紙を渡してやると少し驚きながら汗を拭き取っていく。


「重ね重ね有り難く存じます。いやしかしこの懐紙は何と手触りの良いことか」


「当家の資金源で御座るからな」


 かつてはこれが重要な資金源で当家の飛躍の起爆剤だったし、今でも重要な輸出産業で、他でも対抗して紙の品質が上がってきているようだが、生産量では当家がかなりを占めているという。紙座であっても当家の紙をもはや排除したままにすることが出来なくなってしまったようだ。


「なるほどこの甲斐と同じく米のとれにくい土地と伺っておりましたが、なるほどこの紙であれば合点もいきました。この紙とそこの樽が陸奥守様の飛躍の秘薬でございますか」


 次郎五郎は馬にくくりつけられた酒樽を見ながらそう言う。


 そして遂に武田信虎に面会だが俺の方が位階が上なので自然と俺が上座に案内される。どこぞの伊勢家とは大違いだな。


「阿曽沼左近衛少将陸奥守遠野太郎だ」


「武田左京大夫で御座います。此度は某の申し出に応じていただき恐懼に堪えませぬ」


「なに気にすることはない」


「貧しい地故、碌なおもてなしは出来ませぬがまずは宴でも」


 そう言って信虎が目配せをするとすかさず膳が運ばれてくる。それにしても粗野で怒りっぽくちょっとしたことで首を刎ねる奴と聞いていたが今のところそういうそぶりを見せていない。


「ふむ、折角だ。陸奥の酒を少しだが持ってきておるでな馳走しよう」


 そう言うと皆の顔が華やぐ。


「左京大夫殿には小樽一つお渡ししよう」


「これは重ね重ね忝く存じます」


 そして開けられた酒は腐りにくい焼酎だ。


「ぶふぉぉ!こ、これは!」


 一口含んだ武田信虎が吹き出す。


「これは腐りにくくするために酒精を強くした酒だ。焼酎という」


「か、斯様に酒精の強い酒が有るとは」


 他にも煽ってむせ込んだ者がいくらか見られる。


「陸奥守様は何故斯様な酒をお作りに?」


「当家の海軍では万里の波濤を越えて船を出しているのでな」


 あとは消毒などにも使える。そのまま呑むと喉が焼けるような感覚になるが、それもたまになら悪くない。


「ば、万里の波濤を……いやこの山に囲まれた甲斐では想像だにできませぬな」


「どうだ。もし其方等が望むなら海を見せてやってもいいぞ?」


 俺の言葉に場の者がざわつく。


「そ、それは阿曽沼の軍門に下るということで御座いましょうか」


 勝沼次郎五郎がおずおずと聞いてくる。


「それでも俺は一向に構わんが、今川を倒すのであろう?」


 諏訪も俺と誼を持っているから出るとすれば駿河しかもはや無いのだが、今川と伊勢に挟まれては一時的に駿河湾にたどり着けても維持出来ぬだろう。疲弊するだけで得るものの少ない戦をするしかなくなるわけだ。


「そ、そうで御座いました。しかしまずは今川をこの甲斐から追い落としたく」


「であれば後ほど今川に甲斐から兵を退くよう文を出そう」


「は、た、戦わぬのですか?」


 武田信虎が虚を突かれたかのように固まる。


「ふむ、噂に聞く甲斐の騎馬武者を見てみたいが、戦をせずに今川が退けば民は疲弊せぬだろう」


 甲斐に入ってここまでの道すがら見た民の中には痩せて全身土気色になりながら腹だけ出ているものが老若男女問わず所々で見られた。前世のテレビで見たアフリカの飢餓の人みたいだからおそらく栄養失調なのだろう。そんな状況で戦などやってられんだろう。


「もし今川が退かぬ場合は」


「無論力尽くで駿河にかえってもらうさ」


 俺の返答は気に入らないようだが流石に斬りかかってくることはなかった。その後武田信虎はやけになったのか焼酎を呷ったかと思ったらひっくり返って寝てしまったので躑躅ヶ崎館を辞してきた。


「殿、ご無事なようで」


「うむ、焼酎を飲ませてやったらひっくり返ってしまったのでな」


「ははは!それはそれは。ところであまりこの甲斐は良い土地ではないようですな」


「どういうことか」


「このあたりにははらっぱりという奇妙な病があるようでして」


「奇妙な病だと?」


「よくわかりませぬが貧しい者ばかりかかる病だそうで」


「それは食い物が足りぬからではないのか?」

 

 たまに武将にもかかる者が居るようだが大方酒の飲み過ぎであろうよ。それ以外は貧しいようだからやはり栄養失調なのだろう。なんとかせねばならぬが直ぐにはどうにもならぬな。


「わかりませぬが、殿であればわかるのではないかという民がおりました故」


「生憎と俺は医者ではない。流石にそれだけではわからぬ」


 帰ったら田代三喜に聞いてみるか。奴なら何か知っているかも知れぬ。

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