大永6年(1526年)

第五百三話 化学史も変わりそうです

鍋倉城 阿曽沼陸奥守遠野太郎親郷


 年が明けて公式発表として又三郎の祝言を発表した。四条家からの嫁入りで公家からの嫁入りばかりでは少しよろしくないが断れるでも無いので仕方が無い。


 それはともかく又三郎の祝言までは戦がなければ良いんだがと思ったがなかなか難しい。

 年末年始の祝い酒にメチルを混ぜ込んで長尾為景の居館に運び込ませることまでは上手く行ったようだが、たまたま酒好きの下人がこっそり呑んで死んでしまったので長尾為景の手元に行く酒が全て改められてしまったという。


 それだけでなく長尾為景も敵が多いのでかなり疑心暗鬼となって上へ下への大騒ぎとなり、特に外様の屋敷に押し入って毒物がないか改めたり、城下の酒屋も改めているとか。


 更には酒類の製造や販売まで制限をかけているようで酒屋や酒好きの家臣等が陳情していて一悶着起きているようだから、暗殺には失敗したけど足を引っ張ることには成功しているようだ。


 一方で今川氏親には酒を飲ませる前に倒れて半死半生だと言うから作戦は遂行できていない。こちらはおそらくそういう運命なのだったのだろう。しかしまだ仮名目録は無いようなので死の淵にたった今から書くのだろうか?


「また悪さしたの?」


「雪か。まあ上手くは行かなかったようだけどね」


「焼酎の副産物で捨てるにも困ってたから使うのは良いけど、ほどほどにしときなさいよ」


「そうするよ。ところでまだメチルアルコールはあるかい?」


「あるけど何?燃料にするの?」


「それもいいけどホルマリンを作りたいんだよ」


「ホルマリンを?何に使うつもりなの?」


「勿論一番の使用目的は防腐剤だよ」


 ホルマリン漬けの生物標本とか前世の子供の頃に見てちょっと怖かった記憶だ。毒性の強さからシックハウス症候群なんかの問題もあったと思うけどホルマリンで固定してパラフィンで包んでしまえば数百年保管できる標本ができあがるんだから学術上大事なものだろう。


「あーなるほどね」


「生物標本にするなら後は硝子容器があればいいからね」


 問題はその硝子だが。


「イスパニアの船員に硝子を作ってたのが居たんでしょ?」


「借金のカタとして船に乗せられてきたようだが蒔絵の器と交換で手に入れた」


 そいつを庵治得に預けてやったのだが言葉がわからないのでかなり苦労しているようだ。


「早くガラスが手に入るといいわね」


「本当にな」


 ガラスは使える幅が広いから早く使えるようになって欲しい。


「あとホルマリンは前世では使用禁止されてたけど農薬としても使えるよ」


「そうなの?」


「もともと殺菌性が強いからね」


 濃度にもよるんだろうけど確かだいたいどんな菌でも殺菌してくれたはず。


「使って平気なの?」


「木酢液にも含まれているし、生体内でも合成されているから低濃度であれば特に問題は無いよ」


「あぁそう言えばそういう話もあったわね」


 雪が頭を押さえながら前世の記憶をたどっているようだ。


「水質汚染につながるからいずれは無くしたいけど今は収量を増やすほうが優先だからな。あとなにかの樹脂の原料にもなるはずだが、そっちはよくわからないからなんとも」


 メタノールのホルマリン合成から始まる有機化学ってなると化学史まで変わってしまうな。


「樹脂……プラスチックね。あればすごくすごいことになりそうね」


「割れないし物によっては耐薬品性も高いしいいものだ」


「ほんと前世は便利な時代だったわ」


「この時代に来たことを後悔してる?」


「そんなつまんないこと聞かれたことを後悔しているわ」


 そう茶化してくれた。



 雪との話を終えて藤子の部屋にやってきた。


「具合はどうか?」


「今日は幾許か良いですわ」


 藤子は大丸を産んでから何度か熱を出してすっかり痩せてしまった。食事はとっているものの少しずつその量を減らしている。医者にも診てもらったがあまりこれという手立てが無いと。藁にも縋る思いで一粒金丹や少量の酒を飲ませてみたが効果は捗々しくなかった。


「ね、御屋形様?そんな心配そうな顔をなさらないで。藤子は必ずまた元気になって次の子を為しますし、お姉様とともに馬を駆けてご覧に入れますわ」


「そうだな!きっとそうなってくれるに違いない」


 空元気かもしれないがそう言ってくれると心が休まる。


「でもそうね。父には文を出しましたが」


 一拍の間をおいて藤子が続ける。


「妹の慶子を娶ってくださらないかしら」


「何を言っておる……」


 確かまだ十四くらいの歳だったと思うが。それを娶れとは。


「あの子は私よりも身体が丈夫ですし、何よりあの子も遠野の草紙が好きですの。時々送ってやっていたので、こっちに下向できるならきっと喜びましょう。それに御屋形様の事を文に認めておりましたらとても興味を持ったようですの」


 一体何を書いたんだろうか。それに姫が下向となれば基本的には嫁ぐということになるか。しかしそれでも十四の娘を娶るのか。


「こういうことを申し上げるのもどうかと思うのですが、あの子が今の乱れた畿内のどこそこの家に入れられてしまうというのを見るのも忍びないですわ」


 うーんでも史実だと大樹に嫁ぐのではなかったか。まあ史実に較べて畿内の状況は悪いようだからそう思うのも仕方が無いのかもしれない。が、しかしそのようなことを言うのはやはり……。


「御屋形様、そんな哀しそうな顔をなさらないで。先程も申しました通りきっと良くなってまた子を為してご覧に入れますから」


 多分今日明日ではないのだろうけどあまり永くはないのだというのが本人にはよくわかっているのだろう。


「わかった。必ずや元気になるのだぞ。これは阿曽沼の当主としての命だ」


「はい。必ずや果たして見せますわ」


「それとだ、十四くらいの娘であれば孫四郎のほうがいいだろう。あいつも今年十一、少し早いが歳の近い方が話もし易かろう。そもそも准三宮様がどう言うかわからん」


「確かにそうですわね。ふふ、妹が下向したら改めて話してみますわ」


 ちょっと元気が出たようだ。それにしても妹が当家に嫁ぐのがすでに既定のように言われても困ってしまうな。公家のなかでも色々あるだろうに本当にいいのか俺にはわからん。

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