〈他家紹介17〉〈宗派紹介17〉

〈他家紹介17〉

尚氏(第二尚氏・琉球王国)

 琉球王朝第二尚氏王朝の王族。

 始祖の尚円は伊是名島出身の百姓と言われ、その元の名は金丸とされるが詳細不明。各地を転々とした後に第一尚氏第6代尚泰久王(越来王子)に仕えていた。

 1454年に第5代尚金福王の後継争いで王子の志魯と王弟の布里の間で乱が起こり共倒れとなり、尚泰久王が即位する。すると側近であった金丸は御物城御鎖之側(おものぐすくおくさりのそば)という役職に引き立てられる。

 1460年に尚泰久王が没すると、第7代尚徳王により失脚するが、1469年にクーデターを起こして王位を簒奪する。なお尚徳王は足利義政に贈り物をして方冊蔵経の返礼を受けていたが、喜界島を制圧を強行したおりで家臣らから見放されてしまい、尚徳王に死後に反乱が発生する。世子を斬り、一族は概ね追放か死罪とされた。

 こうして王位を簒奪した金丸は尚円を自称し第二尚氏王朝を打ち立てる。1472年に明から冊封使がやってきて名実ともに琉球王となる。

 第三代尚真王の代になると1500年に八重山で赤蜂の乱、八重山が琉球に朝貢を断り宮古を攻めたため琉球と八重山で戦争となり、これを制圧している。次いで1522年に与那国島を征服した(鬼虎の乱)。

 尚真王の時代は軍事だけでなく按司を首里に集めて中央集権化が推し進められ、間切(まじり)という行政区画を制定する。文化面では尚真王の時代に芥隠承琥という臨済宗南禅寺の僧を招聘して円覚寺を建立した。

 1571年、尚元王の時代に奄美大島を征服し、琉球王国の最大版図を形成する。

 しかし秀吉が天下統一を果たすと、状況は徐々に変化。まず朝鮮征伐の折りに秀吉から兵と兵糧を差し出すよう命令されるが、明の冊封国であることからこれを拒否し命じられた兵糧の半分だけを差し出し、残りは島津家が負担した。

 他に島津家の渡航朱印状が無い船の取り締まり依頼を無視し、明との関係修復を江戸幕府から依頼されたがいざこざがあったこと、先述の琉球王国による奄美侵攻などで日琉間の緊張状態が高まっていた。さらに家康から謝恩使を寄越すよう再三通達されるも無視したため幕府は琉球征伐の水軍を興そうとしたが、島津家はそれを琉球王国に伝えて家康に使者を送るよう伝えた。しかし琉球王国は却って島津を侮辱し完全な敵対関係となる。

 幕府より琉球征伐の命令を受けた島津家は樺山久高を大将に3000の兵をつけてまず奄美大島へと侵攻を開始する。しかし奄美大島の按司は島津に寝返り奄美大島での戦闘は生じていない。一方で徳之島では抵抗激しく一時島津軍を海へと追い返し、最終的に島津軍に敗れるものの島津側にも幾ばくかの被害をせしめている。

 島津軍が今帰仁に到着すると講和の使者が送られて来て、首里で和平交渉を行う旨で合意したが那覇港が封鎖されていると聞き牧港から兵を上陸させて徒歩で首里城を目指した。

 道中の浦添城などで戦闘があったが島津軍が鉄砲を雨のように撃ちかけたため戦意喪失し首里城に逃げている。首里城では越前出身の御典医である山崎二休が激しく抵抗していたとされる。なお戦闘は島津軍が首里に火をかけて終了。尚寧王は捕縛されて与論島以北が島津に割譲され、琉球王国は島津の付庸国(属国)となった。

 なお付庸国となることを拒んだ対日強硬派の謝名利山は斬首され、尚寧は駿府、そして江戸に連行され家康と秀忠に謁見している。以後琉球国王の代替わりに謝恩使を徳川将軍の代替わりで慶賀使を送ることになる。

 そして1636年尚豊王の時代に琉球国王の王号を奪われ以後1712年の尚敬王の時代まで琉球国司とされた。

 次に大きく動くのは1853年のペリー率いる黒船来航で領事裁判権などを含めた琉米修好条約が結ばれ、続いてフランス、オランダとも同様の条約を締結している。

 明治維新後に廃藩置県に伴い琉球王国は鹿児島県に編入され、尚氏は侯爵に叙せられ、明治の年号使用と侯爵の上京、そして清国の冊封から離脱することを命じられたがこれを拒否する。

 明治12年(1879年)政府は処分官松田道之を筆頭に随行員、警官、軍併せて600名を送り、ここに琉球処分が行われ琉球王国は滅亡した。

 尚氏の現当主は現在三重県在住だそうです。


〈宗派紹介17〉

 伊勢神道

 伊勢神宮で興った神道の説。外宮の渡会(わたらい)氏が創始したことから度会神道あるいは外宮神道とも。

 内宮の天照大神に対して外宮の祭神である豊受大神(とようけびめ)を天地開闢前に存在したとされる神を国之常立神(くにのとこたちのかみ)や天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同一視することで外宮の権威を高めようとした。また世界の根源を求めるに於いて、天地開闢の神を根源とし、その神力で現世に顕現したものを天照大神として捉えている。

 また徳目として正直と清浄を、思想として神国思想がある。神国思想は日本に住む万民は全て等しく神の子孫とする「万民神胤観」を有する。

 こうした思想の中から吉田神道が派生するが、江戸時代になると伊勢神道では神仏習合を強く否定し、代わりに儒教を適宜用いるようにという思想に変遷していく。しかし江戸時代も半ばを過ぎると国学が盛んになり神道と仏教や儒教と集合することが批判されるようになり勢力は衰えていき、最終的に明治4年神職の世襲を禁止されたことで渡会氏が外宮祇官を解任され終焉する。

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