〈他家紹介11〉〈宗派紹介11〉
〈他家紹介11〉
鮭延(さけのべ)氏
15世紀後半に近江鯰江(なまずえ)から下向してきたとされる一族。当初は小野寺氏の客将として最上地方に派遣されていた。その後小野寺氏の内紛が起こると1521年(天永元年)と1535年(天文四年)の岩崎合戦で二代続けて当主が討ち死にする。
その後、天文年中に典膳正貞綱という者が鮭延荘に鮭延城を築くなど、小野寺氏の南進のために真室郷鮭延に派遣され、鮭延氏と名乗るようになる。
1581年(天正九年)に最上義光に攻められた際には長期に渡って抵抗するものの最終的に開城し最上氏の将となっている。
最上氏に属した後は1586年(天正十四年)に小野寺氏が真室庄を攻略しようと進出してきた際に、最上本隊が裏崩れを起こし膠着状態になったが、鮭延秀綱が小野寺に打ちかかるなど活躍を見せ小野寺を追い返すが戦自体は痛み分けになり、小野寺家中の切り崩しを成功させるなど硬軟使い分ける名将であった。その後も関ヶ原合戦では長谷堂城の戦いで活躍を見せ、後世、元禄年代に出版された奥羽永慶軍記でも鮭延秀綱の活躍が記されるほどであった。
なお鮭延氏は最上騒動で主家の最上氏が改易されると佐倉藩預かりとなり以後養子を使いながら続いているらしい。
樺太アイヌ
樺太アイヌ語でエンチウという。
南樺太に存在したアイヌ系民族とされる。明治8年の段階で2372人が存在した。
アイヌ文化流入前はオホーツク文化(最盛期は北海道オホーツク地方、北方四島まで広がっていた様子)があったが、いつ、どの様にアイヌ文化に置き換わったかは不明だが、13世紀にはアイヌ文化が入ってきており、かつ南樺太のみを居住区としていたことから北海道から移住し、土着のニヴフなどを押し退けて定着したものと思われる。
そんな樺太アイヌは居住区の北方に存在したニヴフ(ギリヤーク系民族)を使役していた。一方でニヴフは元王朝に朝貢していたため、元による樺太侵攻が起こり、最終的に元に朝貢することとなり以後三丹交易に繋がっていったとされる。
なお三丹交易によってもたらされる蝦夷錦などは松前藩が幕府に献上するための大事な品になっていたが、この蝦夷錦を得るためにアイヌは途方もない借金を背負い、借金のかたとして三丹人(ウリチ族)に連れ去られるなど悲惨な目にあっている。
そんな樺太アイヌであるが、近世になりロシアが極東に進出してくると日露間の外交に振り回されることとなる。まず千島樺太交換条約で樺太がロシア領となる際に、担当官の松本十郎がなるべく環境の近い宗谷で漁労に従事させようとし当時2372人居たアイヌ含む南樺太先住民のうち841人を宗谷郡に移住するよう説得した。しかし移住した翌年に当時の開拓使長官である黒田清隆はその約束を反故にし石狩郡で農業に従事させるよう銃で脅して強制移住させる。結局ニシン漁やサケ漁に出稼ぎに行くようになり、また当時大流行したコレラと天然痘で300人が犠牲となる。日露戦争で南樺太の領有権を得ると大半は故郷の南樺太へと帰ることとなる。
なお太平洋戦争末期のソ連侵攻で南樺太のアイヌは大半が北海道に避難している。一方で残った樺太アイヌはアイヌと名乗ることを禁じられ、現在もアイヌという民族名は使用できないことから、ロシアにおける樺太アイヌは民族として消滅している。
千島アイヌ
北海道アイヌの言葉でチュプカウンクルと呼ばれていた。チュプカは北海道アイヌの言葉で東の意味で、東の人ということになる模様。千島アイヌの自称としてはルートンモングル(西の人)と称し、北海道アイヌのことをヤムグル(南の人)と呼んでいた。
千島アイヌが成立したのは15世紀頃とされる。それまではオホーツク人が居住しており、ゆっくり同化されていったらしい。北海道アイヌと沈黙交易で交易するのみで日本人にはほとんど認知されていなかった。
そんな千島アイヌであるが17世紀末にロシア人が進出してくると状況が一変する。ラッコなどの毛皮を税として取り立てられるようになる。江戸幕府も千島列島に進出しており、国境画定が必要となったことと、樺太が日露雑居地となっていたことで紛争が頻発していたことから、千島樺太交換条約により日本領となる。これにより千島及び南樺太のアイヌは日露どちらかの国籍を選択を強いられる。日本国籍を選択したものは既にロシア化されていたので色丹島に強制移住させられた。移住により生活環境が大きく変わったことで人口が激減。生き残りも虐待されたり、既にアイヌ語を捨てていたりで千島アイヌ語については詳細は不明となっており、千島アイヌという民族は少なくとも文化的には滅びたものと思われる。
なおコロポックルは千島アイヌを指すとする説があるが、コロポックル伝説では北海道アイヌに迫害されて追い出されたというものがあるが詳細不明。
〈宗派紹介11〉
皇室神道(宮中祭祀)
宗派と呼ぶべきではないでしょうけども。
天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀のことで、始まりは日本書紀に書かれた、天照大神が瓊瓊杵命に鏡を天照大神と思って奉れと言ったものとされる。つまり日本書紀の書かれた奈良時代には既に宮中祭祀が行われており、延喜式で一応の確定を見る。
応仁の乱以降、戦国時代になると皇室の困窮などにより大嘗祭などいくつかの祭祀が中断している。また秀吉による陰陽師の弾圧でそれまで陰陽道の影響の強かった宮中祭祀が神道の影響が強くなる。
江戸時代になり世相が落ち着くと宮中祭祀の復興の機運が高まり、大嘗祭や新嘗祭など中断していた宮中祭祀が復興する。
明治時代になると大宝令、貞観儀式、延喜式などを基に再編され、昭和帝の頃から天皇自ら田植えをするようになる。
太平洋戦争敗戦後は宮中祭祀について明文化された取り決めはなく、内廷費から費用も出されるようになり現代に至る。
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