第三百五十九話 印刷業が発生するかもしれません

鍋倉城 阿曽沼遠野太郎親郷


 遠野に帰還したときにはそろそろ稲刈りが始まるという時期だった。今年も遠野はそこそこの収穫量のようだ。


「えー!温泉に浸かってきたの!ずるい!私も行きたい!」


 色々と事務的なことを終えて久しぶりに雪と二人きりになったと思ったら途端にこれだ。


「いや、そんなこと言われてもな……」


「うー、殿ばっかりずるいずるい!」


 まるで子供のように駄々を捏ねられても……いやまあ見た目はまだ子供だけどさ。


「いやいや、戦争に行ってたんであって物見遊山な訳では無いんだし、それに俺も楽しみにしていた草紙の読み合い会に参加できなかったし」


「あ、あぁ、読み合い会ね……、そうね、殿は参加できなかったもんね、それは残念だったわね」


 怒りは収まったようだが、何故か後半は棒読みになっているが、良い作品が無かったのかな。


「なあ良い草紙は無かったのかい?」


「えっと、あぁそうだ、ちょっと待って」


 そう言って雪は自分の長持から数冊の草紙を取り出す。


「これは?」


「これは紗綾が書いた絵草紙ね。こっちは高水寺の千寿院様が書かれた草紙ね」


 紗綾の絵草紙はなるほど、前世で見たことあるような変身ヒロインが戦う漫画だ。


「なんか懐かしいような内容の漫画だな。紗綾はなかなか発想が自由だな」


 この時代の人間のはずなんだけどな。


「なぁ雪、紗綾ってもしかして転生者なのか?」


「そうだと思うんだけど、本人はそう思っていないみたい」


「転生したとは思っていないのか」


「そういうことみたいね。これまでも色々振ってみたんだけどとぼけている感じじゃ無かったわ」


 それは残念だが、文化面で牽引してくれるなら悪くはないか。


「あまりつついてこの感性を駄目にするのもかわいそうだしな。で、こっちの千寿院の草紙は……死んだ斯波詮高と孫三郞が極楽で楽しく酒を酌み交わす話か……」


 殺さずになんとか出来れば最善なのだろうが、向こうは殺す気で向かってくるからこっちも殺す気で行かないと死んでしまうからな。


「やっぱり見せない方が良かったかな……」


「いやいや見せてくれてありがとう。こういうのが書けるのであれば千寿院は大丈夫であろう。ところで熊千代は参加したのか?」


「興味ないらしいわ」


 まあそれもやむを得まい。俺に対抗すべく文武に励んでいるようだから、草紙などに心を奪われる暇は無いということだろうか。しかし、まだ十歳くらいなのだから読ませればハマるかもしれないのよな。なにか滑稽本とか良いのがあれば書の中に紛れさせてしまうか。


「それはそうと、温泉よ、温泉!」


 ちっ、話を逸らせたと思ったんだがな。


「この近くだと夏油温泉はあったんだが道がないのでなぁ」


「鉛温泉は?」


「そういえば報告を受けていたような……」


 発見報告の書類が来てたと思うけど、他の書類にまぎれてすっかり失念していた。確か木こりが小屋を建てて使かっているとかなんとか。


「早くいきましょうよ!」


「って言ってもね。小屋レベルならともかく俺たちが使う建物となるとすぐには出来ないからな」


 まさか三十万石の大名が戦場でもないのに掘っ立て小屋を使うわけにはいかないからね。


「早く造ってよね」


「はは……来年の予算に入れておくよ」


 何にしても優先すべきは俺達の環境改善ではなくて領民が食えることだからなあ。まあ湯治宿にしてやるのも領民への福利厚生と考えれば悪くはないか。源泉が五つもあるそうだから一つを賓客用、一つを俺たち武将が使うもの、一つを軍の保養所にして戦傷を癒やすのに使って、残り二つは今まで通り民が使うようにしておこうかな。



鍋倉城 阿曽沼雪


 温泉は造ってもらうことになったからまあいいか。本当は早く行きたいんだけどそうもいかないししょうがないわね。

 それにしてもお盆に帰ってこられなくてよかったわ。思ったより腐臭のする本が多くて困ったわ。お坊さんが譲ってくれと頼んでいる場面もあったし。母様はなぜか百合物を描いてたけど、もしかして女色だったのかしら。にしても思ったより読み合い会は盛況だったわ。まさか五十人も集まるとは思っていなかったし。娯楽が少ないからこういう会合に出たいのかもね。


「雪様、写本を手伝っていただけませんでしょうか」


「あら紗綾、私は男色に興味なくてよ?」


「そんなぁ」


「それにそんなにたくさん写本するのなら木版を作ってやればいいじゃない」


「木版ですかぁ、まあそうですよね。でも誰かできる方が居るでしょうか」


「できる人を見つけるよりはできる人を育てたほうが早いかもしれないわよ?」


 確か奈良のどこかの寺では木版でお経を刷っているとか聞いたことがあるから、上方にはそういう技術があると思うけど、こんなところまでは来てくれないだろうし。


「それもそうですねぇ、雪様、殿にお願いしていただけないでしょうか」


「あのねぇ、殿がなんでも私の言うことを聞いてくれると思ってるの?」


「え?違うんですか?」


「そりゃそうでしょ」


 遠野のためになるかもと言うことに関しては、確かに聞き入れてくれるけど、それは私だけじゃなくて皆にもそうだからね。


「紗綾が直接お願いしたら聞いてくれると思うわよ?」


「ではそうしてみます」


 さてこれで興味のない本の写本を強請られなくなるわね。ふふ、良いことだわ。

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