〈他家紹介⑦〉〈宗派紹介⑦〉

北氏:南部氏の庶流の一つとされる家だが北信愛の代までの家系は判然としない。

 三戸城の北にある剣吉城に居を構えていたので北氏と呼ばれるようになった。

 北信愛は南部晴政の跡継ぎ問題で南部信直を保護したため南部晴政と対立した。またその傍ら前田利家に遣いとして赴き、南部信直が正当な後継者となるよう働きかけるなど、南部信直の股肱の臣として身を粉にして働き、南部信直の重臣として九十一年または九十三年と言われる長い人生を駆け抜けた。


南氏:南部氏の庶流。南部政康の三男、南部長義に始まる家系。浅水城(青森県五戸町)に入って南部領の守りを固めていた。邸は三戸城の南側にあったことから南殿と呼ばれるようになり、そのまま南氏になったらしい。

 九戸政実の乱では南部側として戦い、櫛引氏による野伏にまんまと引っかかって当主が討ち死にした。その後跡継ぎに恵まれず南部利直の代に断絶。南部利直の庶子利康に南氏を継がせることとなる。


下国(しもぐに)氏:安東家に連なる蝦夷の豪族。その始まりは嘉吉三年(1443年)、南部氏に攻められ十三湊(とさみなと)を奪われ蝦夷ヶ島に逃げたことに始まる。その後奪還の為兵を起こすが南部氏に歯が立たなかった。

 道南十二館を築き、蝦夷地支配を確立していくがアイヌとの抗争、それに乗じた蠣崎氏の奸計により没落し蠣崎氏の家老となり、現在まで続いているらしい。


〈宗派紹介⑥〉

興福寺:法相(ほっそう)宗大本山。法相宗は玄奘三蔵の弟子である慈恩大師が開創した宗派。日本には653年白雉4年に玄奘三蔵に師事した留学僧の道昭がもたらした。主な寺院は興福寺の他に薬師寺と法隆寺。後に法隆寺は聖徳宗を名乗り離脱する。

 興福寺は南都七大寺の一つで建立者は藤原不比等。建立は不比等が病となった際に妻の鏡王女が平癒を祈念して創建した山階寺(京都市山科区)が起源。壬申の乱の後、藤原宮に都が戻ったときに高市郡厩坂に移転し、厩坂寺となる。さらに710年の平城京遷都の折には現在の場所に移転させ興福寺となる。中金堂、堂塔の整備など伽藍の整備が行われる。以後藤原北家とつながりが強く手厚く保護され、大和国の荘園の大部分を有し、事実上の大和国の支配者となった。その影響力は比叡山と並ぶ強大なもので「南都北嶺」と呼ばれるに至る。

 興福寺自体は落雷や火事、戦乱などで何度も焼失しているが、藤原長者などの支援もありそのたびに再建なされている。ちなみに武家政権となった鎌倉時代以降も手が出せず大和国を統治し続ける。ようやくその状況を打破したのは戦国時代となり松永久秀が討ち入って南都が焼け、信長が検地を行い2万1千石の知行とされた。それはそのまま江戸時代まで引き継がれることとなる。

 なお明治維新後の神仏分離令が出た際には廃仏毀釈運動がかなり激しく行われた寺院の一つだったようで、江戸時代までの行いがどういうものだったかはお察し案件か。特に興福寺別当で門跡寺院である一乗院と大乗院の門主は真先に還俗し、水谷川家(みやがわけ)と松園家となり奈良華族となった他、18箇所あった末寺と関係を解消し、83箇所あった子院などはすべて還俗した。

 明治3年には寺領を没収され、明治5年には廃寺にする通達が来たがこれはなんとか免れた。没収された境内は現在の奈良公園となり、築地塀もなくなって興福寺が奈良公園の一部となってしまった。一乗院跡は奈良地裁、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。更に五重塔も売りに出されて燃やされそうになったが観光客誘致のために残されたという。

 門跡寺院として一乗院と大乗院があるが、一乗院は近衛家が管轄し、近衛家流の子弟や親王家が門主となっていた。この流れで足利義昭が「覚恕」として門主となっていた。また大和国の戦国大名である筒井氏は一乗院の衆徒筆頭であった。大乗院は九条家の管轄で九条流である、九条家、二条家、一条家が門主を務めていた。なお足利義昭が将軍職を追われた後、足利義昭の息子の足利義尋が門主を務めたが、一乗院とは異なり親王家が門主を務めたことは無い。

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