〈他家紹介⑥〉〈宗派紹介⑥〉

八戸氏(根城南部):南部氏の庶流の一つ。南部光行の五男、南部実長を始まりとする。

 甲州波木井を拠点としたため波木井南部とも。南部実長は日蓮と仲がよく身延山久遠寺ができるまでは館に寝泊まりさせていたらしい。そのこともあり実長は熱心な日蓮宗の信者となっていた。実長の嫡男長継は南部本家から南部師行を養子に迎え、安藤氏の乱の征伐の為、糠部郡(現青森県東部~岩手県北部)に遠征。その後南部師行の弟である南部政長は新田義貞軍に加わり鎌倉を攻めている。

 中先代の乱では北畠顕家の配下として南部信政が加わり、足利を蹴散らす。その間に南部師行、南部政長は津軽における北朝方の津軽曽我氏と戦っていた。その後は勢力を盛り返した足利尊氏を討伐すべく北畠顕家とともに上洛するも石津の戦いで北畠顕家とともに戦死した。

 その後南朝方が徐々に不利となり、北朝方に転向する家が出てきても頑なに南朝方として北畠を支え奥州各地を転戦。観応の擾乱では奥州府中を落としたが北朝方に奪還されている。その後南部信光が北奥に残る北朝方、曽我氏を滅亡し、糠部郡に戻る。

 南北合一後も当初、南部政光は足利幕府に恭順しなかったが、三戸南部守行の尽力もあり波木井を返上し八戸を安堵された。この事により八戸と三戸の力関係は逆転し、以後三戸南部の力を借りながら津軽より安東氏を放逐する。

 康正三年(一四五七年)に蠣崎蔵人の乱が起きると水軍を使って田名部(現むつ市)を強襲し壊滅させている。敗れた蠣崎蔵人は蝦夷に逃れ、後の松前氏へと続いていく。

 天文八年(一五三九年)に時の当主南部義継が没すると後継者争いが生じ、最終的に南部勝義が家督を継ぐこととなったが、八戸の凋落を決定づけ、さらに南部晴政が上洛の上偏諱を受けたことにより三戸南部が南部氏の代表となる。

 最終的に秀吉の小田原征伐に際して、出兵すれば独立を維持できたが九戸政実が蜂起することが予想されたことから三戸の家臣へとなるも領内の安定を優先することとなる。南部信直の謀略により阿曽沼を遠野から追い出した後は伊達藩との境界となる遠野に転封され、以後遠野南部として残り、明治維新後は士族となるところ、南部師行の南朝への忠義を認められ、男爵位となっている。


戸沢氏:桓武平氏の流れ。元々岩手郡雫石庄戸沢村(現御所湖の最上流部付近)に平衡盛が木曾義仲に辟易して下向したことに始まるとされる。十代ほど後の戸沢家盛の時代に出羽国角館へ移住し、戦国大名への発展を始めた。戦国初期には安東氏と激しく争い、これを撃退したかと思うと家督相続の問題で家中が荒れ、これもなんとか落ち着いたかと思うと小野寺に降伏一歩手前まで追い詰められるなど波乱万丈であった。十八代当主戸沢盛安の登場すると一変し、最上氏と連携しながら小野寺氏を牽制しつつ安東氏を仙北から叩き出し、さらに小野寺氏の庶長子である大築地秀道を撃破するなどし、角館地域を確固たるものとした。また、信長に鷹と名馬を贈り、秀吉の小田原征伐に参陣するなど抜け目なく外交するが、戸沢盛安は小田原で戦死、弟の光盛は朝鮮征伐に参加する途中の姫路城で病死。関ヶ原合戦では東軍に属したが消極的であったため常陸国松岡(茨城県高萩市)に転封、江戸幕府の重臣鳥居忠政の子、戸沢定盛を養子に迎えたため譜代大名となり、新庄城に加増転封となり新庄藩となる。

 

小野寺氏:藤原姓秀郷流(藤原北家魚名流)山内首藤氏の傍系。下野国都賀郡小野寺を所領としていた。奥州合戦の功により出羽国雄勝郡の地頭となる。承久の乱では幕府軍として参戦し、時の当主小野寺道縄は宇治川の戦いで戦死している。ちなみに出羽国に下向したのがいつかはわかっていない。

 小野寺経道の時代に雄勝郡稲庭に稲庭城を築き、力を蓄え仙北三郡(雄勝・平賀・仙北)を支配するようになる。天文年間になると家中が乱れ、一族の中で叛乱するものがおり、これを討って横手城に本拠を移すこととなるが、この間の経緯は家伝などが散逸しよくわかっていない。

 永禄から天正年間にかけて安東氏、戸沢氏、由利十二頭、最上氏と抗争を繰り返し徐々に衰微していく。秀吉による全国統一が成り、検地が行われると、やってきた上杉景勝軍が極めて横柄であったため、伊達政宗の扇動もあり百姓一揆が起こる仙北一揆騒動が起こる。これにより小野寺氏は上浦郡の三分の一を最上氏に割譲することとなる。さらに最上氏に攻め寄られ関ヶ原の戦いまで戦闘が繰り返されることとなり、最終的に東軍に属するが、最上氏との戦闘は終わらず、取り潰し、石見国津和野藩預かりとなる。最後は上杉、最上、伊達に翻弄された哀しい家。

 ちなみに石見国に流された小野寺義道の子供の一人は境遇を憐れんだ戸沢安盛に客分として拾われ、もう一人の子である宮内は赤穂浅野家に入り、その子孫は赤穂浪士の小野寺秀和、小野寺秀富、岡野包秀である。


〈宗派紹介⑥〉

曹洞宗:禅宗の一つ。日本では道元が1227年(嘉禄3年)に持ち帰ったことが起点。道元自体は宗派を名乗ることに否定的であったため、禅宗とすら標榜していなかった。禅宗の一派である日本達磨宗が合流し、道元が没すると禅宗と名乗るようになり、第4代瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)、第5代峨山韶碩(がざん じょうせき)の頃から曹洞宗と名乗るようになる。

 教義は各人が座禅を通して悟りを開くことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は「只管打坐」で何も考えず禅を組むというもの。

 帰国した道元はまず京都の興聖寺を開き、後に越前に下って大佛寺、現在の永平寺を開く。第4代瑩山紹瑾は能登總持寺(現在の場所に移転したのは1911年)を開山し移ったため永平寺は一時廃寺寸前までなった。第5代峨山韶碩の頃に再興した。

 応仁の乱までは成長を続けたが、以後は衰微し俗化がすすみ、学徳よりも地位や富を優先するなど頽廃していく。江戸時代には月舟宗胡らが復古運動を行っている。

 現在曹洞宗内の寺院は15000寺、永平寺と總持寺の貫主(住職)が交互に管長となっている。かつては奥州市の正法寺が第三本山、熊本市の大慈寺が九州本山とも呼ばれたが、江戸時代に寺院法度により本山から外れた。

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