第二百七十七話 農学のすすめ
春になり田植えが始まる。元々少し沈む程度までの田は馬で、くるぶし辺りまで沈む田は牛で、それ以上沈む田は人が耕し、あまり沈む田は田植機も仕えないので効率が落ちる。
「神仏の加護があるとは言えやはり湿田はなんとかしたいな」
いくら豊作でも湿田と乾田では収穫量に大きな差が出る。豊作にしてもらえるならなるべく乾田にしてより収穫量を増やしておきたい。強湿田では作業効率が上がらないし反収も上がらない。
「この白岩あたりの改良がうまく行けば周囲の村も続くだろう」
節を取り、穴を開けた真竹を田に埋め、用水路に余分な水を抜く。俺が稲荷の使いと言うならばと土も凍った冬の間も民は精力的に作業を進め、堰と一部の用水の整備は完了し、十町歩ほどの田が水はけの良い乾田となった。効率の良い排水のため排水路も構築するのだが今年はまだ間に合っていない。
「若様!お陰様でずいぶんと田起こしが楽になりました!」
「満次郎と申したか。ここでのそなたらの頑張りは必ずや神様に申し上げておこう」
「はは!ありがとうございます!」
もっと人が増えれば、あるいはブルドーザーでもできればな。蒸気機関でブルドーザーとかロードローラーとかって出来ないかあとで弥太郎に相談しよう。
それにしても畜力はいいな。こうやって見ている間にも改良した田とそうでない田では田植えの進み方が違う。田植機を同じように使っていても不整形のものは田植機の使えない位置は手植えになって手間取るし、そもそも田植機が使えない田もある。
「こうやって見てみますと若様がご提案された田の改良は素晴らしいものですね」
「満次郎わかるか」
「はい。はじめは田のことなど碌に知りもしない若様が何を言うのかと思いましたが、なるほどこう示されますと一目瞭然でございました。これまでも若様のご指示で収穫が増えていたにも関わらず疑いましたことをお詫びいたします」
そう言って満次郎は地面に跪いて謝罪してくるが別に俺は気にしていない。
実りの良い品種や、畜力、田植機の導入くらいであればそれなりに受け入れていたが、圃場整備となると話は別だ。いくら多少農作業をしていたとは言え所詮政務の片手間でしかない。そんなんだから圃場整備は俺の命令だからと渋々始めただけ。途中で俺が稲荷の云々という話が出たから漸く進んだくらいだ。
「気にしてはおらぬから面をあげよ。それよりもここからが重要だ。田は水の管理が肝要だが、これまでのように放っておいても水が湧いてくる、というようなものではなくなったし、肥を入れなければこれまでよりも実りは悪くなる」
肥料がとどまる湿田の利点は施肥しなくともある程度の収量が見込める。一方で夏の高温期に還元状態からなにかが稲に有害だと聞いたことがある。排水溝ができればよりしっかり排水できるだろう。
「はい。水の加減はどうするのが最も良いか、適切な肥の量などこれから調べていこうかと思っております」
「ふむ、やはり貴様をこのまま百姓にしておくのは惜しいな。五石の扶持を与え、取り立てる故より良い農を実現せよ。いいな清之」
「はぁ、まあ言っても聞いていただけるとは思いません。若様がそうおっしゃるのであればそういたしましょう」
清之がこれみよがしに大きなため息を吐く。
「は、え、お、俺をお取り立ていただくので?」
「そうだが、なにかまずかったか?」
「いいいえ!滅相もございません!しかし俺はしがない百姓に過ぎませぬ」
「なに、俺の臣は水野工部大輔や紙屋製紙司に陶山陶工司右近のような武将でない者でも優秀なものは取り立てている。気にするな」
「そ、それに俺は書も読めませんし書けません!」
聞けば年は十歳だというから少し遅いが遠野学校に入学させることにした。書けないなら書けるようにしてやれば良い。
「行く行くは農を任せるからしっかり励めよ」
満次郎は土気色で固まっていた。
◇
「ご歓談中申し訳ありません。少しよろしいでしょうか」
農夫に扮した左近がよってくる。すごく自然で気が付かなかったよ。満次郎と別れ周囲に誰もいないところへと移動する。
「仰せの通り高水寺城で流言を広め、うまく行ってございます」
まずはうまく行っているか。奥方派だった諸将は孫三郎の働きになびいていたが居ないと為れば次男、熊千代を担ぎ上げざるをえないのは自明。さらに今回の噂に尾ひれがついて大樹に不興をかって斬られただのとなっているようだ。
「それと駿河で孫三郎殿を見つけてございます」
服は見窄らしい襤褸をまとい、髪は乱れ、とても斯波の嫡男とは思えぬ出で立ちだそうだ。さらに街道にはなるべく出ず、山中を突っ切るように進んでいることもあり時間がかかっているようだ。
「そのまま付かず離れず見張っていろ」
「御意に」
「それと大事でございます。大内周防権介が上洛を開始したようでございます」
「遂にか!」
冬の間は鞆で様子を伺っていたようだが、遂に動いたという。まず堺を目指し、然る後に上洛すると。これに対し十一代将軍義澄は和議のため細川高国を送ったが、三好之長の専横に嫌気が指していたこともあって大内側に寝返り、戦いもせず将軍は朽木谷へと逃げたという。
「武家の棟梁のくせに戦いもせず逃げたのか?」
「聞くところ三万の兵を持って上洛するということですので」
三万か。確かに大軍だしまともにぶつかっては偉いことになるのはわかるがそれにしても兵を集められず逃げるとはなんとも無様だとおもう。逆に流れ公方は大内の庇護とは言え三万の兵を連れての上洛だからなかなかの箔になるだろう。この後大内義興はおそらく天下人になるだろう。いやもう天下人になっているかもしれん。情報伝達の遅さはなんとかならないか。前世のネットはともかく電話か電信が使えればいいんだけど、電信だとモールスも使えるようにならなきゃいけないのよな。
モールスか。この時代なら暗号にもなるだろうから悪くはない。そうと為れば早速モールス符号の作成に取り掛かろう。当面機密指定も必要だし俺が勝手に作るか、もしかしたら船乗りだったという十勝守であれば覚えているかもしれないから聞いてみるか。久しぶりに高炉も見たいし新たに広がった領地を見聞するのも必要だしな。そういえば宮古やそれより北側も見に行けていなかったからこの機会に足を伸ばしてみるか。できれば蝦夷地も。
「え、若様視察のたびに出るの?」
「ああ、父上には渋られたが一度はしておかねば。それに十勝守に聞きたいことがあるしな」
「私も行く!」
「言うと思ったけどだめだよ」
「えー!なんで!」
「なんでも何も遊びじゃないし」
「何言ってるのよ!袰綿で作ってるホップの状況も見なきゃいけないんだから私も行くわよ」
しまった、そういえば造酒司にするって言ってしまったからな。
「いや、熊とか出るし……」
「熊ならヴォイテクを毎日見てるわよ!」
いや、あんな飼いならされた熊なんて奇跡だからね。
「それに連れて行かないなら、お酒作らないわよ」
ぐっ、それは困る。お酒作ってくれないと収穫が。資金計画が。
「わ、わかった……。清之と春が許可したらな」
「良かった!じゃあ聞いてくるわ」
「若様でも勝てないのですなぁ」
「左近、俺は別に無敵ではないからな」
「いやはや酒を造られないと言われたときは膝から崩れ落ちそうになりましたぞ」
おい!山伏がそんなんでいいのかと思ったがこいつは破戒僧だったな。
「おそらく止めらるとすれば春様くらいかと」
「だよなぁ、清之は少しも保たんだろうなあ」
清之は雪に甘いからまず許可するだろう。お春さんがどういうかわからないけど。
そうして一刻ほどするととぼとぼと雪がやってくる。どうやらお春さんに止められたようだ。
「雪、大丈夫?」
「ん、まあね」
「お春さんが許さなかった?」
「んーとね、お母様は許可してくれたんだけど、お父様が蝦夷行きだけは頑として許してくれなかったの」
意外だ。
「なんで?」
「危険が多いから往かせられないの一点張りで取り付く島もなかったの」
「そうか……まあ船旅は危険なのはそうだしな。今回は勘弁してくれ」
「そうするわ」
あからさまにしょんぼりしてるな。十勝大津の整備が進んだり、鉄船が作れるようになったら安全になるだろうからそれまでは堪えてもらおう。
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