〈他家紹介⑤〉〈宗派紹介⑤〉

〈他家紹介⑤〉


浪岡北畠氏:南北朝の英雄、北畠顕家の子孫とされる家で、村上源氏中院流庶流北畠家の流れ。北畠顕家は文保3年(1318年)、北畠親房の嫡男として誕生する。元応3年(1321年)、数え4歳で従五位下に叙爵される。その後も順調に昇進し元徳3年(1331年)、史上最年少、数え13歳で従三位、公卿に補任される。

 元弘3年(1333年)正三位参議陸奥守に補任され陸奥国多賀城に下向する。建武元年(1334年)には津軽に残る北条氏の残党狩りを果たし従二位に叙任される。建武2年鎮守府将軍に叙任され、足利尊氏を討伐するため上洛を開始する。鎌倉を守る足利義詮(尊氏の3男、第二代将軍)を破り、そのままの勢いで600kmをわずか半月の強行軍で尊氏軍を追討、京から足利尊氏を追い払う。建武4年(1337年)京奪還のため再び上洛を始めるが、先立って霊仙城を包囲されていたこともあり、顕家軍の通った後には草木一本残らず略奪されたとされる。再び鎌倉を落とし、美濃青野原の戦いでは足利軍の総大将である土岐頼遠を一時行方不明にさせるなど、コテンパンに叩きのめしたが損害も多く伊勢に兵を退いた。伊勢からは大和に抜けたがここで敗北し、河内天王寺へと転戦する。天王寺の戦いでは勝利するも消耗しており、来るはずの阿蘇惟時ら援軍が来ず、石津の戦いで潰走し討ち取られた。21歳での戦死であり、もしここで援軍があればまた歴史が変わっていただろう。

 なお浪岡北畠氏は北畠顕成、北畠親成と続いていく。応仁の頃に浪岡城を築城し勢力を拡大し文亀年間(1500年頃)、北畠具永の頃に津軽地方のすべてを勢力下にするなど最大版図を築く。しかし寺社への喜捨がかさみ財政は悪化、具永死後の永禄5年(1562年)には具永の次男、川原御所具信が浪岡具運を正月の挨拶に浪岡城に赴いた際に斬り殺すという川原御所の変が起こる。これにより浪岡北畠氏の衰微は決定的になる。同時期には大浦為信、後の津軽為信が独立。さらにその勢いで浪岡にも攻め込み、天正6年(1578年)攻め滅ぼされ、当主、浪岡顕村は自害させられ滅亡した。なお子孫は南部氏、秋田氏、津軽氏に仕え、宗家は明治15年に北畠に復姓している。

 

大崎氏:清和源氏足利氏の一門で斯波氏からの分家。斯波家長を奥州総大将として高水寺城に入り、北畠顕家に対する抑えを任された。顕家戦死後も北畠顕信は驚異でありつづけた。また斯波家長は戦死した後は足利の支流石塔義房が奥州総大将に、吉良貞家、畠山高国を管領として奥州の備えとした。しかし観応の擾乱が始まると吉良、畠山の両管領が対立。吉良貞家が勝利するも、その死後は幕府の奥州支配を確実なものにするため斯波家兼を下向させるが、この事により斯波氏、石塔氏、吉良氏、畠山氏が各々管領(探題)を名乗り勢力争いすることになる。最終的に斯波家兼が勝利する。

 斯波家兼の後は斯波直持、斯波(大崎)詮持と続く。詮持の代にはしかし奥州は鎌倉公方の直轄領となり足利満兼の息子、足利満貞と満直を送り込む。奥州管領は微妙な立場となり、さらに伊達と斯波詮持に所領を分けるよう迫られたため鎌倉府に反旗を翻す。鎌倉府に居たため直ちに追撃され道すがら詮持は自死させられる。孫の満持だけ伊達に庇われながら大崎に逃げ帰ることに成功し、その功でもって名取郡を伊達氏に割譲した。また幕府も鎌倉府の勢力を殺ぎたいがために、左京大夫奥州探題職を創設し鎌倉府から切り離し幕府の影響下に置いた。さらにこの頃大崎と名を変えている。

 大崎氏の所領は黒川郡、志田郡、加美郡、遠田郡、栗原郡、羽州最上郡であり、石高は35万石の大大名であった。このときの居城は名生城(みょうじょう:陸羽東線東大崎駅の近く)とされる。「朔の上様」と呼称され、幕府からの指示はすべて大崎氏を通じて行われていた。

 ただし奥州の国人が大人しくしているわけがなく、留守氏や葛西氏や伊達氏などを始めとする各国人が半独立を維持し、大崎氏を圧迫、あるいは大崎氏からの重臣の離反などに悩まされる。

 享徳の乱や応仁の乱が起こると奥州にも影響は波及する。大崎においては登米・本吉・栗原・胆沢で騒乱が起きるが鎮圧できず、さらに重臣である氏家氏の反乱により大崎教兼が名生城を追い出されるなど奥州を統治する力を失っていった。追い打ちをかけるように長享2年(1488年)に家中大乱となり、反乱鎮圧ができなくなった大崎義兼は伊達成宗に援軍を要請し鎮圧してもらう羽目になり権威は失墜した。

 さらに奥州の覇者を目指す伊達稙宗は大永5年(1525年)左京大夫陸奥国守護を獲得すると伊達と大崎の関係は逆転する。最終的に天正14年(1586年)に伊達政宗に攻め寄せられ、「大崎合戦」が勃発。このときは天候も読んだ大崎側が伊達政宗を敗走させ、一旦和議を結ぶこととなる。摺上原で大勝し葦名を滅ぼすと再び政宗の侵攻の危険が高まったが、これは秀吉の出した惣無事令に反する行為であり罰せられる対象となってしまい、大崎氏に関わっている場合ではなくなったが、大崎氏は家中が落ち着かないことで小田原参陣が出来ず「仕置」を受けて所領を没収される。

 その後伊達政宗の扇動とも言われる大崎・葛西一揆が起こり、最後の拠点である佐沼城では伊達政宗により撫で斬りにされ、大崎義隆は上杉景勝預かりとなり再興の芽は消え、以後南部氏や最上氏に仕えることになる。


〈宗派紹介⑤〉

臨済宗:禅宗の一つで、15の流派に分かれる。唐代に誕生し、宋代から興隆、日本には栄西が臨済宗の一派黄龍派を持ち込んだのが始まり。

 禅宗自体はボーディダルマ(達磨大師)がインドから中国に伝道したとされる。その臨済宗は鎌倉幕府や室町幕府からの敬愛が篤く、鎌倉五山や京都五山はすべて臨済宗となっている。このこともありもう一方の禅宗である曹洞宗に対して格が高いとみなされていた。

 応仁の乱では戦乱に巻き込まれ、京都五山は概ね衰退していった様子。

 京都五山の一つ天龍寺は幕末の蛤御門の変で長州藩が立てこもったため、薩摩藩が宝物を略奪しその後大砲をぶっ放して燃やされてしまった。

 相国寺は応仁の乱で細川方の陣地となって燃え、再建したところを細川晴元と三好長慶の戦いに巻き込まれ燃えた。

 建仁寺は栄西が開山した寺であるが、こちらも応仁の乱で燃える。

 東福寺は南朝・後村上天皇の祈願所になるなど由緒正しいが、これも応仁の乱で燃える。なお日露戦争の際にはロシア軍捕虜収容所のため寺域が接収された。

 万寿寺は現在非公開の寺院。こちらは白河上皇が建立したこれもまた由緒正しい寺院。鎌倉時代に臨済宗の寺院となる。1386年に京都五山に列せられ興隆を極めるが1434年に起きた火災をきっかけに衰微した。

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