〈他家紹介④〉〈宗派紹介④〉

〈他家紹介④〉


蠣崎氏:

 後の松前氏。元々蝦夷地は安東氏の守護領であった。蝦夷交易で生計を立てていた安東とアイヌの間で戦闘になる。志海苔(函館空港近く)の和人の鍛冶とアイヌの若者が取引上の諍いで口論、和人がアイヌの若者を刺殺したことに端を発するコシャマインの乱で窮地に陥っていたさい、蠣崎蔵人の乱に敗れて下北半島から逃れてきた武田信広が花沢館(檜山郡上ノ国町)を収める上ノ国守護職蠣崎季繁(かきざきすえしげ)より兵を借りて、コシャマインを射殺したことでアイヌ軍を撃退する。この功績を受けて武田信広は、子供のなかった蠣崎季繁が安東家政の娘を養女としたうえで武田信広に嫁がせ、蠣崎家の家督を譲られ、上ノ国守護職を得る。

 ちなみに武田信広は若狭武田氏の分流とする史料があるが、若狭武田氏の家系図に武田信広に該当する人物はいない。一方で根城南部家の史料には上述の通り蠣崎蔵人の乱で逃れたとされる。もとは根城南部の蠣崎郡での代官武田信義の末裔で蠣崎蔵人の乱で新田義純を暗殺した蠣崎蔵人本人であるとされる。

 武田信広の没後、嫡男の蠣崎光広は下ノ国守護職と松前守護職を得るために行動を始める。まず下ノ国守護職である下国恒季を明応五年(1496年)に謀殺した。これにより松前守護職を得られると目論んだが、守護代の相原季胤が松前守護職に補任される。この沙汰に不満を持っていた蠣崎光広は永正九年(1512年)に起きたショヤ・コウジの乱に乗じて、アイヌ軍に扮し松前大館を攻め相原季胤を殺害する。以後蠣崎光広は居城を花沢館から松前大館に移動し事実上の松前守護職となる。

 蠣崎光広が永正十五年(1518年)に没し、蠣崎義広が家督を嗣ぐとアイヌの反乱が激しくなる。享禄元年(1528年)には徳山館に迫ったアイヌ軍を自ら槍を振るって撃退し、享禄二年(1529年)は上国和喜館に迫ったアイヌ軍に講和すると見せかけ、賠償の品を取りに来たところを謀殺し撃退するなど、度々襲い来るアイヌ軍に謀略の限りを尽くして撃退する。

 蠣崎義広から蠣崎季広に家督が移るとこれまでのアイヌとの抗争を不毛に感じ、安東瞬季の仲介を得て蠣崎側が譲歩することでアイヌと和睦することに成功する。しかしこの事により安東氏の津軽奪還戦に支援せざるを得なくなり、都合七回にわたって安東氏の与力として参陣するが、これは蠣崎にとって多大なる負担になった。

 安東氏が湊合戦により弱体化すると蠣崎氏は独立に向けて動き出す。蠣崎慶広は秀吉の奥州仕置に際して秀吉に謁見し、九戸の乱ではアイヌ兵を率いて参陣し、独立大名として扱われることとなる。秀吉没後は家康に接近し、松前氏に改名、アイヌとの独占交易の朱印状を得る。松前城を主城とし、以後幕末期まで蝦夷地が幕府直轄となるまでの間、北海道を支配した。

 戊辰戦争では官軍に属して戦い、青森に派兵していたため手薄になった松前城を榎本武揚に攻め落とされるが明治二年に奪還し、後に子爵位となっている。


大光寺氏:

 南部氏の庶流の一つ。南部信時の四男、南部光康が祖とされる。南部光康ははじめ田子城(田子町)、続いて堤ヶ浦城(横内城とも:青森市横内)に移る。孫の南部景行の代に大光寺城(平川市平賀)へと移転し、以後大光寺氏を名乗り南部家の北辺の守りを任される。

 しかし大浦為信が台頭してくると事態は一変する。猛将大浦為信の進撃にときに降伏しつつも抵抗していたが、天正十六年(1588年)には大浦為信の津軽平定はほぼ完了しており、どうにもならなくなった大光寺光親は大光寺城を撤退する。しばらく比内山田村(現:湯沢市?)で潜伏し、大館城主が亡くなった隙きを突いて大館城を奪取する。直ちに北信愛らの援軍を得て大館城の所有を確たるものとする。その後も南部宗家に仕えることになる。


〈宗派紹介④〉


真言宗:皆さんご存じの高野山に代表される日本仏教の一派。

 空海(弘法大師)により開かれた。高野山金剛峯寺は816年(弘仁7年)に開創された。823年(弘仁14年)には東寺(教王護国寺)が建てられ、僧侶50人が置かれた。

 空海入定後は一時高野山金剛峯寺が無人化するなどあったが、藤原道長などにより復興する。この復興の際に定誉(祈親上人)が長谷寺にてお告げを受け、高野山奥の院に灯明を捧げ、今も燃え続ける祈親燈となっている。

 南北朝時代には高野山は中立を貫き高野山の段銭や諸役の免除、寺領への守護不入の権利を得ている。戦国時代には高野山は寺領17万石、僧兵3万名を擁す巨大勢力へと成長を遂げたことで織田信長から危険視される。織田信長に謀反を起こした荒木村重が高野山に逃げ込んだ際、信長方の足軽が高野山の僧兵に殺されたため、高野聖1383人が処刑された。また高野山にも兵が差し向けられるところで本能寺の変が起こり難を逃れる。秀吉に攻められるが木食応其の取りなしも有り、寺領を減らされるも存続することが出来た。

 江戸時代になると学侶方・行人方に併せて2万1千石の寺領が与えられ、参勤交代の義務を課せられる。なお聖にはわずか200石のみであった。

 明治時代を迎えると神仏分離令が発令され、さらに学侶方・行人方・聖が解散させられた。また寺領も国に返還させられ、女人結界も廃止させられるなど危機的状況を迎えるが、明治末期より宝物の保護が唱えられるようになり、大正時代から勧進運動が起こるなど文化財保護の動きが進み、太平洋戦争後の混乱期に宝物の一部が海外に流出したこともあり高野山文化財保存会が設立され保護活動が行われている。2004年には世界遺産にも登録されている。

 なお真言宗としては大きく、古義真言宗、新義真言宗、真言律宗の三派に分かれる。

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