第二百三十六話 この時代は暦もばらばらだったそうです

遠野先端技術研究所 阿曽沼孫四郎


「これがゼンマイ時計?」


「はい!所長が錬鉄を作ってくれたお陰でぜんまいばねを作ることができました」


「ぜんまい以外は木製なのだな」


「鉄を加工する機械がありませんので、今のところ手作業ではこれが限界です」


 小菊が興味深そうに覗いてくる。


「これはどうやってつかうのかしら」


「それはまずこの天辺のこの取手を回して、次にこの鍵を後ろの穴に挿してこう……」


 ちちちと音を鳴らせながらゼンマイを巻いていく。鍵を抜くとコツコツと決まったリズムで音が鳴っている。


「この音は?」


「これは脱進機の音です」


 蓋をあけるとゼンマイに大小様々な歯車や扇形の歯車みたいなものが所狭しと入っている。


「よくやった!」


「ありがとうございます。しかしこのぜんまいばねは日に二度は巻かねばならないことと、鉄なのですぐに錆びてしまいうのが難点です」


「それなら真鍮で作ってはどうだ」


 弥太郎が一郎にアドバイスする。


「なるほど、真鍮なら錆びにくいし加工もし易いですね」


「問題はどうやって錫を手に入れるかだが」


「蝦夷でも採れるぞ」


「え、若様本当ですか?」


「ああ、明延鉱山ほどではないがな」


 たしか寿都鉱山とか伊達鉱山とか豊羽鉱山なんかでも量は少ないものの錫がとれたはず。


「やっぱり蝦夷が我々の生命線ですな」


「文字通りな」



研究所の少し離れたところ 雪


「雪様、パンとかいう新しい食べ物、うまくできたんですね!おめでとうございます!」


「あ、う、うん」


「どうなさったんです?若様に美味しいって言ってもらえなかったんですか?」


 やめてそんなキラキラした目で私を見ないで。うーなんであの時泣いちゃったのよ。あれはただ気が抜けてホッとしただけなのに!別に若様に美味しいって言ってもらえて嬉しくてってわけじゃないし……まあ少しは嬉しかったけど。


「雪様?」


「ななな、なんでもないわ。それより小菊も、やっと祝言上げてもらえて良かったわね!」


「若様と雪様のお陰です」


「でもあんな婚儀でよかったの?」


「はい。若様のご厚意で白無垢を着させていただきました。あれ以上を望んではバチがあたってしまいます」


 明の数学書を翻訳したり教科書作ったり、重要なことやってるんだからもっと欲を出せばいいのに。でもこの子がそれで納得しているのなら指摘するのも野暮ね。


「では私はこれから日と月と星々の観測結果の解析をしますので失礼します」


 なんかさらっと重大なこと言ってたので興味を持って横から眺めていると、いろんな数字の書かれた木簡を取り出したかと思ったらそろばんをはじき出してウンウン唸っている。ある程度やっているとやっぱりここがずれているとかなんとか言ってる。なんの計算をしているのかも全くわからないけど、一つだけわかる。この子は天才なんだなって。


「ねえ、今は何の計算しているの?」


「え、あはい。これは暦を作って欲しいと若様に言われましたので」


「暦?」


「はい。日の動きを見ていますと一年は三百六十五日ほどで今使われている暦ですと一日ちょっとずれているようです」


「そういえば今使ってる暦は宣明暦(せんみょうれき)だったわね」


「はい。貞観四年(八百六十二年)から使われております」


「なるほど今が永正三年(千五百六年)だから……」


「六百四十年使っております」


 六百年も使っているのね。古いものを大事にするのは良いことだけど程度ってものがあるわよね。


「じゃあ小菊が新しい暦作ることになるわね」


「え、え、そんな恐れ多いいことは」


「別に構いませんよね?大宮様」


「どやろなぁ、あてはしがない地下人やさかいな。まあうまくできたら四条様のお耳には入れとくわ」


 小菊が驚いて口をパクパクさせている。さっき計算していたときにはもう近くに大宮様がいらしてたのに気づいてなかったのね。


「確か暦を司っているのは勘解由小路様でしたよね」


「よく知っておるの。陰陽頭様が暦をやっておるのやけども各地でいろんな暦を作っとるからなあ」


 なんだ統一した暦がないのね。あれそれってとっても不便じゃない。


「それもあって童殿は暦を作って欲しいっちゅうことらしいわ」


「でもそれは帝に楯突くことにならないのですか?」


「そこは四条様をうまく使えばなんとかなるんちゃうか」


 勘解由小路家はたしか戦国時代に一度断絶するはず。その後は土御門家が暦道を扱い、江戸時代に貞享暦ができ江戸幕府天文方に仕事が奪われるものの明治時代に東京天文台が出来るまで冥加金を取り立ててたのよね。天文台をそろそろ作りたいとか言ってたしもしかして暦道を陰陽寮から切り離してしまうのかしら。

 若様は一体どんな未来を思い描いてるんだろう。役職はこの時代のものを踏襲しつつも工部省なんてもの作っちゃったし、徴兵制度も作ろうとしているし、富国強兵殖産興業ってまるで明治政府をこの時代に作ろうとしているのかしら。そうなると若様は幕府を開く気がないの? でも近代国民国家を創るとなると武家だけじゃなく公家も敵に回しての大革命になるんじゃないかしら。建武の新政の二の舞にならなければいいのだけれど。でも若様のことだからそこまで考えてないかも。


「雪様?どうかなさいましたか?顔色がすぐれないようですが」


「ううん、大丈夫。少し考え事してただけだから」


「ほんに大丈夫か?田代殿を呼ぼか?」


「いえ、本当に大丈夫ですので」


「さよか。ほならええけど無理したらあかんで?」


「はい。お気遣いいただきありがとうございます」



 若様たちの居る工作部屋に戻ってきたらなにか言い合いしている。


「今度は何の話し合いをしているんです?」


「ああ雪か。いや蒸気機関も時計も欲しいんだけど、そろそろガラスが欲しくてな」


「ガラス……」


「そうだ。望遠鏡や顕微鏡のレンズから鏡、そして各種計器類の製造に不可欠だからね」


 ガラスか。そういえばシャーレもガラス製だったわね。菌の純粋培養には顕微鏡とシャーレは最低限ほしいわね。純粋培養できればパンもお酒ももっと美味しく出来るはず。


「そうね。早く造ってくれたらイーストの改良とかやってあげてもいいわよ」


「あ、そうか。雪は食品科だったね。酵母の純粋培養とかやってたの?」


「専門じゃないけどね」


「そっかそっか。じゃあレンズとシャーレを優先して、次に気圧計とか圧力計に使うガラス柱だな」


「若様無茶言わないでください。我々ガラスなんて作ったことがありませんぞ。そもそも苛性ソーダがろくに無いのにどう作れというのです?」


「じゃあまず苛性ソーダ作らなきゃな。確か以前一郎が海水と硫黄と石灰と炭を入れれば出来るって言ってたが、それで出来るのか?」


「ちらっと見ただけなのでその材料が正しいのか今となってはわかりません」


 それもそうか。一郎は教員でべつに化学史に詳しいわけではないものな。


「とりあえず試してみるか。ところで前世では苛性ソーダは確かイオン交換樹脂使ってたんだよな」


「まあそうですね」


「その前は?」


「その前ですと水銀法あるいは純度が落ちますが石綿での隔膜法ですな」


 水銀法はよくわからないけど隔膜法は石綿の隔膜を使うそうなのでわかりやすい。公害はあるけど目をつむって使用するしかなさそうだ。


「結局電気を作るかアンモニアソーダ法を開発するしかないのか」


「そのようね。先は長そうね」

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