第9話 可憐な可憐は飛び上がる!
突然、肉を打つ音が響き渡る。
「おげっ?」
牙王が間抜けな声を漏らし、よろめきながら遠ざかった。
私は静かに目を上げる。
そこには華奢な背中があった。ボクサツ君が、牙王の顔面に飛び蹴りを叩き込んだのだ。ボクサツ君は私を守るように、牙王の前に立ちはだかっていた。
「立ち向かえるじゃないか」
ボクサツ君が、背中越しに軽口を叩く。
「……意地悪」
憎まれ口を返してやる。でも、内心はホッとしていた。どうしてだか、ボクサツ君が負けるイメージが浮かばない。
「ねえ、うさぎちゃん」
「はい」
「あんまり説教とかしたくないんだけどさ、一つだけ約束してくれないか? うさぎちゃんは、これからは生きることに立ち向かう。たとえ負けても世界からは逃げ出さない。色々と辛いことはあるだろうけど、それは分かってるんだけど、死ぬのだけはやめにして欲しいんだよね。どうする?」
私は、黙ってボクサツ君の背を見つめていた。随分と、頼りない背中だと思えた。可憐ちゃんはこんなにも弱そうな人を心底慕っていて、私も、この背中に縋っている。
さぞ、重いだろう。
知らず、私の目に熱い物が込み上げてくる。拭っても拭っても、止まらない。
「返事が聞こえないぞお!」
初めて、ボクサツ君が怒鳴った。
「生きる! 私は、もう逃げない!」
私は泣きながら叫んだ。
「……わかった。ならば、僕は君に味方する。そこの木偶の棒をへし折ってみせよう」
ボクサツ君が言い放つ。そして、妙な立ち方へと移行した。脚を肩幅ぐらいに開き、膝を軽く曲げ、つま先は狭めてハの字を作る。一方、体からは力みが失せ、力を抜いたその様はダルそうで、だらしなさそうですらある。微妙に前傾の姿勢からは威圧感も消え去り、目に宿っていた光も失せる。私には、その構えが持つ意味は分からない。でも多分、何か切り札を使うのだろう。
「木偶の棒をおおお、へええし折るう、だとおおお?」
牙王の声に怒りが滲む。
ボクサツ君は答えない。ただ静かに、牙王を見据えている。
「木偶の棒を、へええしいい折るだとお!」
再び言うと共に、牙王が腕を振りかぶる。筋肉がパンパンに盛り上がり、Tシャツの袖が弾ける。そして、大男は凶悪な拳を繰り出した。拳は唸りを上げて、ボクサツ君へと迫る!
ゆらり。
ボクサツ君は、身を沈めながら半歩前進する。牙王の拳に頬をこするようにかわし、懐深くへと潜り込む。
パアン! と、地面が踏み鳴らされた。音と共に拳が発射され、牙王の胸に突き刺さる。
ごり。
骨が砕ける音だった。
やや前傾した正拳突きが、分厚い胸に突き刺さっていた。攻撃が決まった瞬間、大男は後方に突き上げられるように一瞬だけ浮き上がり、落下して、倒れ伏す。
気を、失っていた。
「い、一撃……!?」
清道君が驚愕の声を上げる。
「縄で縛って心臓マッサージを。流石に手加減する余裕がなかったから、放っておいたら死ぬよ」
言いながら、ボクサツ君はよろめいて地面に膝を突く。
「やったね、ボクサツ君!」
可憐ちゃんが駆け寄って、ぴょんと、ボクサツ君に抱きついた。
「え、あ。駄目、まだ油断しないで!」
突然、杏ちゃんが叫ぶ。何故か彼女は駆け出そうとして、すぐに足を止めた。
杏ちゃんの向かう先、横たわっていた池田有子が、むくりと身を起す。
まさか。
私の頬を冷や汗が伝う。嫌な予感は当たっていた。有子の眼には、独特の、悪霊の狂気が宿っていたのだ。
「ボクサツ君んんん! ごろすうぅ!」
有子は、女子高校生とは思えぬ野太い声を発し、傍らにあった棒きれを掴む。それを大きく振りかざし、ボクサツ君へと襲い掛かかる。
「危ない!」
ボクサツ君は、咄嗟に可憐ちゃんを突き放す。
直後、棒きれが振り下ろされる。嫌な音に、私は思わず顔を顰める。ボクサツ君は腕で攻撃を受け、苦悶の声を上げる。腕から飛び散った血液が、私の頬に赤い筋を残す。
「ボクサツ君を虐めないでよ!」
可憐ちゃんが悲鳴を上げる。
再び、有子が棒を振り下ろす。そこにタイミングを合わせ、ボクサツ君は棒きれに飛び込んだ。
ドシリと、鈍い音がする。ボクサツ君は敢えて身体ごと攻撃を受け、しかと棒きれを掴んだ。
「……ジェットストリームアタックって、知ってる?」
ボクサツ君が、囁くように言う。
次の瞬間、ボクサツ君の肩を足場にして、可憐ちゃんが飛び上がった。小柄な身体が高々と宙を舞い、有子めがけて落下する。
「うわあああ! 急降下ボクサツぅ!」
と、可憐ちゃんが拳を繰り出した。稲妻のような一撃が、有子の顔面へと突き刺さる!
有子は「ぶげ」と、滑稽なうめき声を上げながら、殴り倒されて地面を三回転。白目を剥いて気絶した。
可憐ちゃんは着地して、ビシッと謎の決めポーズを作る。一応、カッコ良い感じはするのだが……私は思わず背筋が寒くなった。焦って可憐ちゃんの手元に目をやると、今回は、メリケンサックを使用していなかった。
セーフだ。と、私は胸を撫で下ろす。
次の瞬間、何故か、杏ちゃんがボクサツ君の肩を足場に飛び上がった。
「とうっ!」
杏ちゃんは掛け声を上げながら、何をするでもなく着地した。
それ……何のジャンプ?
思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。ツッコんだら負けな気がする。杏ちゃんは、そんな私の視線に気が付いた。
「あ、その、ジェットストリームアタックだし、私も行かなきゃって思って。えへ」
杏ちゃんは顔を赤くして、意味不明な言い訳をする。
「急降下、ボクっサツゥっ!」
何故か再び、可憐ちゃんが叫ぶ。もはや
「二回も叫ばなくて良いからね?」
ボクサツ君はそう言って、苦笑いで可憐ちゃんの頭を撫でた。
★ ★ ★
さて、有子は縄でぐるぐる巻きにされて、おでこにお札を貼られた。悪霊が逃げ出さないようにする為らしい。
縄をほどき終わった頃、やっと有子は目を覚ました。
「う。私、何を……」
目を白黒させる有子に、私は静かに歩み寄る。
「ゆ、有子──」
「──触るなあ!」
有子は、差し伸べた私の手を振り払う。やがて、よろめきながら立ち上がり、手を張り上げる。
「ごめんなさい! 俺が、悪かったんです」
突然、葉が叫ぶ。弟は私を庇うように有子の眼前に進み出て、地面に手を衝いた。
「
葉は繰り返し、有子に頭を下げ続ける。
「ふざ、けるな。ふざけるなあ! お前のせいで、早苗は今も視力が戻らなくて苦しんでるんだ! 謝ったぐらいで済むわけがないでしょう」
有子は怒りを発し、転がっていた棒きれに目をやった。彼女は迷わずそれを引っ掴み、葉に向かって振り上げる。
「お姉ちゃん、やめて!」
叫び声と共に、小柄な影が葉に覆いかぶさる。
早苗ちゃんだった。
「違うの。葉君は悪くないの。本当は、悪いのは私なの!」
「え?」
「だから、悪いのは私なの」
「早苗……どういう事?」
有子の顔に困惑が浮かぶ。早苗ちゃんは立ち上がり、有子の手から、そっと、棒切れを取り上げた。
「あの日、葉君を
「う……そだ。そんな。それじゃ、私は……」
有子はよろりと後ずさり、ぺたりと、地面に腰を下ろす。
「ごめんね葉君。本当にごめん。今更謝っても取り返しがつかないけど、学校に戻ってきてほしい。葉君が居ない間の授業は、全部ノートに纏めてあるの。分からない事があったら何でも協力するから。戻ってきて」
と、早苗ちゃんは葉に覆いかぶさったまま、泣き出してしまう。葉の眼にも、じわりと光るものが浮かぶ。二人は手を取り合って、ごめん、ごめん。と繰り返す。
ゴホン、ゴホン! と、ボクサツ君がわざとらしく咳ばらいをする。
「ええと、有子ちゃんだっけ? つまり、諸悪の根源は君の妹さんだったわけか。お陰で僕もこの有様だし、牙王に殴られて怪我をした人も大勢いる。うさぎちゃんもボロボロだ。君はどうやってこの責任を取るのかな?」
ボクサツ君は、冷ややかな眼差しで有子を睨みつける。有子は青ざめた顔で固まっている。
「ご……ごめ──」
「──おっと。謝って済ますのはやめてくれるかな? ついさっき君も言ったよね。謝ったぐらいで済む訳がないって。この半年間、君がうさぎちゃんにしてきた事は、謝ったぐらいでは到底取り返せないよ? まあ、早苗ちゃんはトラブルの原因を作ったけど、因果応報的結果になったよね。それで葉君とのことは痛み分けで話は済む。二人共、許し合ってるみたいだしね。だけど君は別だ。君は、うさぎちゃんが失い、うさぎちゃんの家族が失ったものについてどう責任を取るつもりなんだい?」
「責任って……なによ。今更どうしろっていうのよ」
有子がやけくそ気味に言い返す。ボクサツ君は意地の悪い薄笑いを浮かべた。
「なんだ。やっぱり卑怯者かあ」
「……え?」
「開き直って何の埋め合わせもしないつもりなんだろう? いいよ。虐めっ子って、結局はそういう連中だからね。あ、言っておくけどね、僕は卑怯者は大っ嫌いだ」
「やめて! もう、良いの。解決したから。だからもう……本当に」
と、私は二人に割って入る。
「全っ然、良くないよ。有子ちゃんは、うさぎちゃんに相応の賠償金を支払うか、そうでなければ行いで埋め合わせをするべきだ。うさぎちゃんを自殺にまで追い詰めた苦しみがどれ程の物だったか、これから、彼女自身が味わうべきなんだ」
「う、うさぎが自殺? それは、どういう……」
「自殺サイトぐらい知ってるだろう。うさぎちゃんはね、そのサイトに登録して、実際に自殺志願者達と集まって練炭自殺を実行したんだ。今、うさぎちゃんが生きているのはただの偶然に過ぎない。君は、もう既にうさぎちゃんを殺したんだ! うさぎちゃんが、昨日レストランでどんな顔をしていたか、想像できるかい?」
ボクサツ君が鋭く言い放つ。
有子はよろめき、その場にへたり込んでしまった。
「ご、ごめ……う、うわあああ。あぐ。ごめん、なざい。えぐ」
有子はやがて、子供のように声を上げて泣き出した。私はしゃがみ込み、指先で有子の涙を拭う。
「もういいの。もう、良いから」
と、私は有子の頭を抱えるようにして抱きしめる。私の目にも涙が滲み、やがて、私と有子は抱き合って泣き声を上げる。
一方、杏ちゃんは持参したスリッパでボクサツ君の肩をひっぱたく。
「なんか二人ともごめんね。この人、サディスティックが走り出して止まらなくなってるだけだから。真に受けたらだめよ?」
杏ちゃんはそう言って、抗議するボクサツ君の襟首を引っ張って、公園の外へと引きずっていった。
「待ってよ杏ちん。ボクサツ君をいじめないで」
可憐ちゃんも、ボクサツ君を追ってゆく。取り残された私達は、声が枯れるまで泣き続けた。
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