第8話 ボクサツ君は突き刺さる。




「良いいいいいい。度胸おだあああ」


 牙王は、ボクサツ君へと歩きだす。牙王の目の前には逃げそびれた早苗ちゃんが立ち尽くし、震えていた。


「あ、あの──」


 何か言いかけた早苗ちゃんの頬を、牙王の太い腕が打ち据える。

 鈍い音が響き、早苗ちゃんが弾き飛ばされた。早苗ちゃんは三メートルも離れた植木にぶち当たり、落下して動かなくなった。意識を失ったのだろう。


「お……お前!」


 有子の連れの三人の男子高校生達が、牙王の狼藉ろうぜきに怒りを発して取り囲む。彼らは一斉に牙王に襲い掛かった。


「バ……いけない、逃げるんだ!」


 ボクサツ君が叫び、駆けだした。が、彼が牙王に辿り着くよりも先に、牙王は男子高校生三人を蹴散らし、跳ね飛ばす。男子高校生は何メートルも飛ばされて、咳込んでのたうち回る。酷くやられていて、とても立ち上がれそうな感じではない。


「……気に入らないな」


 酷く穏やかな口ぶりで、ボクサツ君が呟いた。


「なああにがあああ、気にいい入らないんだあああ? 無関係なあああ奴をおおお殴った事かあああ」


 二人は互いに歩み寄り、殴り合いの間合いに達する。そこで足を止め、無言で睨み合う。

 空気が、ひりひりとした質感を孕む。誰も言葉を発しない。私たちは固唾を呑んで、ただ二人を見守っていた。

 私は内心、ボクサツ君に頼ったことを後悔していた。見た感じ、ボクサツ君の身長は一七◯センチ程度。対する牙王は一九◯センチを超える長身で、鍛えられた腕の太さはボクサツ君の腰回り程もある。まるで大人と子供だ。到底、ボクサツ君が勝てるとは思えなかった。

 突然、牙王が右腕を振り抜いた。

 ボクサツ君はふわりと腕を潜り、かわす。その流れでとことこと歩き、牙王と背を向け合ったまま、足を止める。


「君は女の子に手を上げた。それが気に入らない」


 ボクサツ君の声が、薄く怒りを孕む。


「気に入らない? くはははっ! なんだああぁ? お前はああぁ武士か何かかあ? 女を殴って何が悪い。時代遅れも大概にしろおおっ。気に入らなければあああ、どうす……」


 言いかけて、牙王がピタリと動きを止める。

 牙王は、静かに自らの右腕を上げて掌に視線をやる。すると、右手人差し指が、いびつに、外側に折れ曲がっていた。


「うおおおあああ! ボクサツ君んんん。何をしいいたああんだあああ!」


 牙王は半狂乱になり、再びボクサツ君に襲い掛かった。丸太みたいな腕を滅茶苦茶に振り回し、合間に蹴りをも繰り出しまくる。

 そんな怒涛の攻撃に、ボクサツ君は顔色を変えなかった。ゆるりと、流動的な体捌きで攻撃を避けまくっている。命中寸前でギリギリ身を逸らすその動きは、まるで、古い中国映画に登場する、達人のようだった。

 牙王の攻撃は止まない。

 ボッ! と拳が唸り、連続で空を切る。一撃でも当たれば即死だろう。ボクサツ君は受けを使わず、すべての攻撃を体裁きのみで回避している。どの攻撃も、当たりそうなのに当たらない。この状況で、かなり力が抜けている風だ。それは酷くダルそうな動きであり、なんというか、戦っている感じがしなかった。

 私には、その事が少し不可解だった。格闘技の試合を見れば解る。プロの格闘技の選手でさえ、カンフー映画の達人のような動きはしない。それが不可能であり、実戦的ではないからだ。ああいった攻防は、創作だからこその物なのだ。

 と、私は考えていた。だが、現に目の前ではそれが起こっている。私は、この現実をどう解釈したら良いか解らなかった。


 そのまま、ボクサツ君は反撃もせず、一分程も攻撃を避け続けた。

 やがて牙王が息を切らし、自らの膝に手を衝いて大きく肩を揺らす。ボクサツ君は攻撃を仕掛けるでもなく、その様子を黙って見つめていた。

 時間を、稼いでいるのか?

 私はやっとボクサツ君の狙い悟り、公園の隅へと目をやった。公園の入り口辺りでは、杏ちゃんと可憐ちゃんとが、こそこそ結界のしめ縄を張っている。

 あと少しで、包囲網が完成する!


「うわあああ! クソ野郎おおお!」


 突然、怒声が上がる。有子が、棒きれで牙王の背中を打ち据えたのだ。だが、棒きれは簡単にへし折れてしまった。不意打ちの攻撃も、少しも効いている様子がない。


「あ、んた……なんなのよ」


 有子が、恐怖を滲ませて立ち竦む。その首を、ぐっと、牙王が掴む。


「おっと、動く、なあああ」


 駆け出そうとしたボクサツ君を、牙王が眼で押し留める。有子は盾にされ、首吊り状態で足をバタつかせている。ボクサツ君は人質を取られ、動きを止めざるを得なかった。


「俺にはあぁぁ、解るぞおぉ。この女はクズだああぁ。お前はああ、女ならクズでも助かるのかああぁ?」


 牙王の口角が不敵に上がる。

 次の瞬間、牙王は、有子を高々と放り投げた。ボクサツ君は慌てて走り、ギリギリ有子の体を受け止める。

 どかり、と、鈍い音。

 ボクサツ君の隙を突き、牙王が背中に蹴りを叩き込んだ。ボクサツ君はモロに蹴り飛ばされて六メートルも宙を舞う。華奢な身体が地面を転がって、少量の血を吐いた。そこに間髪いれず牙王が駆け込んで、強烈な蹴りを叩き込む。

 ボクサツ君は再び蹴り飛ばされて、五メートルも先の植え込みに突き刺さった。

 私は、悲鳴を上げた。


「あぁっはっはっはああぁ! そんなヒョロヒョロした体で大口をお叩くうからだあ」


 牙王はボクサツ君に歩み寄り、首根っこを掴んでぶら下げる。ボクサツ君は、顔面蒼白で意識を失っていた。


「なんだぁあぁ? もおう、くたばってるじゃないいかあ」


 と、牙王はボクサツ君を高く抱え上げ、植木に向かって投げ飛ばす。ボクサツ君はしたたかに木に打ち付けられて落下して、もう、ピクリとも動かなかった。

 絶望が、私の心臓を締め上げる。思わず息を止めていることにさえ、私は気がつかなかった。


「うわああぁ! ボクサツ君!」


 可憐ちゃんが悲痛な声を上げて石ころを拾う。怒りに任せて投げつけるが、石は牙王の背で跳ね返り、虚しく地面を転がった。それを背に、牙王の狂気を孕む目が、ぎょろりと動く。


「さああてとおおお」


 牙王は、公園をぐるりと見まわした。


「決めたあ。次はあああ、お前えだああぁ」


 牙王は、ベンチに横たわる葉を指差した。

 一方、私は大慌てでボクサツ君に駆け寄って、華奢な身体を抱き起こした。でも、ボクサツ君は反応しない。息をしている気配もない。数回頬を叩いてみるが、やはり、目を開けない。そこで恐る恐る、胸に耳を当ててみる。

 鼓動が、止まっていた。


「嘘……でしょ」


 私はボクサツ君を横たえて、心臓マッサージを施した。

 私のせいだ。彼を巻き込んだから。私がなんとかしなきゃ!

 必死で胸を押し続け、次に、人工呼吸を……。


 一瞬、躊躇してしまった。

 ボクサツ君は、どちらかといえば美男子の部類に入る。中性的で、まるで女性のように優しげな顔立ちをしてはいる。だからといって、気軽に唇を重ねられる訳じゃない。

 だが、私は腹を括って口に唇を重ねた。そっと空気を送り込み、それを繰り返す。そう。これはあくまでも、緊急時の医療行為なのだ!




 がっ……。と、ボクサツ君の口から声が漏れる。やがて、彼はゆっくりと目を開けた。


「よかった。死んでなかった」


 思わず、視界が滲む。


「うさぎ、ちゃん。痛……」


 ボクサツ君は呟いて、ゆるりと身を起す。彼は肉体の損傷を確かめながら、公園の奥に目をやった。

 彼の視線の先では、葉が胸倉を掴まれて、高く持ち上げられてもがいていた。

 可憐ちゃん、杏ちゃん、清道君の三人は、牙王を取り囲み、必死に投石を繰り返している。皆、葉を助け出そうと頑張ってはいるが、牙王は投石をものともしていない。


「動ける? お願い。葉を助けて」


 私はボクサツ君に縋りつき、懇願する。

 ボクサツ君は、静かに溜息を吐いた。


「……気に入らないね」

「気に入らないって、何が?」


 私が問うと、ボクサツ君は静かに葉を指さした。


「君は、弟が大切かい?」

「た、大切よ。大切に決まってるじゃない!」


「嘘だね」


「え? 嘘って──」

「──君は昨日、弟を見捨てたじゃないか。この世界のなにもかもを見捨てて置き去りにして、自分一人だけ死んで楽になろうとしていた。今更、弟が大切だなんて筋が通らないよ」

「そ、それは……そうかもしれない。でも、今はボクサツ君にしか頼れないの。解るでしょ? お願い、します」

「だ、か、ら! そんなに大切なら、自分でなんとかしてみれば良いじゃないか。死ぬのは怖くないんだろう? たった今大切だと言った言葉も、昨日、死ぬと決意した気持ちも、どっちも嘘だったのかい?」


 ボクサツ君の眼には、冷淡な、でも強い意思があった。その眼光に射抜かれて、私は言葉を失ってしまう。

 本気だ。この人は本気で言っているのだ。

 手が、震えだす。


「嘘じゃ、ない」


 私は、呟き、ボクサツ君から手を離す。ボクサツ君は私の腕から滑り落ち、地面で頭を打った。

 そして、私は立ち上がる。


「嘘じゃ、ない!」


 近くの棒きれに手を伸ばし、引っ掴んで走り出す。棒切れは長く、重い。それを引きずりながら、牙王へと突進する!


「うわああああ! 葉を離せえええ!」


 私は叫びながら突進し、思い切り棒切れを叩き込む。攻撃は、綺麗に牙王の脇腹を捉えた。

 鈍い感触だった。

 牙王は、ゆっくりとこちらに振り向いた。全く、効いている気配がない。

 太い腕が振り抜かれ、頬に痛みを感じる。その瞬間にはもう、私は宙を舞っていた。

 一瞬の浮遊感に、落下の痛み。

 咳込む私の傍らに、太い脚がにじり寄って来る。牙王が、ゆるりと足を上げる。悪霊憑きの大男は、止めとばかり、私の頭を目掛けて足を振り下ろした──。



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