第4話 完結
トウヤは自身の拳を震えるほど強く握った。
このまま会えなくなるくらいなら、と。それまでの情けない瞳に決意を灯しマナの両肩を掴んだ。
何か強い意志を感じたのか、マナはようやくトウヤと目を合わせる。
「マナ、一緒に逃げよう。どこか遠くの、誰も知らないところへ」
「……え?」
マナは目を見開いた。トウヤの視線の奥を探るように二つの瞳が小刻みに揺れる。
マナの肩をつかむトウヤの手に一層力が込められる。
「このまま明日を待って、黙ってあの町に閉じ込められるなんて絶対に嫌だ。死んだような奴らと一緒に俺も死んだような人生送る? それならいっそ死んだ方がマシだ! それに、マナに会えなくなるなんて考えられない。俺たち小さい頃からずっと一緒だったんだ。マナのいない人生なんて……俺……!」
鼻の奥がツンとする。ここで泣いたら格好がつかない。泣くな、まだ。
「どこにいても、どんな環境でもマナのこと守る。今はまだ経済力もないし最初は貧乏暮らしかもしれないけど、高校卒業したら働く。たくさん働くよ。陰町出身だってバレないようにするし、マナに苦労はさせない。生活が安定したら、こ、子供とか作ってさ……家建てて、普通の暮らしをしよう。幸せにするよ……必ず」
マナはじっとトウヤの瞳を見据え、真剣に話を聞いてくれているようだ。
トウヤは自分の唇が少し震えているのを感じた。
「好きなんだ」
限界まで引き絞った弓から矢を放つように、まっすぐにマナに想いを届けた。
――言えた。言ったんだ。
長年温めていた想いをようやく解放できたことにトウヤは高揚した。
それも束の間、バラ色の空へ羽ばたかんとしていた恋心はその翼を手折られることとなる。
「…………やめてくれる」
一瞬、誰の声かわからなかった。
「そういうの、ほんと無理だから」
吐き捨てるような言い方とその声の低さには嫌悪という表現がぴったりだった。
肩に置かれたままのトウヤの手を、ゴミを払うように手で押しのけるのは間違いなくマナの華奢な手だ。
「マナ……?」
何を言われたのかよくわからなかったトウヤ。胸にざわざわと不安が広がる感覚がする。
「夢を見たまま
「夢……? ぶた、ごや……? 何言ってんだよマナ……」
胸に広がる黒い
マナはやれやれといった風に腕を組み、手近にあった腰丈の鉄柵に軽く体重を預ける。
いつも品行方正なマナに似つかわしくなく、なんというか、煙草でもくわえだすのではないかという雰囲気だ。
「学校でトラブルがあったとき、
「逆……?」
そうだ、クラスメイトが窓ガラスを割った時や暴力沙汰が起こった時、目撃者は多くいたのにいつも陰者がやったことにされている。マナが真実を訴えても教師はろくに話を聞いてくれないんだと思っていた。
それが逆ということは――
「陰者がやったって報告してたのは私。まあ、元々教師も真実を探すより陰者を犯人に仕立て上げた方が楽だから私が報告しなくてもそういう流れにはなるんだけど、品行方正で真面目な優等生からそう報告があったって履歴が残ればそれで解決ってもんでしょ」
「なっ……嘘だろ…………仮に本当だとして、それをしたところでマナになんの得が――」
「得? あるわよ。私、こんな田舎から出て都会の国立大学に通いたいの。私たちの高校、この地域一番って言われてるけどこんな変な岩が浮いてる
「内申…………じゃあさっき滝重の家に居たのは……」
トウヤは次々とマナから溢れてくる信じがたい言葉にかろうじてぶら下がっている。
「ああ、最後の報告よ。滝重町長はずっと陰町封鎖を画策していたんだけど人権侵害になるからなかなか施行には至らなかったの。だから長い期間をかけて陰町がいかに周辺地域に危険をもたらすか調査実績を作っていたのよ。危険性が人権を上回れば施行も可能と考えたのね。内々に諜報員を募って、私は選ばれたうちのひとりってこと。私、小さい頃から都会に憧れてたのよね」
その言葉が意味するのは、マナはとてもとても長い間、自己利益のためにトウヤのそばに居たということ。
嫌われ者の陰者であるトウヤのそばに居てくれたのは、好意でも慈悲でもなく監視して報告する任務のためだったのだ。
トウヤは足の力が抜け、文字通り膝から崩れ落ちた。公園に敷き詰められた土の砂粒が膝に痛かったが、それを遥かに凌駕するほど胸がぎゅうと締め付けられて痛かった。
「条例施行への貢献、学校の風紀を保つことへの貢献。さっき町長から、町からの推薦の約束をしてもらったわ。私、来年には都会へ行くの。だからさっきの……ふふっふふふ」
マナが堪えきれないといった様子で笑い声をたてる。
トウヤは地面に膝をついたまま不自然に笑うマナを見上げる。その目にもう力はなかった。
「ああごめん……ふふ。アンタと貧乏暮らしして子供作る? 絶対無理! あははははっ! だから、ごめんね?」
何が可笑しいのか目尻に涙まで浮かべて笑うマナは、もうトウヤの知っているマナではなかった。それでも悪あがきをしたかったのかもしれない。少しの希望を持っていたから聞いてしまったのかもしれない。
「……最後に聞いていいか」
「なに?」
「夕方、校門の前で俺たち……」
「あー……あれね」
「マナ、俺がかわいそうだって、泣いてくれたよな……? あれも嘘だったのか?」
風が吹きすさぶ校門の前で、確かに気持ちが通じ合った瞬間だと思ったのだ。
「風が強かったじゃない? ちょうど目に砂埃が入っちゃって痛かったのよね。泣いてるように見えた?」
「砂埃……」
そのあとだって、マナのほうからトウヤに身を寄せてきたではないか――
「ついでだから既成事実も作っとこうと思って。陰者のクラスメイトに無理矢理抱きしめられましたとか、なんとでも言えるのよ。そしたら条例施行も揺るぎないものになるでしょ? ちゃーんと滝重さんへの最終報告にあげさせてもらったわ」
マナがどこか楽しそうに見える。長年秘めていた自身の秘密を打ち明ける快感はいかほどのものなんだろう。
マナに恋心を告げた時の気持ちを思い出す。
けれど、あの高揚とは似て非なるものに違いない。そう、思いたい。
マナが重心を起こし公園の出口へと足を進める。
「そういうことだから、お疲れ様。ようやく私も臭っさい陰町臭とおさらばだわ」
去って行くマナの足取りから、未練などは微塵も感じられなかった。
一人になった公園でトウヤはしばらくピクリとも動けずにいた。
徐々に事実を飲み込んで来るとともに地面についた膝の痛みにようやく気がついた。
のろのろと手近にあったブランコに腰掛ける。
錆びた鎖がギィと苦しそうな音を上げた。
地面の一点をただ見つめた。まばたきも、眼球を動かすことすらも億劫に感じた。
空が白んできて、トウヤは自分が長い時間そこでそうしていたことに気がついた。
何かを考えているようで、何も考えてはいなかった。
考えることで傷が深まることを避けるように、脳が思考を停止していたのだろうか。
今トウヤに解るのは、帰る場所は陰町だけだということだった。
非常に緩慢な動作でブランコから腰を上げ、陰町方面へ足を向ける。歩こうという意識もなく、帰巣本能に体が動かされている。
力なく歩いていると陰町の入口が見えてきた。
そこには見知らぬフェンスが立ち並んでいる。
高さは3メートルほどあるだろうか。
編み目が細かく、いかにも頑丈そうなフェンスだ。
左右を見渡すとぐるりと陰町を覆うように果てしなく続いているようだ。
フェンスには人ひとりが通れるくらいの隙間が空いている。7時きっかりになったらここに最後の一枚を嵌めるのだろう。
作業員か警備員かは判らないが、数人の男性が時間がくるのを待っているようだった。
脱出しようとする陰者の姿は一切なく、とても静かだった。
やっぱり陰町の人間は腑抜けだと心の中で毒づくが、まさに自分もこれから封鎖される町にすごすごと引っ込もうとしている。
「俺も同じか……」
かすかに嘲笑し、全てを諦めきったトウヤがフェンスをくぐり陰町の中に足を踏み入れた。
間もなく7時を迎える。
作業員がフェンスを嵌める準備をし始めた時、それは起こった。
「…………なんだ?」
「地鳴り……? いや、雷か……?」
数人の作業員がキョロキョロと辺りを見渡す。
トウヤの耳にもその異様な音が聞こえた。
地を這うような、全身に響き渡る低い轟音。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――――――――
揺れは無い。地震ではなさそうだが、雷の燻るような音とも少し違う。
陰町や天美町、いや、風深市全体にも響き渡っていそうな異常音だ。
トウヤがふと足元に落ちる空岩の影の境目に目をやると、影がぶるぶると大きく揺らいでいるではないか。
その影の持ち主を見上げる。
「上だ!!!」
トウヤは声を上げた。信じられない光景を見た。
頭上に浮かぶ大きな岩――
天美の住人や、さすがに異変を感じた陰町の住人もわらわらと家の中から出てきて空岩を見上げる。
なんだあれは、どうしちまったんだ、落ちてくる――そんな声が飛び交い辺りは騒然とした。トウヤもどうすればいいのかわからず、呆然とその岩を見上げていた。
空からパラパラと砂粒が降ってきた。
空岩の震動によって落ちてきているものと、誰もがすぐにわかった。
それはすぐに大粒の砂の雨に変わった。
なかにはこぶし大ほどの固い岩も混ざっていて、住人は悲鳴を上げながら散り散りに建物の中に非難した。
トウヤも急いで近くにあった建屋の軒先に身を収める。
空からザァァァァと砂柱が降りて、まるで流砂の下に迷い込んだかのようだ。
霧のように砂埃が視界を埋め尽くす。ほんの1メートル先も見えない。
きつく目を瞑りじっとやり過ごしていると、一際轟音が大きくなり、砂柱も量を増した。
砂埃に包まれて息もしづらくなってきた。トウヤはさすがにこれはマズいと思ったが身動きがとれない。窒息死、そんな不吉な言葉が脳裏をよぎった時、ピタリと砂が止んだことに気がついた。
砂埃も徐々に収まり、うっすら視界が開けてきた。
求めていた酸素をようやく肺いっぱいに吸い込む。口の中がじゃりじゃりして気持ち悪い。
全身についた砂をパンパンと払っていると、ある違和感を抱いた。
足元を見る。
「影がない――――」
この砂嵐の前、確かにフェンスを越えて陰町に入ったはずだ。
100年間陽が当たらなかった鬱々とした地面に、さっき昇ったばかりの温かい陽の光が燦々と照っている。
トウヤは信じられない気持ちで勢いよく頭上を振り仰ぐ。
そこには空岩の姿がなかった。
その代わりに目に入ったのは、隣接する天美町の上に鎮座している空岩だった。
フェンスの向こうの天美町が暗く暗い影に覆われている。
空岩が移動したのか?
こんなことは100年間一度もなかったことだ。
陰町の人間も天美町の人間も事態を飲み込めるものなど居ない。
ひとり残らず空岩を見上げて呆然としていた。
しかしひとつだけわかることがある。
トウヤはゆっくりと口角を上げた。
神様という存在がいるのなら、これは陰町に生まれた人間への憐れみと慈悲といってもいいだろう。
これはチャンスなのだ。
トウヤは大きく息を吸う。
「条例施行の時間だ!!! 施行対象は空岩の下にある天美町!!! 封鎖しろ――!!!」
トウヤが新たに影になった天美町を指差し、ありったけの声を張り上げる。
同じく砂まみれになっていた作業員や警備員がハッと我に返り、職務を果たすべきと次々と天美町を囲うようにフェンスを設置し直していく。
天美町民はトウヤの号令に青ざめ、作業員の手を止めようと揉みくちゃになった。
陰町町民は作業員に加勢し、両町民入り乱れ怒号や罵声が飛び交い大混乱を極めた。
渦中で押し合い圧し合いしているトウヤの耳に、あの甲高い声が届いた。
「トウヤ!」
マナが人波に揉まれながらこちらに近づいてくる。
「やめて! 何言ってるのよ! このままじゃ私たち、閉じ込められちゃうじゃない!!」
悲壮にまみれたマナの顔を見て、トウヤは声を立てて笑った。
「空岩の下にある町は不潔で害があるんだったよな? だったら今空岩の下にある天美町は害だよなぁ? それを証明したのはお前だぜ、マナ」
「っ……」
「あははははははは!!!!」
言葉も出ないマナに、トウヤは腹を抱えて笑う。
そうしている間にも天美町はフェンスに囲われていく。
「ねぇ、トウヤ……!」
マナが人波の中からトウヤに手を伸ばす。
「私、小さい頃からトウヤのこと好きだった! 陰町って辛い環境の中にいながら腐らずに堂々と生きてて、尊敬してる! 条例のことはごめん……私、
必死に伸ばされたマナの手を、トウヤは無言で見下ろしている。
そしてゆっくりと手を差し伸べる。
トウヤの手がマナの白い手をそっと取った。
受け入れてもらえたのだと、マナの表情がぱぁっと明るくなったのも束の間だった。
トウヤはその手にペッと唾を吐きかけた。
「……え?」
「そういうの、気持ち悪いんだよ」
トウヤのその目に感情はなかった。
人混みに飲まれて遠くなっていくトウヤの背中にかける言葉が見つからないのか、マナがそれ以上トウヤを呼び止めることはなかった。
5年後――――――
天美町町役場の生活相談窓口。
そこに青年の姿はあった。
ネクタイを締めたシャツにスラックス。
『春田トウヤ』と書かれた社員証がネックストラップに揺られる。
左上に書かれた役職には『風深市役所 生活相談員』とある。
「トウヤくん、僕ら今日はついてないよね。こんな町の持ち回りが回ってきちゃうなんてさ」
「そう言うなよユウジ。ここの暮らしを間近で見れる良い機会じゃないか」
ユウジの声は学生時代よりも随分聞き取りやすくなった。決してトウヤのヒアリングスキルが上達したのではなく、ユウジの性格に変化があり、自信がついたからだろう。堂々とフランクに話すようになった。
彼らは普段、風深市の市役所で働いている。
陽が当たるようになった陰町は衛生環境が改善され、都市開発が進んでいる。
陰者と蔑まされていた住人も各々が活気づき働くようになり、病原菌と呼ばれることもなくなった。
陰町は旧陰町として、100年間止まっていた歴史を新たに刻み始めたのだ。
この日二人は生活相談員として影に覆われた町、天美町の持ち回り当番を勤める。
この町に常駐の相談員はいないのだ。
開所5分前。役所の玄関口には多くの町民が列を成しているのが見えた。
「あーあんなに並んでるや。みんな必死だねぇ」
ユウジが小馬鹿にした口調で町民を
「それだけここの暮らしに不満があるってことだろ。そりゃそうだよな、フェンスに囲われて町の外に一歩も出られないんだから」
トウヤはごく他人事のように言う。
「こりゃ今日は忙しくなりそうだね」
二人は淡々と開所に向けて準備を進めた。
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陰町外出禁止条例は予定通り……いや、数時間遅れで施行されたのだ。
正しくは陰町ではなく『天美町』外出禁止条例となって。
元々の条例の目的は不衛生である陰町に住む者が周辺地域に害を及ぼすことのないように執られる措置だった。
そして、条文にはこう記されていた。
空岩の下に町がある限り改善は認められない。
陰町住民は条文を武器とし、お日様の後押しを受けたかのように積極的に反撃に出た。
あの酒飲みのトウヤの父も、陰町町長と一緒に風深市市長に直訴した。内容はこうだ。
『空岩は天美町の上空に移動した。
これまでの陰町のように陰鬱と荒廃していくのだ。不衛生な環境から病気が
震源地が変わったのだ。
ならばその震源地を早急に封鎖する必要がある』
風深市はこれを
半日もかからないほどの鮮やかなスピードで事が進められたという。
天美町から逃げだそうとした町民が多数居たが、施行のために駐留していた警備員がそれを阻止した。
天美町民は自身達の手によって日常と自由を手放さざるを得なくなったのだ。
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「なるほど、屋根が」
トウヤはさほど興味もなさそうに返事をしながらキーボードを叩いた。
長机を挟んで座る初老の男性は背を丸め、ぼそぼそと陳情している。
「穴が空いてるもんで、虫が入ってくるんですわ。……雨の心配がないのが幸いっちゅうとこですが……」
「そうですね。最低限の生活は市で保障させていただくのが規則です。虫が入ってくるのは困りますね。では屋根の補修材を支給させていただきます……トタン屋根1枚になるかとは思うのですが」
「トタン……ですか。うちは一流の職人に作らせた高級瓦で統一しとるんですが」
「すいません、規則ですので。穴が塞げれば生活はできますよね?」
「…………はぁ、わかりました」
トウヤは座ったまま会釈をして、不服そうなままの男性を見送った。
姿が見えなくなるや、伸びをしながら小さく
「列途切れないなー……さすがに何十人も天美町のやつらと話してるとこっちが陰気になりそうだ」
「トウヤくん、トウヤくん」
隣に座るユウジがトウヤの脇を小突く。
「あれあれ、あの子、よく見たらマナさんじゃない? 次トウヤくんの窓口に来るみたいだね」
ユウジに促され列の先頭を見ると確かにその子はマナのようだった。
断言できなかったのはあまりにも容姿が変わっていたから。
トウヤの窓口に歩を進めてくるその人を、トウヤは凝視して確かめた。
腰まで伸びたボサボサの黒髪を後ろで一つにまとめている。カーディガンは毛玉で覆われ、ロングスカートはシワだらけである。化粧っ気はなく、かつてトウヤが吸い込まれそうになった唇は乾燥で荒れ果てている。
目が合うと、マナもトウヤに気づいたのか生気のない瞳が一瞬揺れた。
「どうぞ」
トウヤが席を促すが、マナは腰かけようとしない。
いっそう細くなった指がカーディガンを胸元でぎゅっと握り、心底居心地が悪そうだった。
「ぁ、あの、配給を……」
聞き取れるかどうかの細い声だった。
昔のような、凜と張りがあって鈴がころがるような声の片鱗はもうなかった。
「あ、ああ、配給ですね。では2週間分の食料と生活品を支給しますので個人IDを持ってBホールまでお願いします。別途必要な物品はありますか?」
トウヤは淡々とマニュアル通りの対応をとる。
自分が憧れたマナは幻想だったことを知っている今、目の前の変わり果てたマナにかける言葉を持ち合わせていなかった。
少しだけ可哀想だとも思ったが、手を差し伸べようなどという気持ちにはならなかった。
「いえ……ないです」
それだけ小さく言って、彼女は足早にトウヤの元を去って行った。
「ははは……」
なぜだか笑いたくなった。
何かがトウヤの中で終止符を打った気がした。
都会の大学でキャンパスライフを送る夢が叶わず、すっかりみすぼらしくなってしまった彼女と、公務員として安定した日常を手に入れた自分。
自分は報われたのだと、空岩から解放された5年目にしてようやく思えた。
次に窓口に訪れたのは天美町の町長、滝重であった。
やはりこの人も高級スーツを纏っていた頃とはかなり容貌が変わっていたため、すぐにその人とはわからなかった。
黄みがかったシャツはきっと最初は眩しいぐらいのホワイトだったのだろう。襟の
「今日はどうされましたか」
「……他でもない話だ。月々の最低保証金を引き上げてもらいたい。町民みな口々にこれでは足りんとこぼしている。今日はそれを直訴しに来たんだ」
滝重はすでに町長職を退いている。
それなのにこの町の陰気さに飲み込まれず、尚も町民のために動こうとする使命感はどこからくるのか。大したものだと思った。
そして、彼は目の前にいるトウヤが条例取り下げを直訴しにきたあの夜の少年だということには気づいていないようだ。
「保証金引き上げですか……すみません。それは生活相談員の管轄外でして。然るべき窓口を紹介します」
「ふん、たらい回しとはさすが役所仕事だな。こっちは生活がかかってるんだ。お天道様も自由も奪われて、病気にでもなったらどうしてくれる! 医者にかかる金もくれんのだろう!」
滝重は椅子にふんぞり返り、声を荒げた。
「滝重さん」
トウヤは真っ直ぐに滝重を見据え、そして満面の笑顔を見せた。
「それが天美町、いえ――"空岩の下"で暮らすということですよ。……わかっていただけますよね?」
あの夜、滝重がトウヤに放った言葉だった。
「キミは……」
滝重はトウヤがあの少年であることを思い出したのか、それともその不気味な笑顔に戦慄したのか--ゴクリと唾を飲み込んだ。
その後の調査によると、空岩は陰町と天美町の境となる側面を起点として180度ひっくり返ったのだということがわかった。
地上を襲ったあの砂柱は、長年に渡って空岩の上面で風化して溜まっていた砂だったことも。
突然空岩が動き出した理由は誰にもわからない。
空岩の下では今日も誰かが泣いていて、それを笑う誰かがいる。
「ユウジ、帰りにラーメン食ってかないか?」
17時を回った町役場の施錠をしながら、トウヤが箸で麺をすする動作をしてみせる。
「いいね! もう、陰気な顔ばっかり見て気が滅入ってたんだ。僕、麺大盛りニンニク増し増しで!……
ユウジがどこか勝ち誇ったような口調で言う。
トウヤはユウジのそんな口調を
「俺達は空岩に苦しめられてきたけど、その空岩に助けられたな」
トウヤは頭上の空岩を見上げた。
ユウジもそれに
そして2人はフェンスの向こう側にある日常へと戻って行った。
END
ソライワ 大路いつき @rice_kome
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