第3話
年の頃は60前後だろうか。町長の妻なのか秘書なのかは判別がつかない。
用件も聞かずにドアを開けてくれたのは、少年が息を切らして門に手をかけている姿にただならぬ様子を感じ取ったからだろう。婦人の
彼女は門の前のトウヤに駆け寄った。
「あなたどうなさったの? 走ってきたのかしら、すごい汗――」
肩掛けのショールを外し、腰ほどの高さの門越しにトウヤの汗を拭おうとしていた手をピタリと止めた。婦人は眉を
トウヤは息を整えながらも首を傾げた。
「あの? えっと、滝重町長は……」
「あなた陰町の子ね?」
低く鋭い声がトウヤの耳に刺さる。婦人の眉は吊り上がっている。先ほどとは別人のようだ。カシャンと、婦人はすかさず門の錠を落とした。
「滝重にご用のようですけれど、お約束は?」
「や、約束はないですけど……」
「明日からの条例施行の件で滝重は多忙なんですの。お帰りくださいな」
極めて事務的で固く厳しい声にトウヤは思わず怯んでしまう。
でもここで引き下がるわけにはいかない。明日の自由を守るためにここに来た。
トウヤは両手で門をガシッと掴み、
「その条例のことでお話があるんです! 町長とお話させてください!」
婦人は苦々しげな顔でトウヤに握られた門扉を見た。
「陰町の方にウチのものを触って欲しくないのだけれど……」
「どうしてそこまで陰町を毛嫌いするんですか? 俺たちをまるで汚いものや病原菌を扱うみたいに……」
涙が出そうになった。
クラスメイトからの冷遇は慣れたものだが、分別があるはずの大人に差別の言葉を向けられるのは
「あら……気づいてらっしゃらないの? お可哀想」
トウヤが首を傾げると、婦人の背後の玄関が開いた。
「どうしたんだ
「あなた!」
背が高く
白髪に覆われた髪はきちんと整髪料でまとめられ、鼻の下に髭をたくわえている。身につけているスーツはピシリと折り目がつきハリがある。きっと高級なものなのだろう。
その威厳あふれる
公子と呼ばれたこのご婦人は滝重の妻だったのか。
「この方、陰町からいらっしゃったようで……」
公子夫人が困惑したようにトウヤと滝重を交互に見る。
滝重は眉を寄せ、トウヤの前まで足を進めた。そこで滝重が軽く咳き込む。
「ん、んん! 失礼。陰町の方がわざわざお越しになったということは、条例のことかね」
「は、はい!」
トウヤは前のめりになって答えた。
「どうして町外外出禁止なんて条例が出たんですか? 陰町が嫌われてるのはわかるけどこんな仕打ちはちょっとやりすぎっていうか……。おれ、あ、いや僕たちにも人権がありますし、外出禁止になったら学校とか仕事とか行けなくなるし……」
滝重の刺すような視線が痛い。うまく言いたいことが伝えられているだろうか。
「あ、会いたい人に会えなくなるのは困るんです!」
「ふむ……」
滝重はトウヤの言葉を吟味するように顎に手をかけた。
その時、再び玄関ドアが開いた。
「おじさま、お客様ですか? 私そろそろ帰りますね」
リンと鈴が転がるような愛らしい声。肩までのサラサラのストレートヘア。スカートから覗く細い足。トウヤが見逃すはずもないその人。
「マナ!?」
「トウヤ!?」
マナは目を見開き心底驚いたという顔をしている。それはトウヤも同じだ。
どうしてここに、と聞きたいのはお互い同じだろう。
「ああマナさん、中座して申し訳なかったね。……お友達かね?」
滝重の声にはどことなく
「クラスメイトなんです」
マナは即答した。
クラスメイト。確かにトウヤとマナはクラスメイトだ。だがこの2人には幼なじみという関係性のほうがしっくりくるのはトウヤだけなのだろうか。
そして今日の放課後のあれは幼なじみという枠にもはまらないのではないかとトウヤは思う。なんだか、小さな針を刺したように胸がチクリと痛んだ。
「あの……?」
それよりこれは何事なのかと、マナが滝重を仰ぎ見る。
「ああ、この方……トウヤくんと言うのかね。明日からの条例に物申したいそうでね。ははは、なかなか度胸のある子じゃないか」
「そう……ですか」
マナは視線を所在なさげに泳がせる。
そうか。
トウヤの中でひとつの説が光明を得た。
マナも抗議に来てくれたんだ。
いつも先生に怒られるトウヤを陰で庇ってくれるように、この日も条例のことを抗議しに来てくれたんだ。
「マナ……来てくれたんだな。ありがとう」
トウヤは泣きそうな顔でマナに言った。
やはり自分はマナが好きだ。こんなにも心根の優しい女性が他にいるのだろうか。誰かのために行動ができる人は尊い。
「…………」
マナは少し驚いたような顔をして俯いた。
滝重がトウヤに向き直る。
「トウヤくん。自分の暮らしを守ろうと勇気を持ってここへ来たこと、その行動力に賞賛を送らせてほしい。陰町の町長は生活費が保障されるならと条例を丸呑み、その他抗議に来る者など1人も居やしなかったからね。まぁそのおかげでスムーズに話が進んでこちらは大助かりだったが」
「どうしてそんな条例を? 滝重町長が推し進めてるんですか?」
トウヤは焦燥をはらませながら問い詰める。
「ふむ。キミにはきちんと大人の話をしてあげないとお引き取り願えなさそうだ。本当なら応接室で丁重にもてなしたいところだが――」
「あなた」
公子夫人が咎めるように滝重の袖を引く。
「ああ分かっている。――すまないね、立ち話で許してくれ」
トウヤは特段気にせず了承する。
マナは何も言わずこの状況を静観していた。
滝重は会議でもするかのような重厚な語り口で言った。
「まず、この条例の発案は私を始めとした天美町民だ。私が天美町を代表して
「どうして――」
「ふむ。それなんだがね。キミたちの町、陰町が不潔であることが根本的な問題だ」
「確かにゴミは多いし沼も腐ってるけど、それがなんで外出禁止、なんですか?」
トウヤは納得できないと眉を寄せる。
「陽が当たらない不潔な場所には虫やカビや、時には病原菌などが発生することはキミにもわかるね?」
「……はい」
確かに陰町にはそこらじゅうにカビが
「それは
「はい。俺たちは好きで空岩の下に生まれたんじゃない」
それは揺るぎない事実であり、声を大にして主張したいことである。
「もちろんそうだろう。だが、生き方は選べるのではないかな」
生き方? 話が見えなくなってきた。
「沼の水が腐っているのなら水を抜いて土を乾燥させればいい。ゴミは所定のゴミ捨て場に捨てればいいだろう。収集車は巡回しているはずだ。ゴミも沼もなくなれば虫も湧かない。そんな簡単なロジックわからないわけがないだろう。キミも、大人達も」
理屈ではわかる。けれどそんなことをしている大人を陰町で見たことがなかった。
家に閉じこもって酒を飲む大人達の姿が脳裏に映る。
トウヤの中の『不遇な環境で可哀想な陰町』像が少し揺らいだ。
「
「……はい」
これには何も言い返せない。年齢にかかわらず多くの人がそうだ。
「君のようにせっかく骨のある若者が居たとしても、やはり陰町の子は陰町の子だ。陰町の常識に根っから染まっていたんじゃ何も変わることなんてできない。現に君は、あのカビとゴミと腐臭にまみれた陰町になんの疑問も抱かず生きているんだろう? 言いにくいんだが……君の体からあの町と同じ匂いがするんだよ。気づいていないだろう」
「匂い……?」
確かに腐った沼もといゴミの山のごく近くまで寄ったときは鼻につく匂いがする。だが陰町自体に匂いなどあったか。思い出そうとしてもわからない。
「慣れとは怖いものだとつくづく考えさせられるよ。君たち陰者を見ているとね」
マナは……マナは否定してくれるだろう。
そんなことない、と滝重に口添えしてくれるはずだ。
「マナ――」
目線でマナに縋ると、彼女はトウヤと目が合う前に視線を地面に向けた。
それが拒絶であることは明白で、トウヤは門扉をつかんでいた手をだらりと下げた。
「陰町の者は病に冒されていると天美町では何年も前から囁かれていることでね。みな揃って無気力、無関心、無感動。そんな自堕落な病が天美町にも足を伸ばしてきたらと、町民はビクビクしていたんだ。そしてその匂いだ。移りでもしたらたまらない」
滝重の言葉が、水の中にいる時のようにくぐもって歪んで聞こえる。
マナの拒絶。なにかの間違いだと信じたかった。
ぼんやりした頭に入ってきた滝重の話はこうだ。
条例について何年も前から画策があったが、噂されている病について研究がされてきたわけではないため可決までには至らなかった。
だがここ数年で、陰者の異常行動についてのデータが十分とれたという。
陰者の素行の悪さは目を見張るもので、反抗的、暴力的、モラルに欠ける行動、それらはおそらく病が引き起こす情緒不安定からくるものだと状況証拠がいくつも上がった。
天美町民にデータ収集の協力者がいたそうだ。
陰町に不穏な病原菌ありと市が認め、条例施行に至ったそうだ。
トウヤはようやく現実に舞い戻った頭でそれらの言葉を
反抗、暴力――そんなことは陰町で聞いたことがない。
どちらかというと天美町の奴ら――そう、窓ガラスを割ったことを陰者になすりつけるようなクラスメイト――素行の悪さならアイツらの方が何枚も上手だろう。
「陰町の人は悪に走れるほどの気力なんて無い。無気力だって、滝重さんがいま言ってたじゃないですか! 矛盾してる!」
トウヤは声を荒げるが、滝重はそれを意に介さない。
「私からお話できることは以上です。さあ、お引き取りを」
滝重が身を翻すが、トウヤは逃がすまいとさらに声を張る。
「条例を撤回してください! こんな理不尽な条例が施行されてたまるか! お願いします!」
トウヤはなりふり構わず頭を深く下げた。
地位も権力も何も持たない1人の少年が
けれどもそれしかできることがないから、トウヤはそうせずにはいられなかった。
滝重が足を止め振り返る。
「……残念だが私も天美町民を守る義務がある。嫌ならば陰町を出ればいい。……もっとも、陰者に部屋を貸す奇特な家主が明日朝7時までに見つかれば……だが」
「そんな……!」
そんなことができたらとっくにしている。
今までも陰町を出ようとした者は何人もいた。だが、陰町出身者を受け入れてくれる部屋貸しは存在したためしがなかった。
だから陰町町民は日なたで生きることを望んでも叶うことがないのだ。
「トウヤくん」
絶望を顔に貼り付けているトウヤに、滝重は重たく告げた。
「"空岩の下"で生きるとは、そういうことなんだ。わかってくれたまえ」
滝重と夫人はそろって家の中へ姿を消した。
トウヤはしばらくその場に
「トウヤ……」
マナが門扉を開け、滝重邸の敷地を出る。
そうだ、マナが居たんだ……。
さきほど視線を逸らされたのは気のせいだったと思いたいくらい、目の前にいるのはいつも通りのマナだった。
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